梅雨、彼は透明の愛犬を連れ

名取

第1話


 彼はゆっくりとタバコに火をつけ、ひとしきりその煙を吸ったり吐いたりして一服を楽しんだあと、「で、君が僕の犬を殺したの」と言った。




「はい?」


 僕はとりあえず、へらっと、愛想笑いのようなものをした。何かの冗談かなと思ったのだ。正直、最近の冗談なんてどれも攻撃的すぎて、直接的すぎて、笑う気にもなれないのがほとんどだったけれど、でも目の前の彼はあまりにもひょうひょうと突拍子のないことを聞いてきたので、とにかく、僕は笑った。僕のあまりにも情けない笑い顔とも泣き顔ともつかない表情に対して、少しでも同情と憐れみを感じ、人違いだったかと立ち去ってくれないかと期待して。

 しかし結果から言って、彼は、その場から一歩も退くことはなかった。僕は笑いをしまった。彼は表情一つ変えずタバコを捨て、黙ったままの僕の髪を片手で掴む。


「君が殺したの?」


 僕にそんな心当たりはなかった。殺すどころか、最近犬なんて全く見かけていない。けれど、僕はどうしようもなく億劫で、別に心の何処かで面倒事を望んでいたわけでもなかったけれど、気づいてみれば「はい」と、やってもいない罪を認めていた。頬に雨が当たる。梅雨入りはつい先週のことで、けれど曇天も冷たい風も、すべてがくだらなくどうでもよかった。この目の前の冴えない男にしても、犬のために何をそんなに躍起になっているのか、ひたすら馬鹿らしかった。


「殺しましたよ。それがどうかしたんですか」


 大体、犬を殺すような馬鹿が、こんなところにいるわけないじゃないか。ここは大学図書館の前だ。大学生にも色々いるが、わざわざこんなところを使うのは、真面目な大学生か講師しかいない。

 彼は、ゆっくりと手を離した。


「そう」


 その時不意に、足元にひんやりとした風が吹く。まとわりついて、離れない。

「君に殺されたにしては、君に懐いてるね」

 足元を見たが、何もない。一体何なのかと思っていると、彼はまた新しくタバコを出して吸い始める。雨はほんの小雨で、火が消えてしまうことはなかった。ふうと息を吐くと、薄い唇をこじ開けるように開き、やっと言葉を紡いだ。

「僕の犬は、死んで、透明になってしまった。でも僕には見えている。飼い主だから。それで、僕の犬を殺した奴を探してる」

「何故僕だと思ったんです?」

 いちいち面倒なことをさせたがる講師の宿題をやるために図書館に来ていた。曰く、「図書館を使わない大学生は三流」なのだそうだ。面倒で仕方が無いが、他の授業に比べたらよほど楽なので、単位のためにここへ来た。で、課題をし終えて外へ出たところ、この男に呼び止められて、今に至る。


「……」


 彼はひとしきり悩んだポーズをとると、力なく笑い、おもむろに僕の方にタバコを向けた。ふわりと煙が揺れ、雨で滲み、男の輪郭ごと揺れたような、そんな錯覚を起こす。


「だって君、犬とか殺しそうな顔してるじゃん」

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