ハンムラビ王のバビロン古王国(〜紀元前1595年)

 アッカド、ウル、バビロン。どれも歴史的地名でいうところの「バビロニア」で誕生した国家である。しかし塩害等により土地が痩せ、文化や技術も周辺諸国に追いつかれつつあったのかもしれない。メソポタミアの中心としての地位は、にわかに流動性を増しつつあった。


・ハンムラビ法典


 さて、その前にハンムラビ法典について述べる。法典とはいうが、過去の判決例をまとめた判例集というのが定説だ。しかし慣例上、ハンムラビ法典の名で呼ばれている。そのため法的拘束力の存在は怪しいが、模範的判決集としての役割を担ったのだろう。これは、『ウル・ナンム法典』『リビト・イシュタル法典』『エシュヌンナ(法典)』などに倣って、後継的な内容になっている。たとえば『もし人が……ならば……すべし』という書き方である点、具体的な事例別に書かれた世俗法であり、抽象性はないという点で共通性が見られる。


 さて、ハンムラビ法典の目的は、社会正義の実現らしい。

 

 強者が弱者を損うことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、アヌムとエンリルがその頂を高くした都市バビロンで、その土台が天地のごとく揺ぐことのない神殿エサギラで、国(の民)の(ための)判決を与え、国(の民)の(ための)決定を下すために、虐げられた者に正義を回復するために、私は私の貴重な言葉を私の碑に書き記し、正しい王である私のレリーフの下に置いた。(補足筆者、中田一郎,1999年,72頁)



 と書かれている。

 何故世界最古の法典でもないのに、ハンムラビ法典が有名なのか。それは完全に復元されたという点では唯一だからである。

 ハンムラビ法典は、目には目を、歯には歯をで知られている。しかし原典に同様の記述はない。正しくは以下のとおりである。

「人もし、自由人の眼を傷つけたる時には、彼自身の眼も傷つけられるべし」

「人もし、同階級の人の歯を挫きたる時には、彼自らの歯も挫かるべし」

  つまり犯罪者には犯した犯罪と同等の報いがあって然るべしだということだ。故意でないのならば金銭(銀)の賠償で許される場合もあると法典にはある。また身分による刑罰格差も、ハンムラビ法典の特徴だ。俗に言われるような、復讐を認めた野蛮な法律、というわけではない。


 ちなみに内容を大きく区分すると、以下のようになる。


 ①土地貸借・灌漑

 ②商業と金融(即ち大麦と銀の貸借)

 ③動産と人身の貸借・家借

 ④家族・相続・奴隷

 ⑤犯罪・過失・その他


 実際にハンムラビ法典を読んでみたいならば、『https://ygu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=855&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1(注1)』に訳があるので参考にしていただきたい。

 またキリンビールの公式サイトによれば、「酒場の女主人がビールの販売価格をごまかしたら溺死刑」「もし反逆者が酒場に集まっていたら、酒場の女主人は彼らをとらえて王宮に連行しないと死刑」「女性の聖職者が酒場を開いたり、ビールを飲むために酒場に入ったら火あぶり刑」という記述もあったらしい。



・バビロン第一王朝の政治


 こうした法典の分析や考古学的資料から、当時の統治形態についてもある程度わかってきている。

 バビロン第一王朝のハンムラビ時代、王朝は拡大した領土を人々に貸し付けて、兵役と労役を義務付けた。そうした義務はイルクと呼ばれる。

 灌漑に欠かせない運河の開発管理や行財政は中央集権的官僚組織が担う。貿易は国家に任命された商人のみがおこない、神殿組織は王の下で祭儀と経済を補佐した。

 地方の重要都市では中央から派遣された知事が行政権を握った。一方で議会——と言ってもおそらく富裕層による——であるプフルムが下級の民事、行政問題を処理したとされる。これはその土地の慣習的な制度に配慮した結果であろう。

 なお、古代メソポタミアにおける貨幣の役割を担ったのが銀である。これを扱ったのは先に述べた交易担当の商人であったが、都市国家時代と領域国家の時代ではその重要性が異なった。メソポタミア一円を支配する大国の交易商はそれだけの権力を持ち、地域の商人や企業家を傘下に収める商人共同体(カールム)を組織することになる。結果として貧富の差が拡大し、国家の租税負担や兵員調達能力を落とした。これは土地の私有を認めた際ローマに起こった現象と似ている。

 そこで借金を無かったことにするという勅令、いわゆる徳政令(ミシャルム)が古バビロニアでは頻繁に発布された。


 ハンムラビ王の死後、バビロン第一王朝はカッシート人の侵入により衰退していく。ちょうど、アムル人の侵入に悩まされたウル第三王朝に近いように思う。最終的にはインド・ヨーロッパ語族の侵入者であるヒッタイトによって滅ぼされることとなった。その後は領内に移住してきた異民族であるカッシート人が後を継いだ。これもシュメール人からアムル人へと交代したウル第三王朝の終焉と似ている。バビロン第一王朝の終焉に関しては、またの機会に述べるとしよう。


【注釈】


1. 佐藤 信夫「古代法の翻訳と解釈(1) : ハンムラピ法典の石柱に 刻まれた楔形文字全文の原典その翻訳および解釈の 方法について」 山梨学院大学法学論集 47巻 pp98〜354(2001-03-26) URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000854/

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