メソポタミア統一戦記(紀元前1772年〜1763年)

 メソポタミア三国志が古アッシリアの崩壊で終結し、小国分立状態に陥ったメソポタミア。このまま均衡状態が続くかと思われた、しかし農耕民族が分裂した隙を見逃す遊牧民ではない。かつてウル第三王朝を襲った東方の遊牧民が、再び彼らに襲いかかる。



・外界からの侵攻(三国志的にいうなら遊牧民匈奴の侵入)


 紀元前一七六五年、均衡を破ったのはメソポタミアの如何なる国家でもなく、イラン南西部の遊牧国家エラムだった。そう、ウル第三王朝を滅亡に追い込んだあのエラム人の国である。

 エラム王国は自国からほど近いバビロニア地方の雄、エシュヌンナへの侵攻を画策し、メソポタミア諸国にそれを通達した。この計画にハンムラビ率いるバビロンやマリ王国が参加し、東西北三方から包囲する形になった。エシュヌンナ王国は同年に、歴史の表舞台から姿を消し……たわけではないまでも、二度と主役に躍り出ることはなかった。

 この戦いでハンムラビはウビとマンスキムの二都市を得て勢力を拡大。一挙にメソポタミアの一大勢力として力をつける。

 しかしエシュヌンナを滅ぼした余勢を駆ってエラム王国はバビロンへの侵攻を決めた。ウビ、マンスキムの二都市返還(そもそも奪ったものなのだが返還といったら返還)を要求したのである。この侵攻に際してエラム王国は周辺諸国と連合軍を結成し、確実に勝てる戦力を整えていた。もはや記録は少ないものの、メソポタミア史に残る一大決戦だったのは間違いない。


 さて、戦争の経過を見ていこう。

 まずバビロンは単独で立ち向かうことの無謀を悟り、連合に参加していない諸国へと同盟を求めた。応じたのはマリ王国だけであったが、その戦力がのちに戦局を大きく動かすこととなる。なおシュメール地方の雄であるラルサ王国は静観を決め込んだ。

 バビロンは戦力の劣勢から籠城線を選び、ハンムラビ王の軍勢はバビロンの城壁内に引きこもった。そうしてマリ王国からの援軍を待ったのであるが、あろうことかマリ王国軍はバビロン救援よりも、マリの同盟市ラザマ救援へと向かった。ハンムラビはこの時マリ王ジムリ=リムに不信感を抱いたかもしれない。しかしそれは一瞬のことだった。

 ジムリ=リムは敵の予測しない場所へ向かうことで奇襲効果を狙ったのか、はたまた最初から『それ』を狙ったのかはわからない。ただラザマ攻略に向かっていたエラム側の将軍アタムルムは、予想以上の敵に驚き本隊へ援軍を要請した。しかしエラム王国軍にとってはバビロン攻略が最重要なため、そこからの兵力引き抜きはできないと断られてしまう。切羽詰まったアタムルムは、こう申し出てきたのだ。

——我が軍はこれより、バビロン側に味方する。

 アタムルムの裏切りによって戦況は逆転した。エラム王国は撤退を余儀なくされ、圧倒的に劣勢だったバビロン・マリ連合軍が勝利を手にしたのである。


 

・「紛争の渦中にある国は必ず、周囲の友好関係にない国に中立を求め、友好国には武力支援を求める。優柔不断な君主は、当座の危険を避けようとして、たいてい中立の道を選び、たいてい失敗する。」 ニッコロ=マキャヴェリ著 君主論より抜粋


 メソポタミアがイラン勢力に支配される事態を防いだバビロンとマリの同盟は、メソポタミア内での地位を確固たるものとした。もはや中小国ではなく、それぞれバビロニア、アッシリア地方の大国として認知されたのである。

 対してこの戦争で中立を決め込んだラルサはどうなったであろうか? 勿論領土の荒廃や損失はなかったが、それ以上に守るべきものを失った。即ち、戦略的なパートナーである。

 対エラム同盟を断ったことに加え、略奪行為を行っていることでバビロンには当然敵視されている。その同盟国マリも同様だ。

 敵の敵は味方理論でいけばエラムとは友好関係を築けるはずだが、結局戦争には参加していないため同盟関係には行き着かない。

 勿論中立が最善の策という場合もないではないが、この場合はそうではなかった。中立によって勝利の分け前を得ることも、敗者と強固な絆を結ぶことも叶わなくなってしまったのである。


 一七六三年、バビロンとマリの連合軍はラルサ征討の号令をかけた。一挙にメソポタミアを制圧せんとしたのである。

 とはいえシュメール地方の支配者であるラルサは強く、そう簡単に敗北することはない……とラルサ王国は考えたかもしれない。しかしメソポタミア全土に轟いたバビロンの名声に対して、見物者のラルサはあまりに無力だった。王国の各地で反乱が頻発したのである。首都ラルサが陥落しラルサ王国は滅亡した。

 これでもなお、ハンムラビ率いるバビロンが手を休めることはなかった。エラム王国の敗北によってすぐに独立を勝ち得たエシュヌンナを滅ぼし、何故か友邦たるマリ王国にも侵攻、これを破壊する。(理由は不明)

 こうしてハンムラビはバビロンという小国の王だったにもかかわらず、わずか一代でメソポタミア統一を成し遂げたのである。


 こうして誕生した古バビロニア王国だったが、勿論メソポタミアを統一したからといって敵がいなくなるわけではない。東方のエラム王国をはじめ、まだまだ四方に敵がいた。アラム人によるメソポタミア第三の統一王朝は、果たしていつまで生き残ることが出来るだろうか。はたまたすぐに滅んでしまうのか。こう言われると、統治者なら自国の防衛を優先しがちになる。

 しかしハンムラビは違った。もしかしたら、これまでの国家は外圧よりも自然災害や求心力の低下によって滅んで来たことを見抜いていたのかもしれない。

 そして古バビロニア王国、もといバビロン第一王朝で、ハンムラビ王のもと、恐らく世界一有名であろう判例集が作られる。


——–『ハンムラビ法典』だ。

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