嵐の旅行記・パリの真ん中で与作を歌う。

北風 嵐

第1話 

 1ドル100円を切って、80円台とか。隔世の感である。1ドルは360円と教えられたのは小学校の社会の時間だった。社会に出ても1ドルは360円であった。だからズート1ドルは360円と思っていた。


 戦後、続いた固定相場制度の時代は、1971年8月15日(終戦の日と偶然同じ)、米国のニクソン大統領は自国のドル流失を防ぐため、ドルと金の交換停止を発表した(ニクソン・ショック)。それを受け、1971年12月通貨の多国間調整(金1オンス=35ドル→38ドル、1ドル=360円→308円に切り上げ)と固定相場制の維持が行われた。しかしこのスミソニアン体制は長続きせず、1973年2 - 3月に日本を含む先進各国は相次いで変動相場制に切り替えた。


 1985年秋のプラザ合意によるドル安誘導政策で急激に円高(円高不況)が進行した。プラザ合意発表直後に円ドル相場は20円ほど急騰し、1985年初には250円台だった円相場が1986年末には一時160円を突破した。

 円相場の解説ではない。何年に初めて海外に行ったのか思い出す為である。急激な円高。プラダ合意。そうだ、1985年(昭和60年)外国に初めて行ったのだ。そして、この急激な円高を実感したのである。わずか10日の間に240円が200円になったのを憶えている。円高はその分海外ではモノが安く買えるのである。何かすごく得したような実感と、パリではどこに行っても日本人が多かったのを憶えている。


***


 私は大学、農学部を出て、県庁の試験に落ちて、神戸の婦人服の小売店に勤めていたのである。そこの社長がアメリカのショッピングモールの見学ツアーに行った。アパレルのレナウン(懐かしい)の営業マンが餞別を持ってきていたのを思い出す。海外に行くとなるとそんな時代だった。


 格安で海外に行けると社長は言った。それは今の格安ではない。1ドル360円の時代である。パリから日本に観光便がある。帰りはほとんど空だという。その便を使うツアーがあるという。それを使えば安く行けるというのである。勿論、シーズンではない。冬真っ盛りの便である。それを使って幹部社員をヨーロッパに行かせてやるというのであった。まずは、仕入れ係のKさん。


ヨーロッパ土産に、マキシーの皮のロングコートを買ってきて、ヒールを履いて(彼は身長にコンプレックスがある)三宮を闊歩した。「どうだったパリ?」と訊くと「やたら寒かった」とだけ返事が帰って来た。


 翌年行く候補として、社長の奥さんのお相手として僕が抜擢された。それは僕が千里店で万博のコンパニオンを相手に、英語でお商売してるのを社長は見たのである。「北風君、君ぃー、英語いけるやん」になった。「ええ少し」と僕は答えた。

 実は、寸法直しに4日かかるが上手く言えなかった。「もし(if)、我々に4日という日が与えられるなら、それをfix出来る(can)であろう」と話したのであるが、外人の女性は「???」であった。その内、彼女が教えてくれた。

「It takes four days.」。それで中学2年生の英語の教科書を引っ張り出して、使えそうな文を丸暗記した。

「ほかの色見せて」「アナザーカラー?オー、イェス」

「これ負けて」「ノー、ディスカウント」場面が限られているのである。


 奥さんと初めての海外に20代で行ける筈だった。彼女が出来た。結婚が決まった。勤め先を辞めて実家に帰って家業を継ぐことになった。外国旅行に行って、すぐ辞めるはなかろうと辞退して、他の人に行って貰うことにした。

 奥さんは「北風君と一緒に行けるのを楽しみにしてたのにぃー」と言った。

綺麗な奥さんであった。奥さんは幾分僕の(中学2年)英語をあてにしてた節があった。僕も折角の奥さんと一緒の海外初旅行を楽しみにしていたので、残念であった。奥さんと、自分の奥さんになる人を天秤にはかけられない。でも、又、すぐに行けると思った。

 次が実現したのは11年後であった。

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