アッカド帝国の興亡(紀元前2334年〜紀元前2154年)
有力な都市国家が周辺の都市国家を支配下に置き、地域国家分立体制を築き上げていた初期王朝時代のメソポタミア。そこに突如として侵入してきた民族があった。
シュメール王名表に七人の名を残す、一説には世界最初の帝国を建国した民族。アッカド人である。
・サルゴンの帝国
メソポタミアを初めて統一したのは、長らく都市国家を運営してきたシュメール人ではなく、流入してきたセム語系民族アッカド人だった。時期に関しては紀元前二十四世紀説と、二十三世紀説があるが、本作では後者を採用する。『アッカド』とはメソポタミア南部、バビロニアを二つに分けて、その北部を指した名称だ。アッカド帝国の名称はこの地域名と、首都アッカドに由来する。
紀元前二十四世紀のことだ。シュメール都市国家群の北西部に、キシュという都市国家がある。そこでサルゴンという少年はそこで王に水を運ぶ杯持ちという仕事(王室専属のため高い地位)をしていた。高い地位で働いていた彼はおそらく兵士たちとの交流に恵まれただろう。サルゴンはもしやその関係を活かしてか、「貴方こそ王にふさわしい」も唆されてか、キシュ王から王位を奪った。
サルゴンは手に入れた王権を盤石にし、かつ富を手に入れるため、肥沃で文明的なシュメール地方へと侵攻する。
そしてウルクの戦いにおいて、当時シュメール最大の地域国家を築いていたルガルサゲシ(詳しくは前々話)を捕らえ、その領土を併合した。曲がりなりにも連合としてシュメールを統一したその後も対外征服を推進し、遂には『全メソポタミアを統一した』のである。こうしてアッカド帝国が誕生した。サルゴンはその後も肥沃な三日月地帯統一へ向けて征服戦争を繰り返し、シリアやカナン(パレスチナ)など、レバント地域に四度侵攻し、その支配体制の確立のため三年を費やした。記録によればキプロスやアナトリア半島にも進出したという。
国家的統合はアナトリア半島から肥沃な三日月地帯にかけての貿易を促進した。さらに定期郵便サービスのある道路も開通するなもして、アッカド帝国は経済的にも発展したのである。たったの一代で、「四方領域」ことアッカドを囲む北のアッシリア、南のシュメール、東のエラム、西のアムル人の地を服属させたサルゴンは英雄視され、彼の像は勝利を象徴していた。
晩年には東のエラム人国家であるアワン王朝の侵攻も受けたが、その時の様子が後世の
バビロニアの文書に残されている。
『彼が年老いた時には全土が反乱を起こし、彼のいたアッカドの街を包囲した(しかし、)彼は攻勢に転じて彼らを打ち負かし、敵を圧倒してその大軍を粉砕した』(Wikipediaより)
また別の反乱についても記録されている。
『高い国のSubartu(アッシリアの山岳民族)が今度は攻撃されたが、彼らは彼の軍に服従した。サルゴンは彼らの居住地に入植し、彼らを激しく殴打した』(Wikipediaより)
このようにサルゴンは晩年、数多くの反乱に悩まされつつもこれを鎮圧し、栄華を極めた。しかしこの反乱は次世代の混乱の前兆だった。
・息子達の帝国
紀元前二十三世紀。英雄サルゴンの後を継いだのは彼の息子リムシュだった。彼の時代にはシュメール諸都市、ウル、ウンマ、アダブ、ラガシュ、デアなどが相次いで反乱を起こしている。特にウルの反乱は印象的だ。ウルはルガルサゲシの時代にウルクの支配下に置かれていた。それがウルクによる支配を脱した。そしてアッカド帝国の支配下になってから一世紀足らずで、反乱を起こせるほどに復興したのだ。この反乱は失敗するものの、後のシュメール王朝の中心はウルとなる。
リムシュが暗殺されると、王位は兄であるマニシュトゥシュに移った。リムシュの尽力によって彼の時代は反乱もなく、アッカド帝国が最も安定した時代だったと言われている。そのためマニシュトゥシュは積極的に南方遠征を行い、三十二の諸王(首長国連合)とのペルシャ湾で行われた海戦に勝利するなどした。文化的にも、女神イナンナを奉る寺院を再建するなどした。しかし彼も弟と同じく暗殺され、王位は息子であるナラム・シンに移った。
・四方領域の王
紀元前二千二百五十四年、王位を継いだナラム・シンは世界全体の王を意味する『四方領域の王』の称号と帝位を得た。王の交代に伴って、いくつかの反乱があったもののこれを鎮圧。地中海やアルメニア、アナトリア半島にまで侵攻して、アッカド帝国の最盛期を築いたとされる。
またナラム・シンは自らをアッカドの神だとし、アッカド王として初めて神性を主張した。(シュメールの影響を受けたのだろうか?)
彼の帝国は経済的にも軍事的にも高度だったが、特筆すべきはアッカド語圏がシリアからエラムまで拡大し、エジプトを除く肥沃な三日月地帯全域に広がったことである。公的な文書はシュメール語からアッカド語に置き換えられた。後にシュメール人王朝が復活するとはいえ、母語をシュメール語からアラム語、アッカド語などに切り替えたシュメール人はもはやシュメール人ではなく、「突如消えたシュメール人」の一因となったと言われている。つまり存在が消えたわけではなく、言語が消失するとともにアイデンティティ(民族としての特徴)を失ったということだ。
言語、軍事、経済で栄華を極めてアッカドの帝国。しかしてその繁栄は突如として終わりを迎えることになる。
・崩壊し、風化した帝国
紀元前二千二百十七年、ナラム・シンの後を継いだのは彼の子、シャル・カリ・シャッリ(全ての王を意味するが、自己神格化はしなかった)だった。王が交代した理由とも考えられる二つの危機が、アッカドを崩壊させることになる。一つが異民族族の侵入、もう一つが干ばつである。
進入してきた異民族とは、記録にある限りではアムル人、フルリ人、そしてグティ人だ。シャル・カリ・シャッリは西方の都市バサル(現ジェベル・ビシェリ)でアムル人と戦って勝利すると、イラン高原南西部ザグロス山脈から侵入してきたグティ人の王シャッラクにも勝利した。とはいえそれに呼応するようにシュメールでも反乱が勃発する。そして勝利したにもかかわらずグディ人の侵入は止まなかった。さらに干ばつによって対処する能力すら弱まってしまい、もはや帝国の維持だけで手一杯だった。紀元前二十二世紀に入って七年ほど立った時、シャル・カリ・シャッリが粘土板で撲殺される。
アッカド『帝国』はこれを以って消失した。シュメール王名表によれば、彼の後「誰が王で、誰が王ではなかったか」という言葉が続けられている。もはや帝国は無政府状態に陥っていた。アッカドは都市国家に転落したのである。(サルゴン王朝時代の終焉)
・アッカドの運命
無政府状態の中で、アッカドの王は三年で4人も交代した。イギギ、イミ、ナヌム、そしてグディ人とされるイルルである。
なんとかシャル・カリ・シャッリの息子、サルゴン王朝のデュデュが権力の座に返り咲くと、アッカド南部の都市国家に対して再征服を開始したが、目立った成果は上がらなかった。
シュ・トュルルの時代には行政機関を整備して一定の国力を回復したものの、グディ人の侵入に対抗できず、敗北した。サルゴン王朝は断絶し、帝国は完全に朽ち果てたのだ。
都市アッカドは完全にグディ人の支配下とされ、グディ王朝の首都となる。紀元前二千百五十四年から、紀元前二千百三十年までこの状況を続いた。
・アッカド帝国とは何だったのか?
帝国が崩壊した要因にはもちろん異民族の侵入、オリエントを襲った記録的な干ばつなどの要因があるが、何より権力の集中が不十分だったことにあるだろう。シュメールの都市国家の自治権が強すぎて、王としての権力を振るえなかった。この点でアッカドは帝国と言えず、だからこそ『最古の帝国はアッシリア』と世界史の教科書には書かれている。
未だ都市国家の力が強かったメソポタミアには、帝国を形成する土壌が備わっていなかったのだ。
アッカドは世界史の教科書で言及はされるものの、日本での知名度は低い。とはいえ世界最古の元号を作った国という意味で、日本との関係性を見出すことができる。王の在位期間中の各々の年の名前が、王によって執り行われた重要な儀式の後に名付けられるようになったのだ。日本の年号の元は古代中国で武帝が始めたものではあるが、少しは親近感が湧くのではなかろうか。
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