揺らぐ月 2


「――……ごめんなさい、テオ。その……私、……帰りたくない」


 促されるがまま椅子に腰掛けたシェリアは、意を決したように言い放った。

 その言葉に、テオドールはただただ面食らうしかない。

 喉奥で引っ掛かったまま、言葉が出て来なかった。


「……迷惑、かもしれないけど、……でも」


 俯きがちに言葉を紡ぐシェリアは、ひどく不安そうだ。

 膝の上に置かれた手が小さく震えている。

 どう話そうか。ずっと考えていたのかもしれない。


 彼女の様子に、テオドールにはまた迷いが生じていた。

 連れて行くべきか。それとも、帰らせるべきか。


「私……私ね、テオと――」


 震える声と共にシェリアが顔を上げたその時、ノックの直後に扉が開かれた。

 自然と、彼女の言葉はそこで途切れる。


「やっぱりここにいた」


 扉を開いたのはカディアンだ。

 少し不満げにしているのは、自分を抜いて話し合いがされていると思ったせいだろう。


「僕抜きで何の相談だよ」

「ご、ごめんなさい。カディ……お部屋にいなかったから」

「馬車のとこにいたんだよ。テオドールは知ってたはずだけどな」


 反射的に立ち上がったシェリアは、申し訳なさそうに眉を下げた。実際に、彼女は声を掛けようとカディアンの部屋を尋ねたのだろう。"寝ているみたいだった"ではなくて、いないと判断したのだから。


 視線を受け止めたテオドールは「すまない」とタイミングの悪さを詫びた。


「別にいいけど。それで、何の話?」


 少し不機嫌そうなカディアンは、そそくさとシェリアの傍まで寄っていく。

 そして、傍らのテーブルから椅子を引っ張り出した。ベッドに腰掛けているテオドールの前で、シェリアとカディアンが椅子に座る形だ。


「うん、あの、あのね。カディ、私……」

「戻るんだよね?」


 言いにくそうにしているシェリアに対して、カディアンは強引に言葉を被せた。

 それによって、彼女は口を閉ざしてしまう。


「危ないことなんて、もうしなくていいよ。シェリアは魔女じゃないんだから――そうだろ?」


 カディアンが同意を求めたのは、テオドールに対してだ。

 再び視線を受けた彼は、ゆっくりと息を吐き出した。


「……ああ」


 そうだ。それだけは明確だ。彼女は、――。

 ならばこれ以上、彼女を苦しませる必要はないだろう。


 見知らぬ土地で、慣れない場所で。

 盗賊にまで襲われて。あるいは迫害に怯えて。

 そんな生活を、この年端もいかない少女にこれ以上は強いられない。


 テオドールは、ぐっと奥歯を噛み締めた。


「シェリア。お前は、……」


 何を望むのか。何がしたいのか。

 どう思っているのか。どう考えているのか。


 ずっと知りたかったことだ。ずっと、言って欲しいと思っていたことだ。


 だが、今は。


 今は、それら全てを敢えて聞かないことにした。


「お前は――普通に、生きるべきだ」


 絞り出すような声で告げたテオドールは、自分の身勝手さを痛感した。

 帰りたくないと言ってくれた彼女に対して、今のテオドールはそれを良いと受け入れられない。


 カディアンの主張が、もっともすぎた。


「……テオ……」


 囁くような力のない声が、ゆっくりと空気の中に紛れ込む。

 立ち上がりかけていたシェリアは、ほどなくしてゆっくりと椅子に重みを預けた。


 それは、その決断は、テオドールとの別れを意味している。


「どうして……」


 シェリアは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 カディアンは少しぎょっとして、それから慌てた調子で彼女の手に触れる。


 膝上に置かれていた小さな手が、少年の手の下で微かに跳ねた。


「テオドールだって巻き込みたくないんだよ。シェリアのためだよ!」

「私の……」

「そうだよ。シェリアだって、もう怖い思いなんてしたくないだろ?」


 カディアンの言葉に、ェリアはとうとう目を伏せ、そのままうつむいた。

 ぐすっと涙を堪えながら、下唇をきゅっと噛み締めている。


「大丈夫だって、アジュガのみんなはひどいことなんかしないから。いつだって、歓迎してくれるよ」


 彼女の涙が、旅の辛さによるものだと受け取ったカディアンは、努めて優しく声を掛けた。黙ったままでいるテオドールは、彼が間違った受け止め方をしていることさえ指摘ができない。


 ずっと聞きたいと思っていた。

 彼女が何を望むのか知りたいと思っていた。

 しかし、勇気を振り絞った彼女の主張を、テオドールはまさに己の手で殺してしまったのだ。


 だが、どうかそれが最善であって欲しいという気持ちもある。


「……少し、この町に滞在しないか」

「ここに?」


 唐突な提案に、カディアンは目を丸くしてテオドールを見た。


「ああ。休む時間も必要だろう。移動ばかりでは、さすがに身体が辛いはずだ」


 それは本音だった。

 アジュガに戻るにしても、陸路では難しいのだから海路を使うより他にない。

 そのためには港がある街に行かなければならないが、それもまだ少し先だ。


 それに、もう少しくらい、彼女と過ごす時間が欲しかった。

 自分の女々しさに、テオドールは今すぐにでも外に飛び出したい気持ちだ。


「そう、だよな……そうだな。ごめんな、シェリア。しばらく休んで、それから港に行こう。それでいい?」


 カディアンが申し訳なさそうに問い掛ける。

 シェリアは、ただ小さく頷くことしかできなかった。


 そのまま沈黙が落ちる。


 数分ほどすると、カディアンが耐え切れないといった調子で立ち上がった。


「……僕、朝ご飯になりそうなもの、何か買ってくるよ」

「ああ、頼む」

「シェリアも、ここで待っててくれよ。な?」


 なだめるように彼女の肩を軽く叩いたカディアンは、急ぎ足で部屋から出て行った。バタバタと、忙しない足音が扉の前から遠ざかっていく。


 取り残されたテオドールは、両手で顔を覆っているシェリアを見つめた。


「……」


 深く息を吸い、そして吐いてテオドールも立ち上がる。

 だがそれは、立ち去るための動作ではなかった。

 ゆっくりと彼女に近付いて、その足元に片膝をつく。


「……シェリア。すまなかった」

「テオ……?」


 唐突な謝罪に、シェリアは不安そうに顔を上げた。

 その双眸は濡れていて、鼻先も薄らと赤みを帯びている。


 罪悪感に胸を圧迫されたテオドールは、思わず漏れそうになった溜め息を押し殺した。


 いったい何から謝ればいいのか。

 それすらも、分からなくなってくる。


「宿場町でのことだ。……酔っていたとはいえ、ひどい言い方をしてしまった」

「……ううん。いいの」


 彼女は相変わらず首を振る。

 いつものように、大丈夫だと言う。

 何度聞いても、いつ聞いても、いくら確かめても彼女はそう言うのだ。

 自分から離れようとするほど、深く傷付いたはずなのに――テオドールは少女の銀色を見つめた。


「……よくない」


 酒場から連れ出してから半年。

 何度も何度も、彼女に我慢を強いて、隠れるように求めて、連れ回してしまった。


 幾度、恐ろしい思いをさせてしまったのかすら分からない。その度に彼女は、こうやって首を振る。


 そして言うのだ。大丈夫だと。


「よくないんだ。シェリア……大丈夫な、はずがない」


 この半年、言えなかった言葉を口にした。

 大丈夫ではないと知りながら、ずっと旅に同行させていたことも全て――。


「……シェリアが、魔女ではないことは分かっている。だから、……もう、巻き込みたくないんだ」

「テオ……」

「身勝手なことばかりを言ってすまない。巻き込んだのは、確かに俺だ」


 あの夜。あの酒場で。

 彼女に、魔女だと言わなければ。

 もっと早く、彼女はカディアンと再会していたかもしれない。


 テオドールは、詰まりそうになる声を何とか絞り出した。


「……俺と共にいれば、謗りを受けることも多い」

「それは……」


 シェリアは否定もできずに眉を下げた。

 魔女の情報を集める以上、魔女を知る者に近付かなければならない。


 そしてそれは、シェリアが魔女であると誤解される機会を増やすことにも繋がる。


「俺は、……俺の復讐のためにお前を連れ回していた。魔女を見つけるきっかけになると思ったからだ。俺は、俺自身の目的を果たすためにお前を利用してしまった」


 テオドールはゆっくりと立ち上がった。

 まるで、懺悔をしている気分だ。いいや、間違ってはいないだろう。

 自分が彼女にした行為の数々は、責められるべきだ。


 罪を申し出て、その罪を言葉にして示している。だが、罪悪感は増すばかりだ。


「……お前は、静かな場所で暮らしてくれ」


 何と勝手なことだろうか。

 テオドールは、自分自身を殴りつけたくなった。


 自分の都合で彼女を連れ回した挙句、その罪悪感に耐え切れなくなって、自分は彼女に安全と平穏を願うのだ。それではまるで、今までと変わらない。

 目立たないように隠れることを強いて、我慢を押し付けていた時と何も変わらない。


 これは、エゴでしかない。

 テオドールは胸の奥に痛みを覚えながら踵を返した。


 ちょうど扉が開かれたのは、カディアンが戻ってきたからだ。

 立ち上がったシェリアは、彼と入れ違いで部屋から出て行くテオドールの背を見つめたまま、何も言えなかった。


 シェリアもまた、彼が苦しんでいることを知っていたからだ。

 過去のことも、魔女のことも、復讐の旅さえも、彼にとっては自らを傷つける刃になっている。それを知っていて、それでも傍にいたかった。


 堪えて耐えて我慢をして――そんなことは、彼も同じだ。

 魔女の話を聞く度に、その被害を知る度に、過去の傷を抉っているのは彼だった。


「……」


 バタンと乾いた音と共に扉が閉じられる。

 何があったのかが分かっていないカディアンは、困惑の色を浮かべてシェリアを見た。


「……私が」


 静かな室内に、シェリアの声だけが落ちる。


「私が……テオに、辛い思いをさせたの」

「違うよ!」


 その言葉に、扉へと向いていたカディアンの視線が彼女へと戻った。


「僕は魔女を見たことがないけど、君は魔女じゃない」


 揺らぐことなくそう告げるカディアンに、シェリアは視線を向けられなかった。ただただ、複雑そうな顔で、テオドールが出てしまった扉を眺めることしかできない。

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