Scene 33. 確執と、親愛。

浮遊椅子に腰掛けた父親は、以前見た時よりも痩せたようだった。


弛んだ頰は一層痩け、ガウンの襟元から覗く喉は腱だけが高く浮き上がり、他の部分は深く落ち窪んで影が深い闇のようだ。分厚いガウンの袖から覗く腕と手は、シミと皺だらけの薄い皮が骨に張り付いているだけに見える。髪は殆ど無く、地肌の露わになった頭皮に、真っ白な毛が疎らに絡みついているだけだった。


今にも朽ちてしまいそうな身体で、落ち窪んだ眼下の奥の紺碧の眼光と、きつく結ばれた薄い唇だけは豪奢なガウンと同じ威厳を保ち、室内に異様な存在感を醸し出していた。きっとこの部屋に足を踏み入れた誰もが、この老人こそがこの場を支配していることに気づくだろう。その見たものを平伏させる事の出来る、貫ぬくような視線は、今はヴァースだけに注がれていた。



何も言わずにただ自分を睨む父親を、ヴァースもただ見つめ返していた。予測出来ていた反応だ。歓迎されるなどとは、微塵も思ってはいなかった。それでも微かに湧いてくる落胆に、ヴァースは気付かない振りをした。


それよりも、ますます増したようなその姿の心許なさに混乱する。この人は、こんなに小さかったか。この人間は、本当に俺の父親か。そんなはずはないと、幼い頃の自分の記憶が叫んでいるような気がする。


「つもる話もあるだろうからな。私はこれで失礼するとしよう。あとは親子水入らずでな。」


まだヴァースの手を握って肩に手を置いたままだったサンドヴァーは、ヴァースの方に向き直って握った手を再度振った。ヴァースの逞しい肩に置いた手を、揺らすように力を込めて握ってから離す。


「またな。」

「ええ。」


サンドヴァーが部屋を出ようと、もう一度ヴァースの肩を叩いたその時、ナジルが口を開いた。


「よく顔を出せたものだ……」


掠れた、しかし明らかに嫌悪の込められた声だった。その声にサンドヴァーは一度ナジルの方を振り向き、ヴァースに向き直って視線を合わせると、やれやれ、とでも言うように僅かに肩をすくめて首を振って見せた。握手していた手を離して、そのまま部屋の外へと歩いていく。ヴァースを残して、足音は遠ざかって行った。


室内に沈黙が落ち、親子は噛み合わない意図の視線で暫し見つめ合った。弱々しくかすれた、しかし確固たる意思を持った声でナジルが言った。


「何をしに来た。」

「明日から復任になった。一度挨拶をと。」


端的に答えながら、ヴァースは自分の帰艦は既にフラー艦長から伝えられているのかも知れないと考えていた。自分からは連絡はしていない。しかし先ほどのサンドヴァーの様子だと、それ程驚いてはいないようだった。


「ふん。今更お前を呼び戻すなど、あの狸めが……」


ヴァースから視線を外して、ゆっくりと忌々しそうにナジルは言う。浮遊椅子を操って、扉の方へ向かいながら続けた。


「お前と話すことなど何も無い。去れ。裏切り者が。」


扉の前で、ナジルを通すために一歩横に移動したヴァースを通り過ぎる時に、ナジルはもう一度だけ憎らしげに口を開いた。


「地上なんぞで時間を無駄にしおって……」


ナジルは扉を潜り、階段ではなくて二階の奥へと向かって行ったようだった。扉の前で控えていた使用人の足音と、掠れた咳き込む音が聞こえてきて、少しずつ遠のいて行った。




程なくして、イヴァンが熱い液体の入ったカップとソーサーを乗せた盆を持って書斎にやって来た。扉の近くにいたヴァースに声をかけてから、一礼する。


「ジェイスン様、お飲み物をお持ちいたしました。」


何処を見るでもなくただ突っ立っていたヴァースは、小さく溜息をついた。


「……ありがとうイヴァン。頂こう。」


言ってからイヴァンに歩み寄って、盆からソーサーごとカップを受け取る。扉の枠に軽く寄りかかって、ヴァースからすれば随分華奢なカップをソーサーからつまみ上げると、その中で揺れる熱い液体を啜った。


「親父の容態は?」

「安定しているようです。一年ほど前から椅子を頻繁に使われておりますが。」

「そうか。」


イヴァンの淹れてくれた飲み物を味わいながら、ヴァースは書斎の中を眺めた。両脇にはガラス張りの棚があり、骨董品である紙の本がびっしりと詰められていた。紙の書物は珍しく高価で、富の象徴でもある。ヴァースは一階の応接間にも別の本棚がある事を思い出した。それはここの物よりも装飾に凝ったもので、来客にこの家の豊かさを見せる為のものであったはずだ。果たして父親は、これらの本を全て読んだのだろうか。自分が地上で夢中で読み漁ったように。先程の父親の言葉を思い出して思う。だとしたら、皮肉なものだ。


(地上なんぞで……)


ここにある本の殆どは、地上で書かれたものであるはずなのに。



「親父は屋敷をどうするつもりなんだ。」


勘当同然の自分に譲る事は想像出来なくて、ヴァースはイヴァンに聞いた。


「存じ上げておりません。しかし遺言は手配されているようでした。」

「親父が?」


ヴァースは自分で聞いておいて、あの父親が死後の準備を行っている事を意外に思った。誰よりも富と権力に固執したあの人物は、死すら受け入れそうに無いように思える。自分がその姿を見た時に感じた様な心許なさを、父親も自分で感じているのだろうか。


「急に来て悪かったな。」

「……とんでもございません。」

「使用人はあの二人だけか。」

「マリアが時折来ております。若い者と私では細かいところが行き届かず。」

「はは、お前は十分細かいと思うがな。これはお前が淹れてくれたんだろう?」

「恐れながら。」

「だろうな。美味いよ。」


表情を緩めて、ヴァースは馴染みの執事を労った。飲み終わったカップを、イヴァンが持ったままの盆に戻す。


「ご馳走さん。」


ヴァースは書斎を後にして、階下に向かった。イヴァンがその後を追う。階段を降りながら、イヴァンが聞いた。


「士官住居区にお戻りで?」

「ああ、今の俺にはあちらだけで十分だ。」


ヴァースは結婚していた頃は、この区画に別邸を持っていた。その家はもう売ってしまってある。独り身である今は、職位に割り振られている専用の住居で十分だった。


「こちらにいらっしゃる際には、」


階段を降りたところでイヴァンが言い、ヴァースは振り向いた。姿勢良く盆を片手に持ったイヴァンは、ヴァースの目を見て言った。


「いつでも歓迎いたします。」


お前が歓迎しても、親父は許さないだろうが。そう思いながらも、ヴァースは古い友人の気遣いに対する喜びを素直に口にした。


「ありがとうよ。」


顔を上げてから、イヴァンがまた口を開いた。


「恐れながら、ジェイスン様、」

「何だ?」

「地上での滞在は、随分とご自身に宜しかったのでは。」


言われて、ヴァースは少し驚いた。


「何故そう思う?」

「恐れながら……」


言いずらそうなイヴァンを庇うように、ヴァースは促す。


「構わないさ、言ってくれて。」

「上手く申し上げられないのですが……」


少し考えるような間があった。


「雰囲気が柔らかくなられました。それに、ご機嫌が良いようで。 かつて無いほどに。もちろん、決して皮肉などではなく。」

「……はは、そうかもしれないな。」


答えながら、ヴァースは笑った。


「フラー艦長にも似たような事を言われたよ。良い顔をしてると。軍人らしくは無いと、釘を刺されたがな。」

「いいえ。」


イヴァンはきっぱりと否定して言った。


「結構な事でございます。本当に。」


しみじみとそう言いながら、イヴァンはまた頭を下げた。それを見るヴァースの顔は、自然と緩んでいた。



通路の終わりの玄関で物音がして、ヴァースは振り向いた。イヴァンも頭を上げる。少し大柄な高齢の女性が、室内に入って来たところだった。ヴァースと目が合って、驚きに声を上げる。


「ジェイスン様!?」

「マリアか。」


マリアと呼ばれた太った老女は閉まった扉の前で固まって動けなくなっているようで、ヴァースは自分から早足で歩み寄った。親愛の情を込めて、彼女を抱きしめる。老女は涙を浮かべて両手を広げ、抱擁を受け入れた。


「ああ、ジェイスン様!本当に、貴方なのですね……お戻りになられたのですね!」

「久し振りだね、マリア。」


マリアはヴァースが幼い頃からナジルに使え、ヴァースが結婚していた際にも、家の事を手伝ってくれていた家政婦だった。


「ああ、良かった!本当に!心配していたのですよ!」

「すまなかったな。元気そうで何よりだ。」

「ああ、ジェイスン様!」


喜びと安堵を言い尽くせないようで、マリアは何度も声を上げた。背中を何度も叩いてやってから、ヴァースはゆっくりと離れた。


「今日はもう帰らなければいけない。また来よう。」


マリアの肩をなでながら、ヴァースはイヴァンに視線を戻して言った。イヴァンは何処か満足そうにこちらを見ている。


「ええ、ええ!いつでもいらっしゃって下さいまし!!」


涙を拭いながら、マリアは叫ぶように言った。ヴァースはもう一度、抱擁し甲斐のある体格のマリアを抱き締めてから、玄関に向かう。


「じゃあな……親父の事、宜しく頼む。」


そんな事を言える立場では無いだろうがな、と思いながら、ヴァースは庭に出た。



内側からは認証も必要なく格子戸は自動で開いて、ヴァースは敷地の外に出た。格子戸はやはり自動でゆっくりと閉まる。振り向くと、玄関の外に立って頭を下げるイヴァンとマリアが格子の隙間から見えた。マリアが先に頭を上げて、ヴァースに向かって手を振った。訪れた際に案内をしてくれた若い使用人も出てきて、頭を下げた。ヴァースは片手を上げて、それに答えた。


ヴァースはおもむろに、屋敷の二階を見上げた。書斎にも、寝室であるはずの部屋の窓にも、人影は見えなかった。父親は床に着いたのだろうか。


(これが貴方の棺か、親父。それが貴方の望みか。)



そんな風に思っていると、また受付のAIが起動したようで、視界を遮るようにしてアバターが現れた。


『ご用件をどうぞ。』


ヴァースはそれには答えずに、黙って立ち去ったのだった。

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