赤毛の魔女
八咫鑑
夜明け
連なった山々が黒々とした影を落とし、ぐるりと囲むようにそびえている。
その奥、その上には、仄かに暗い灰生地のキャンバスが広がり、誰かが急いで描いていったような白い絵筆の痕がてんてんと残っている。
空気はどこまでも澄んでいてすがすがしく、チョコミントのような清涼感がこの空間一体に満ち満ちている。
樫や欅が山々にそって背を伸ばして点在し、紫陽花や菖蒲、椿に千日草、桔梗がそこかしこで期待につぼみを膨らませていた。
ヒバリやシジュウカラ、ムクドリたちはみな梢に立ち並び、その瞬間をいまかいまかと待ちわびている。やれむこうの茂みでは、あそこの木々の狭間では、すぐそこの苔がむした大岩の陰では、ヒグマが、アカシカが、ネザーランド・ドワーフが、けだるげに、眠そうに、目をぱちりと見開いて、その瞬間を待っている。
彼女は毛並みがつややかでじんわり暖かいロシアンブルーを膝に抱き、くゆりくゆりとひじ掛け椅子に身をゆだねる。
木々はざわわざわわとせわしげに落ち着かず、眼前に広がる湖は、その湖面を小刻みに震わせながら山々の影を湛えている。あたかもこの渓谷全体がその瞬間を、劇場で開幕を待つ観客よろしく、心待ちにしているようだ。
―――その瞬間は、満を持して、しかし唐突に訪れた。
遥か彼方、湖の水平線が破れ、ぽつりとしろい光点がこぼれ上がる。
そこから濃いクリーム状の温かさが空を、淡いはちみつ色の波紋が水面を、するすると勢いよく滑り出した。
空は今、あの彩度に掛けた灰白色の衣をはぎとられ、見る見るうちに本来の、あの透き通った青々しい色に塗りかえられていく。
湖は今、一層そのさざ波を打ち震わせ、波打ち際に、水辺に、そして草地森林にまでその温かく心地よい光を押し広げていく。
涼しさに満ち、凛とした態度で鎮座していた空気は、次第にその血色をあたたかいものに変え、心地よいリズムを放ち、柔和な音で、光で、この谷全体を優しく包み込んだ。
カケスがいち早くそれに気づき、はじまりの到来を声高に告げる。
ヒヨドリがさぁーっと葉間から飛び出し、アメマスはぴたぴたと湖面を滑り、子連れのハツカネズミがてちてちと散歩に出掛ける。セイヨウオオカミが大あくびをかまし、メンフクロウはくるりと背を向けねぐらにもぐりこんだ。
彼女はにゃーんと甘える膝の子を下ろし、ゆるゆると立ち上がる。そして、それらすべての暖かい音と光のカクテルを一身に受け、んっと伸びをする。
くるっと振り返った彼女は、湖畔にたたずむその小さな彼女の棲み処に向かい、てくてくと歩き出した。芝や小石が、少し背のある草花が、彼女の脛を、ふくらはぎを、膝をくすぐり、ゆったりとした風に乗ったモンシロチョウが、彼女をかすめながら優雅に浮遊している。
棲み処に戻った彼女は、つややかになびく赤毛をまとめ、もわもわと湯気の立つマグを片手に窓辺に寄りかかり、湖面のきらきらをその麗しいガラスのような青い目に反射させ、いましがた活動を始めたこの渓谷を見渡す。
朝が来た。
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