ナンテン姫

ナルハヤ

第一幕 黄金の国の姫

第1話 異国の空

 西暦1468年(応仁二年)初夏、イベリア半島。

 その空は蒼く、どこまでも抜けるように高かった。


 天道は南天にあり。

 なだらかに連なる丘の表面に張り付くように伸びる一本の道は、立ち上る陽炎の中で揺らめいている。

 

 街が近いのであろう、馬車の轍が刻み込まれた街道に沿って、疎らながらも人家が現れ始めた。


 白い石積みの壁に開けられた窓は小さく、強い陽光を拒むかのように見える。

 この地に暮らす者であれば、太陽が最も力を増すこの時間に外を出歩くことはない。


 その中にただ一人、街道を行く者がいた。


 その姿は陽炎の揺らめきに形を失い、白い光に塗りつぶされて色すらも判然としない。ただ、道に落ちる小さな影だけがその存在を印している。


 道の中央をゆっくりと進んでいたその影は、突然滑るように端に寄り、また、そのまま前へと進み続ける。


「「ずいぶんと急いでおる」」

「一騎…… ですな」


 一つの影に二つの声。もし、その影のすぐそばにいたならば、そんなやりとりが聞こえたであろう。


 それから暫くの後、道を駆ける蹄の音が遠くに聞こえてきた。

 その影は歩みを止めると、ゆっくりと後ろを振り返る。しかし、音の主の姿はまだ見えてはこない。


 また暫し刻が経ち、ようやく丘の上に騎馬が姿を現わすと、そこには髪をなびかせて漆黒の馬を駆る美丈夫の姿があった。


 年の頃はまだ二十に届かぬというところであろうか、腰には長剣を下げ、精悍と言うにはまだどこか幼さの残る面立ちに、その見かけとは不釣り合いな逞しい腕が、捲り上げた袖口からのぞいている。


 飛ぶような速度で駆ける馬の動きに合わせて鞍から少し腰を浮かせ、しなやかに手綱をさばく姿は、人と馬とをまるで一つの生き物であるかのように見せている。一体となった人馬は一心に街を目指して駆けていた。


 しかし突如、騎手が両の膝に力を込めて鞍を締めつける。並の乗り手であれば馬上から前に放り出されていたかもしれない。


「おいっ、どうした、ベンダバール」

 突然速度を落とした馬の名を呼び、様子を伺う。


(足を痛めたか?)

 軽い駈け足にまで速度を落とした馬の足運びに注意をやるが、何処も痛めた様子はない。


「おいおい、頼むぞベンダバール、急いでいるんだよ、どうしたんだ?」

 鞍上の美丈夫、ハビエル・ヒメネスは、濡れて漆黒に輝く馬の首を撫でながら問いかける。

(汗をかいてはいるが息は上がっていない、私の指示を無視して止まることなんて今までなかったのに)


 ベンダバール《疾風》と名付けられたこの馬は、生まれたときからハビエルが面倒を見ている。

 何事にも動じない気の強さに加え、類い稀な力と速度に秀でた血統を持つこの馬は、カスティーリャの王家より下賜されたものだ。


 それを武勲の誉れ高いヒメネス家が軍馬として育て上げた若駒は、その優れた血筋の中においても稀に見る優駿として名高い。それだけに、この挙動は解しかねた。


 ついには常歩ナミアシとなったベンダバールはハビエルの疑問に答えるように軽く嘶くと、鼻先を道の脇に向けて立ち止まる。


 ハビエルはそのとき初めて、そこに何者かがいることに気が付いた。


 駆けているときには誰もいなかった。いや、気が付かなかっただけなのだろうか。ハビエルは狐につままれたような心持ちで、そこに現れた者をただ見つめている。


(キノコ……のようだ)

 それがハビエルの第一印象であった。


 もし彼が、大陸の遙か東の果ての、さらに海を渡った先にある島国について少しでも話を聞いたことがあれば、印象は異なったかもしれない。しかし、市女笠に垂れ衣という、遠い異国の旅装束はハビエルの知識の外にあり、彼が初めて目にするものであった。


 ハビエルは訝しげに目を細めると、忽然と姿を現したキノコに見入る。


 背丈から見ると子供であろうか。草を編んで作られた大きな笠を被り、その裾から下げられた長い薄布で頭から膝の辺りまですっぽりと包まれているため、正体がつかめない。そして足下には見たこともないような白い布製の靴を履き、さらにその下に藁で編んだ靴底を縛り付けてある。


 改めて全体を見直す。

(やっぱりキノコだな、これ)


 ハビエルが再びそう思ったとき、ベンダバールがそのキノコに歩み寄る。見知らぬ者に対して決して見せることのない愛馬の挙動に戸惑いつつも、興味が勝ったハビエルは馬に任せて様子を見ることにした。

 が、次の瞬間、たずなを握る手がぴくりと動く。


 キノコの体を包むように垂らされた薄布の隙間から小さな手が差し出され、ベンダバールの鼻先を撫でたのだ。


 この馬は心を許した者にしか鼻先を触らせることはない。無理に触ろうとすると、手加減はするものの、かなりの強さで噛みつかれる。


 そのため、いつしかベンダバールの鼻先に触れることが勇気を示すための行為として身内の間で広まり、今では挑戦者が後を絶たない。


 つい先日もベンダバールの鼻先を触ろうとして、ハビエルの父と、兄と、弟二人が被害に遭ったばかりだ。


 それは構わない、むしろ少しいい気味ではあったのだが、見知らぬ者にまで怪我をさせては大変と、慌てて手綱を引こうとした。

 しかし、ベンダバールがその小さな手に噛みつくことはなかった。


 それどころか、小さな手は、今度は両手でこれでもかと言うほど鼻先を撫で回しており、ベンダバールはというと、これも嬉しそうに自分の方から鼻先を手に押しつけている。


 ヒメネスが馬上であっけにとられていると、キノコの笠の下から声が聞こえた。


「「良い馬じゃ……」」


 少女の声だった。

 だが普通の声ではない。

 その声はいくつもの音が重なって発せられたような不思議な響きを持っていた。それを耳にした瞬間、ハビエルは自分が荘厳な聖堂に佇んでいるかのような錯覚をおぼえ、心が震えるのを感じた。


「良い馬であるな」


 固まったハビエルを引き戻したのは、次に発せられた言葉であった。その声には先ほどの不思議な響きはなく、ごく普通の少女のもののように聞こえた。


「……あぁ、ありがとう、それと、私の馬が大変失礼をした。許してほしい」

 ハビエルがそう答えると、少女は、その大きな笠の縁に手を添えて僅かに持ち上げ、馬上を見上げた。


 被り物の影で判然とはしないが、薄布越しに見える小さな口元は微笑んでいるように見えた。


 その表情に惹かれるように、ハビエルが馬上から笠の下を覗き込もうとしたその時、ベンダバールがぶるんと一度鼻を鳴らす。

 それはまるでハビエルの行き過ぎた行為を窘めているようにも見えた。


「おっと、いけない、先を急がないと。失礼するよ」

 我に返ったハビエルは手綱を引き、ベンダバールの首を街の方に向けると、風変わりな少女に軽く会釈をしてから馬の腹に軽く踵を入れる。


 ベンダバールはそれに応えるように天を仰いで一度嘶くやいなや、風のように駆け出し、あっという間に丘を越えて見えなくなってしまった。



◇◇◇



「「素晴らしい馬であった」」

 不思議な響きを持つ少女の声が笠の下から発せられる。


「そうですな、あれほどの馬はわが国にはおりませぬ。ミンにもいるかどうか。それに騎手の方もなかなかのものと見受けました」

 若い男の声がそれに答える。


 いつの間に現れたのか、そこには一人の男が立っていた。


 背は高くもなく低くもなく、痩せてもいなければ太ってもいない、これという特徴の見られないその身を土色の筒袖と括り袴に包み、その顔を覆う同じ色の頭巾からは涼しげな目だけがのぞいている。


「「勝てるか」」

 少女の言葉が凜と響く。


「腰のものを見るやに、その重さを利用しての打突を得意とするのでしょう。あの体躯、腕の太さをもってすれば、重い武器を用いてもある程度は俊敏に動くこともできそうです。それより何より、あの身のこなしの柔らかさは厄介。まともに正面からぶつかれば手こずるかもしれません」


「「それ程までか」」

「それ程までです」


 暫しの間の後、少女が尋ねる。

「「……正面からと申したか」」

「申しましたが……」

 男は、垂れ衣越しにその少女の口元がほころぶのを感じた。


「「では、普段通りであればどうじゃ」」

「後れをとることはないでしょう」


「「であろう、だが、それもつまらぬ。もしその時がくれば正面から当たってみよ」」


「お戯れを、それは赤彦にまかせましょう。あやつであれば力比べでも技比べでもあの若者には負けはせぬでしょう」


「「赤彦か……それも面白そうじゃな。で、やつは何処いずこに」」


「次の宿で我らを待っております、間もなく会えるでしょう。それはそうと、姫、ご発声には気を付けられよ。先程の若者の様子を見ると姫のきょうはこの国の者にも作用するようです」


「「許せ、あまりの馬のすばらしさに、つい言葉が出てしまったのじゃ。知らぬ者の前では声に響が乗らぬよう気を付けるとしよう」」

「それがよろしいかと」


 その姫と呼ばれる少女の声には不思議な力が秘められていた。

 その声音は人の心に浸み入り、そして優しく掴む。

 さらに念を込めれば人の心をも動かすことも出来るその声のことを、少女の供回りの者達は「きょう」と呼んでいる。


「「響を抑えるのには力を使う、普段はそのまま使うが問題はないな」」


「今更ですな、我々は姫の御襁褓おむつも取れぬうちからそのお声には慣れ親しんでおりますゆえ。ただ、響を強く乗せるときには前もってお知らせ下さい、心の準備がありますので」

 男は相変わらずの平坦な声で答えた。


「「御襁褓おむつとか申すな。そんなことより黒丸、この地にはどれほどの間留まるのじゃ?」」

 姫と呼ばれた少女は、少し文句を付けてから話を変えた。

 笠に覆われているため表情は見えないが、その声からは少しばかりふくれた様子がうかがえる。


「姫、我らが国を発ってから1年余り。旅の道中で見聞を広めてまいりましたが、この辺りで少し腰を落ち着けるのが良いかと存じます」


「「この地に何があると……」」

 姫が尋ねる。


「気配があります。国の動く気配が」

「「ほぅ…… それは楽しみじゃ」」


 薄布越しに桜色の唇が微笑んだ。

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