02 手を伸ばす理由

 いしたきけいいちは校舎一階にある学食にやって来た。


 都会にあるおしゃなカフェみたいな内装だ。

 ダークブラウンのフローリングに、ワックスの光沢が残る木製のテーブル。高い天井ではファンが回り、至る所に置かれた観葉植物が景観に彩りを添えている。全面ガラス張りの向こうには園芸部が管理する庭園があり、季節の植物が赤い夕日の中で輝いていた。


 昼休みは生徒でごった返すこの場所も、放課後になれば人影はまばらだ。部活のない生徒が集まって駄弁っていたり、ノートやレジュメを広げて試験勉強をしたりしている。


『放課後放送局! 続いてはネットの歌姫「バインド」から一曲! SNSを中心に人気を博している正体不明の天才少女ですが、実はラクニルの生徒かもしれないという噂は有名じゃないでしょうか? 楽曲は先月動画サイトにアップされた「ソラ」! 野郎共、可憐な歌声で辛い試験勉強を乗り来るぞ!!』


 店内では放送部による校内ラジオが流れていた。聞き流しながら売店でアイスコーヒーを購入して、迷いない足取りで最奥にある丸テーブルに向かう。観葉植物や柱の影に隠れた奥まった空間。個室のように区切られたその場所には予想通り先客がいた。


「あ、ケー君だ」


 ストローを使って紙パックのジュースを飲んでいたのは、ふわふわとしたブラウンの長髪が腰まで広がる女子生徒だ。

 大きな両目、マシュマロみたいな頬と、あどけなさを色濃く残した顔付き。緊迫した空気もぽわぽわさせそうな柔らかい物腰は、田舎のおばあちゃんみたいな安心感があった。にこにことした笑みは、春の陽射しを浴びる野花みたいに和やかである。


 ばやしあや

 探偵事務所の財務や広報などを担当してもらっている同級生クラスメイトだ。


「ほらケー君、バインドだよバインド! 放送部はセンスが良いね!」

「小林は本当にバインドが好きだな」

「ふふん、アタシのマニア度を舐めたらいけない! 歌声も曲も良いし、何より正体が分からないってのが良いよ。神秘のベールに包まれているってのがもう堪らない!!」


 興奮した様子で学食で買ってきたであろうクレープをはむっと頬張る友人の正面に腰を下ろした。口許に付いたホイップクリームを指で舐め取る姿が、元々幼い容姿を更に幼く見せている事に本人は気づいていない。


「にしても、小林は甘い物ばっか食べててよく太らねぇよな」

「きちんとカロリー管理をしてるからね、その辺は抜かりないのだよ。ケー君だって将来のお嫁さんには良いスタイルでいて欲しいでしょ?」

「確かにな。なら小林には関係ねぇ話だし、もっとガンガン食ってもいいんじゃねぇの?」

「うーん、今回も華麗にスルー!」

「安いんだよ、小林の言葉は。子どもが少ねぇ小遣いを握り締めて買いに行く駄菓子の方がまだ価値を感じるぜ」

「澄ました事を言ってるけど、ちゃんと毎回ドキドキしてくれるから可愛いよねぇ」

「……してねぇし」

「いいよ、今は冗談で済んでるけどいつか本気にしてあげるから」


 長い睫毛に彩られた両目がじっと石瀧を見詰める。上目遣いの瞳で輝くのは、あどけない容姿には似合わない妖艶な光。心のうちまで覗かれている気分になって、反射的に腕時計へと視線を逃がした。


「でも、そういうケー君だってよくそのコーヒーを飲む気になるよね。一杯500円もするんでしょ? 価格の八割は席代ですって言ってるみたいなもんじゃん」

「席代を払ってでも飲みたいんだよ。場所や環境だって味を左右する重要な要素だ。一杯数百円の牛丼を美味いって食べてる庶民が、わざわざ高級レストランでステーキを注文するのと同じさ。ドケチな小林には分からねぇかもだけど」

「ドケチとは失礼な。アタシは経済的なだけだよ」


 紙パックのジュースを一気に飲み込んだ小林がフンと鼻息を荒くする。


「その高級コーヒー1杯とこの紙パックのジュース6個が同じ金額なんて信じらんない! そいつを得意げに飲むケー君は、お金の価値を分かってないか、正しく算数ができないとしか思えないね」

「なら、そのクレープは無駄遣いじゃねぇのかよ? 嗜好品ってのはコーヒーと変わりねぇし、そいつだってラインナップの中で一番安いって訳じゃねぇだろ」

「ケー君、全然分かってないね」


 チッチッチ、と舌を鳴らして首を横に振る。


「アタシが選んだのは一番安い商品じゃなくて、お得な商品なんだよ。中身とか値段を総合的に判断した結果だね。経済学的な言い方をすれば最も効用を得られる選択。このクレープに関しては、買わないよりも買った方がお得なの。高い商品が良い物だとドヤ顔で語る無知とは立っている次元が違うのだよ」

「さいですか」


 つまりドケチなんだろ? と言いたくなったが、口にすれば堂々巡りを繰り返すだけだと判断して大人しく引き下がった。探偵事務所の財務管理を任せているのも、このなんちゃって経済学者のドケチな感性を高く評価しているからこそである。


 石瀧は高級品だと言われたコーヒーで口の中を湿らせてから、


「なあ小林、界力術基礎制御理論ベーシック・コントロールの試験対策って何かしてるか?」

「何だい、藪から棒に」

「さっき界力術訓練場トライアルで試験対策してる連中を見かけてさ、正直ちょっと焦ったんだよ。小林だってじゅつが得意って訳じゃねぇだろ? 知識量がすごいってのは知ってるけどよ。普通の学力試験は何とかできても、こっちは一夜漬けって訳にもいかねぇしさ」

「ケー君、じゅつの才能は全くないからねー」

「仕方ねぇだろ、すいたいを動作させる感覚がどうしても掴めねぇんだから」


 カイじゅつは眉間の奥に存在する脳の器官『すいたい』に働きかける事でじゅつを発動する。一般人には存在していない器官であり、この優劣が界術師としての実力に大きく影響を与えていた。


 小林はクレープに乗ったミカンを小さな口に放り込んで、


「アタシはなーんにもしてないよ。歌とか絵とかと一緒で、苦手なら何をしても苦手なままだからね。合格点を取るだけなら別に難しくないし。できない事に時間を掛けるなんて経済的じゃないのさ」

「気軽に言ってくれるぜ、俺はその合格点を取る事すら難しいのによ」

「いいじゃん、その代わりに学科試験の成績はいいんだから。どうせ殆ど勉強してないんでしょ?」

「そうでもねぇ、最低限はしてる」

「本当に最低限しかしないクセに、そこそこ良い点数を取っちゃうからムカつくよねぇ。まあその中途半端な所がアタシは好きなんだけど」

「何だよ、中途半端って」

「うーんとね、例えば……」


 小林の視線がスキャンするみたいに全身を舐める。


「そのネックレス」

「?」

「オシャレをしたいけど校則違反は面倒だから、先生の目が届かない放課後だけ付けてるでしょ? 他にもあるよ。注意されない程度に薄く香水だって付けてるし、ワイシャツだって放課後だけ第二ボタンまで外してるね」

「良く見てるな」

「もちろん、好きな相手の事はいつだって見てるよ」


 またもや胸がときめきかけるが、鋼の意志で表情には出さなかった。


「軽薄そうな格好をしてると思えば、宿題や課題は絶対に提出して、授業とか課外活動には真面目に参加する。人の前に立とうとはしないけど、縁の下の力持ちみたいな立場で組織を支えてる」

「何が言いたいんだ?」

「小心者で、不器用。それがアタシの大好きなケー君ってこと」


 そう言って、柔らかそうな頬にくぼを浮かべた。


「悪い事ができないクセに悪ぶりたい。特別な事をしたいけど、一線を越える事ができない。発想や欲求はぶっ飛んでいるのに、いつも理性とか常識でブレーキが掛かる。本当に疲れる生き方だよね、理想と現実がここまで掛け離れてるんだから」


 的確な表現だと思った。

 叶えたい夢と、生まれ持った器の大きさが噛み合っていない、チグハグな在り方。誰よりも『本物』に憧れているくせに、誰よりも『本物』にはなれないと理解している『偽物』。


 それが、いしたきけいいちという人間なのだ。


「あとあと、前にね」

「まだあるのかよ……これ以上は死体蹴りだから止めてくれ。ああそうだ、忘れない内に」

「ん?」

「今回の依頼の成功報酬だ。俺の取り分は抜いてあるから、後の管理はいつも通りで」

「ほいさー、お疲れ様」


 三枚の紙幣を受け取った経理担当は、タブレット端末を通学鞄から取り出すと、表計算ソフトを立ち上げる。鼻歌交じりで指を動かす様子は、調子の良い画家がデッサンしている姿に似ていた。慣れた様子で今回の結果を記録すると、「あ、そう言えば!」と何かを思い出したのかSNSのタイムラインをこちらに見せてきた。


「これ、ケー君は知ってる?」

「どれだ?」

青い絶望ブルー・アンハッピー


 思わず眉根を寄せた。


「ブルー……何だって?」

青い絶望ブルー・アンハッピー。ほら、ここ最近になってSNSで急に騒がれ始めた謎の怪人だよ」


 画面をスクロールしてみると、確かに夏休みが明けた頃から『青い絶望ブルー・アンハッピー』という言葉が多く見られるようになっている。投稿されているのはどれも好意的な文面で、その多くは本当に存在してくれたらいいのにと願う内容だった。


「誰かを表す『二つ名』ってことか?」

「そう。ラクニルの闇に潜む正体不明の怪人。悪事を働こうとすると出現する抑止力。夜な夜な悪い連中とじゅつで戦ったりしてるみたい。どこまで本当なんだろうね、噂が一人歩きして尾ヒレが付いてる感はあるけど」

「ハリウッド映画のヒーロー顔負けだなオイ、隠れて政府の陰謀から国民を守ってるって言われても驚かねぇぞ」


 画面をスクロールしながら、目許を引き締めて神妙な顔付きになる。


「でも、この噂が正しいなら、こいつはきっと『本物』だな」

「『本物』? どういう意味?」

「社会という枠組みに収まられない異分子。気に入らない常識を覆し、社会ルールそのものを書き換えてしまう圧倒的な存在。まあ要するに、俺達とは生きている次元の違う存在さ。是非会って話してみたいね。こいつらが世界をどんな風に感じているのかに興味がある」

「えー、そう? アタシはいいよ、なんか怖いし……ケー君は怖くないの?」

「俺だって怖いさ、夜な夜な界力術を使って暴れ回ってるなんてロクな奴じゃねぇよ。立派な犯罪者だ。でも、それ以上に好奇心の方が強い。ずっと昔から憧れてたんだよ、『本物』に」


 椅子の背もたれに体重を掛けて、ダークブラウンの天井を見上げた。空調設備のファンがゆっくり回転を続けている。


「小林の言う通り、俺は半端物さ。だからこそ、『あの人』の赤い背中は鮮烈に映ったよ。絶対に追い付けなくて、届かなくて、大きくて……まるで空みたいな人だと思った。俺なんかが理想にするのは烏滸おこがましいってのは、言われなくても良く分かってる。――だけどさ、」


 シニカルな笑みを口許に浮かべると、視線を正面に戻して足を組んだ。


「この世界は理不尽だ。でも、空っぽじゃない」

「……?」

「世界を変えられるのは『本物』だけで、『偽物』の俺は窮屈な社会ルールの中で生きていくしかねぇ。でも、社会ルールの中でなら自由に動けるんだよ。重要なのは、何を見つけて、どう使うか。俺には『眼』と『耳』がある。唯一の武器である身体強化マスクルを活かすべきだろ」


 得意げに片頬を持ち上げて、自分の眉間に親指を突きつける。


「俺達はカイじゅつなんだぜ。理論に則って術式を組めば、手の平から炎を生み出せるし風を操ったりもできる。でも現実は映画や小説みたいな楽しい世界観じゃねぇんだ。大半の生徒はロクな力を持ってねぇし、ラクニルを卒業したら一般人と変わらねぇ生活を送る事になる。そんなのもったいねぇだろ。人口の0.25%しかいねぇ選ばれた存在なのによ」


 カイじゅつの適性に目覚めた少年少女は、高等部を卒業するまでラクニルで青春を過ごす事が法律で義務付けられている。だがその目的は、じゅつという異能を扱える戦闘員を育成する事ではない。


 真の目的は、一般人と共生できるだけの倫理観と制御技術を習得させる事。つまり、戦闘技術も強力な界力術も必要ないのだ。


 授業で教わるのは基礎中の基礎。算数の四則演算だけを教わり、実践的な公式や理論には一切触れないのと同じだ。身に付くのは暴走しない界力術の制御法のみであり、結果的には本土の高校に通っている普通の高校生とあまり変わりない。


「探偵なんて胡散臭い商売をやってるのだって、『あの人』と同じ事をすれば少しでも近づけるかもしれねぇって思ったからだしな」

「そんな理由だったんだね。てっきりお金が欲しいからだと思ってたよ」

「一緒にするなよ守銭奴、これでも力不足を必死に隠して足掻いてるんだぜ? ……ただ、まあ、本当にこんな事を続けても意味があるのか分からねぇけどさ」

「どうして?」

「色々とやってはみたが、結局、俺は『偽物』のままだ。中途半端で、小心者で、不器用で……『あの人』にちっとも近づけてねぇ。もしかしたら、俺がやってきた事は全部無駄だったんじゃ……」

「それはないと思うよ」


 きっぱり、と。

 大きな瞳に燦々とした光彩を浮かべた小林が、真っ直ぐ石瀧を見詰めて告げた。


「無駄なんかじゃないよ、積み上げた物は絶対になくなったりしない。だって、アタシがここに居るのはケー君のおかげなんだから。ケー君だけが絶体絶命のアタシの手を掴んで、闇の底から引っ張り上げてくれたんだよ」

「あれは……運が良かっただけだ。それに、また同じ場面に出会ったとしても、今度は見捨てるかもしれねぇぞ」

「ううん、ケー君はアタシを助けてくれる。何回も、何回も、アタシが助けてって叫んだら絶対に手を差し伸べてくれる。だから、誰が何と言おうとも関係ない。中途半端でも、小心者でも、不器用でも、ケー君はアタシにとって掛け替えのない『特別』なんだよ」


 薄い色の唇によって紡がれる言葉から、からかいの音色が消える。微熱を帯びる眼差し。上目遣いでこちらを見詰める瞳は、光を受けたガラス玉みたいに輝いていた。


「だからさ、無駄なんて言わないでよ。ケー君はちゃんと前に進んでる。アタシがそれを証明してあげるから」

「そう……だと良いな」

「もう、そこはうんって素直に頷く所でしょ? 相変わらず卑屈なんだか……ん、メール?」


 タブレット端末に目を落とした小林が、指を画面の上で滑らせる。


「ケー君、新しい仕事だよ。依頼主は……えっ?」


 メールの文面を読んでいた瞳が驚愕に揺れる。


?」

「……まじで」


 その名前を聞いた途端。

 途轍もなく嫌な予感が胸の奥から噴出してきて、気分が一気に盛り下がった。

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