黒い卒業証書

冷門 風之助 

その1 高名な依頼人

 彼が俺の『乾宗十郎探偵事務所いぬい・そうじゅうろうたんていじむしょ』を訪れたのは、東京が梅雨入り宣言したばかりの、6月も半ば過ぎの陰鬱いんうつな土曜日の正午のことだった。


 これでもう三日間雨が降り続いている。


 洗濯物は乾かない。


 前日、調子に乗って呑み過ぎた酒が、まだ頭に残っている。


 ふらつく頭をやっとなだめて、やっと事務所に降りたのがその時刻。


 しかし仕事なんかする気にならない。(とは言っても依頼が来なけりゃ、何もすることはないんだが)


 俺はソファに横になって、冷蔵庫の中のソーダ水を飲み、氷嚢を額に乗せ、ソファに横になっていた。


 そこにいきなり、


『彼』が入って来たのである。


 彼は最初、事務所のドアをノックした。

 俺の事務所は、大抵誰もノックなどせずに、いきなりドアを開けるのが多い。

 ところが彼はノックをし、俺がソファから頭を少し上げ、

『どうぞ』といい、初めてドアを開けると、そこで再び直立不動の姿勢をとって、礼をしてから入って来た。


(どこかで見た顔だな)

 と思い、しばらく考えてから、

『ああ』と気づいた。

 一度に酒がどこかに吹っ飛ぶ。


 ベージュのジャケットにアイボリーのTシャツ、紺色のズボン。スラリと高い身長。

 どこかで見た顔どころじゃない。


 今や日本国内、いや、国外での方が有名で、一昨年はエミー賞の助演男優賞、去年はゴールデン・グローブのやはり助演男優賞を獲得。そして今年はついにオスカーの助演男優賞にまでノミネートされたほどの、そう所謂いわゆる『国際派スター』、本田俊介、30歳である。


 俺はソファを勧めると、最後に残ったブルマンを淹れて彼の前に置き、契約書を出すと、型通りの契約に関する説明をした。


彼は両手で包むようにカップを持ち、コーヒーを一口だけ飲み、傍らに置いていた大ぶりのバッグから茶色の革表紙のアルバムを出し、あらかじめ付箋を挟んであった頁を開き、一枚の写真を見せた。


 彼が見せたのは、クラス写真と言う奴だろう。生徒と教師が三列で並び、かしこまって写っている。


『これが僕です』

 

 最初に彼が指さしたのは、写真の三列目の一番端の、お世辞にも冴えない顔をした少年だった。今の本田俊介とは似ても似つかないと言ってもいいくらいである。



 最前列の真ん中に、銀縁眼鏡をかけ地味なこげ茶のスーツ姿の痩せた背の低い女性がいた。


『中学3年のです。名前を小林直子こばやしなおこ・・・・って言います』


 彼は、


『担任教師』、『先生』という言葉の間に、妙な間を置いた。まるで何かが奥歯に引っかかったような、そんな感じに思えた。


『で?この小林先生を』


『探して欲しいんです』


『理由は?』


『それを言わなきゃダメですか?』


『金を貰って仕事を請け負う以上、依頼内容は把握しておかなければならないんでね』


『もう一度逢って、渡したいものがあるんです。それが趣旨です』


 彼の言葉にはでもでもない。そういう意志がありありと感じられた。


『僕は愛知県の出身です。生まれ育ったのは知多半島の付け根にある小さな町で、

 幼稚園から小学校を卒業するまでそこでした。その時代はとてものんびりしていてよかったんですが・・・・』


 俊介はそこで一旦言葉を切り、それから後は何か苦いものでも吐き出すような口調で話し続けた。


『中学入学と同時に、僕は父親の仕事の関係で名古屋市内に引っ越すことになりました。そこからが行ってみればの始まりだったんです』

 

 彼の入ることになった中学はちょうど新設されたばかりで、極めて教育熱心な学校だった。


 新設校はどこでもそうなのかもしれないが、付近にある幾つかの中学と『追いつけ、追い越せ』で、とにかく一人でも多く高校へ受験させなければならないとい校風が強かった。


『・・・・あまり自慢出来るわけじゃないんですが、僕はその頃あまり勉強が出来なくて、おまけに運動も大したことはなかったので、学校ではいつもいじめの標的にされていました。』

 

 俊介はコーヒーを一気に飲み干し、二杯目のお代わりを頼み、俺が淹れてやると、少し口を付けて、唇を噛みしめながら言葉を吐きだし続けた。



 






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