英雄王と呼ばれた彼女は龍と踊りたくない

とと

死にたくなかった


 王様になんて、英雄になんてなりたくなかったと。そう言ったら、あなたは笑うのだろうか。



「ほんっとうに、いろいろとありがとうございました。この国が豊かになったのはあなたのおかげです、レオン」


 王冠を下ろして、玉座から降りて、今だけはただの一人になった私として笑いかける。レオン――レオンハルトは、青い瞳をゆっくりとこちらに向け、唇の端っこを小さく歪めてみせた。分かりにくいが、彼なりの笑顔だ。夜の闇よりもずっと黒い髪が、風になびく。綺麗だな、と。人というよりは景色や絵画に向けるような感覚でそんなことを思った。


「それにしても、ここまで長かったですね。荒れた国の立て直し、貧民平民貴族みんながほどほどに幸せになれるような国造り。……いや、そこまで長くなかったのかな」


 私が五歳だった頃から、私が城を追い出されてから、実に二十年が立っている。うわぁなっが。でも、これだけ長い時間をかけて、ようやく私の願いは叶ったのだ。いやまだ叶ったって言い切れないけど。残りは四捨五入でいいや、叶った叶った。

 緩む頬をそのままに、レオンの手を取る。ずっとやりたかったことを。願うことさえ許されなかった願いを、口にするために。


「レオン、お願いがあるんです、聞いてくれますか?」

「ああ、我が友の願いだ。なんだろうと聞き入れよう」


 さらっと重いことを言われたことは無視して、告げる。


「一緒に遊びましょう!」


 ずっとこの日を待っていたのだ。平和になった国で。怨嗟の声も呪詛も絶望も、昨日のことになってしまったこの国で。当たり前のように、普通の友達のように、過ごすことができる時間を。


「まずは、そうですね。買い物です。屋台で買食いをしましょうレオンハルト! その後は、あなたが言っていた湖に行きたいです。あとは、えっと、城に戻ったらボードゲームとかカードゲームとか!」


 言い募ると、レオンがなんの反応も返してくれていないことに気がついた。なんだ、今更嫌だって言われても止めないつもりなんだけれど。首を捻りながら、私よりもずっと高い位置にある顔を覗き込む。

 ……深海を覗き込んだときよりもなお深い青が、複雑な色を湛えて私を見つめていた。


「そうか、お前は、今までそんなこともできなかったのか。ダフネの王よ」

「可哀想だって思います? 龍族の王様」


 この荒れた国をどうにかしようと、必死にもがき続けた半生だった。私のことを捨てた、私のことなんてどうでもいいと思っていた、そんな国のために捧げた人生だ。誰にも理解されない正義を抱えて。血の繋がった相手すら敵として血に濡れても前に進み続けた、顔も名前も知らない誰かのための人生。それでも、……憐れまれたくはなかった。


「いいや、強いな。さすが我が友だ」


 一瞬だけ強く目を閉じ、次に開いたとき、彼は朗らかに笑っていた。うわ、完璧な作り笑顔……。この男がこうやって笑うときは、だいたい嘘をついている。つまりこいつ私のこと憐れんでるんだな。腹が立つ。


「私、嘘をつく人は嫌いです」

「正直に言うとすごく可哀想だと思った」


 うわぁ素直。一瞬抱いた苛立ちが霧散するのが自分で分かった。少しだけ残ったそれを溜め息と共に吐き出し、苦笑する。


「でもね、この国では誰だってそんなことできなかったんですよ。ずっと」


 先代の王は、暴虐王と呼ばれていたらしい。私の父親のことだ。たくさんの人の命が、ものが、心が彼によって壊された。年若く見目麗しい女は、一人残らず彼のものに連れて行かれた。処刑された首を並べた前で笑う男は、人間のクズと言っても言い足りない。

 王の目に留まらぬように息を殺す日々は、娯楽一つでさえ気に障れば殺されかねない日々は。きっと、誰にとっても、地獄だった。


 まあ。それが嫌だったから、私は王を――した。それだけ。それだけのことに、二十年もかかってしまった。いや後始末とかこの国の地盤固めとかもやったんだけど。そこまで考え、レオンハルトのやたら整った顔を見上げる。彼のおかげで、この国は唯一龍族に守護された国となれた。

 人間は間違えるものだから。絶対的な権力は、人を狂わせるものだから。私は龍族に懇願した。私は、この国を……未来のいつかで同じような狂った国にさせないために、龍族と契約したのだ。向こうにとっては利のほとんどない、人間にとってだけ都合のいい契約を。


「おい、アナ。お前また何ぞ難しいことを考えているな」

「いや、平和っていいなぁって思ってました」


 王様である私がこうして出歩いていても、暗殺を心配しなくていい。……それは、結局のところ、彼のお陰に他ならないのだけれど。


「我等に対して責を感じているとしたら、それはお門違いというものだ」

「何も言ってませんけど?」

「お前は、人間にしては恐ろしく強い魔力と度胸と胆力があるが……思考は人間のそれだな」


 しょうがないなぁと言うような苦笑。彼は、ずっとされるがままになっていた手に力を入れる。


「龍族は、人間が思うよりずっと、身内のためならなんでもするぞ」

「……私、いつの間に身内になったんですか」

「ずっと身内だったさ。だが、皆が本当にお前を認めたのはきっと、俺を倒したときからだな」


 わぁい。向こうから出された条件の隙をついて卑怯な手で決闘に勝利した私のことを、身内だと思ってくれてたなんて。お前らそんなに懐広くて大丈夫? 変な人に利用されない? そう思ったけれど、現在進行形で利用しているのは私だ。何も言えない。私はそっと額に手を当てた。


「いや、まあ、いいんですけれどね。私はあなた方が思うよりもずっと早く死にますし、脆いですし、弱いですよ」

「だが、我に勝った」

「あんなの、反則でしょう」

「いや、反則なんぞではない。俺も、皆も、そう判断したが故に……我等はこの国を守護すると決めたのだ」


 そう言うと、龍族の王は。人間なんて爪先一つで殺せるだろう彼は。龍族の中でも最も強く気高いはずの彼は。――私の友達は。唇の端を少し歪めただけの、不格好な笑みを浮かべ宣誓する。


「アナ。我に……いや。俺に勝った唯一の存在よ。俺のたったひとりの友達よ。お前が死んでも、お前の祈りを絶やすことはない。この国を、俺たち龍族は永劫護り続けると誓おう」

「じゃあ、よろしくお願いしますね。多分あと三十年くらいで私は死ぬので」

「待て、早すぎる」

「寿命も死もない存在である龍族には分からないと思いますけどね? 人間って、だいたい七十歳まで生きたら大往生ですよ」


 私は身体が弱いので、五十くらいで死ぬんじゃないですか。笑いながらそう言うと、ひどく強い力で手を握られた。


「……嫌だ」

「嫌だって言われても……」


 彼は、完全に感情を消した顔で私を見下ろす。うっわぁ、レオン程の美形が表情を消したら怖いなんてものじゃないんだな。いつも無表情に近いのに、今の彼はいつもとは違うと分かった。分かったからと言ってどうしようもない。私が長生きするのはまず無理だし。


「人間は、魂を巡らせることさえないのだろう。死んだら本当にそれで終わるのだろう。それなのに、ようやく、お前は平和だと、幸福だと笑えるようになったのに。あと三十年程で死ぬ? なんだそれ、認められるわけが――っ」

「いや、三十年は長いですよ。私の今までの人生より長いです」

「短い!!」


 ええぇ……。吠えるように叫んだ彼に引きつつ、考える。そういえば、こういう繊細な話をしたことなかったなぁ。とか、こいつら本当に人間にきょうみなかったんだなぁ、とか。


「えっ、と……。まあ、ほら、あれですよ。私は結構幸せものだなーって思ってるので、レオンが泣く必要は」

「泣いてない!」

「あーはいはい。泣きそうになる必要はないんですよ。というか、今すぐ死ぬみたいな反応止めてくれません? 今から楽しい楽しい友達同士での買い物なんですから、ね? ……ね?」


 とは言ったものの、この空気のあとではしゃげるほど私は面の皮が厚くない。そっと溜め息を飲み込んで、城の自室でちゃんと会話することにした。遊ぶのも買い物も湖に行くのも、また今度できる。

 せっかく気合入れてきたのに今日できないのは残念だけど。湖に行くときに告白するって決めてたし。また、今度。だから。




 だから。私は、その機会がもうないなんて思っていなかったのだ。




「――は、ぁっ。ぐ、ぅあ、……っ」


 レオンと人間の寿命についての認識を擦り合わせた、その三日後。私は倒れていた。朝起きた瞬間に襲ってきた体中の痛みに悲鳴を上げてから、ずっとベッドの上で呻いている。多分死ぬな、これ。嫌に冷静な思考が、そう判断した。

 はっ、と。呻きとは違う嘲笑を零す。ああ。駄目だな。あと三十年くらいは生きるつもりだったのに、もう。今死んだら、きっと、レオンは泣いてしまう。隠してたみたいだけど、結構涙もろいひとだから。きっと。


 足の爪先から頭の天辺まで余すところなく、無数の針でつかれたような細かく千切られているような嫌な激痛がずっと続いている。なのに、医者でさえ理由は分からないらしい。


 こんなにいたいなら、しんだほうがましだ。


 間違いなくそう思った。そう考えた。殺してくれ、と。そんな懇願が口から出てしまいそうなほど、痛くて痛くて痛くていたかった。助けて。だれか。誰かって誰だろ。私を殺して。


「なあ、アナスタシア」


 虚ろな視界の中、青が見えた。空。海。いや違う。もっと深くて。もっと穏やかで。もっと……鮮烈な。私がよく知っている色。


「俺は、三十年と聞いたんだが」


 でも、その色はこんなにも滲んでいただろうか。こんな、まるで……水の膜を張ったみたいな色を、していただろうか。思考は痛みに追いやられていく。痛い。痛い。苦しい。


「まだ、三日だぞ」


 不意に、痛みではない感覚を手に覚えた。その一瞬、身体がすっと楽になった。息ができる。思考が鮮明になる。視界が、はっきりと。

 はっきりと、彼の顔を見て、私は思わず瞬いた。


「レオン、……あなた、泣いてるじゃないですか」

「ああ、泣いている」


 はらはらと。いや、違う。夏の前に降る雨のように絶え間なく、彼の青い瞳からは涙が落ちてきていた。って、泣いていると、認めた?


「アナ。俺は、お前が死んだらもっと泣くぞ。いいのか」

「いや、よくはないですけど……。多分私今日死にますよね、これ」

「冷静に認めるな、諦めるな! 前々から思っていたが、お前は妙なところで諦めが良すぎる!」


 叱りつけるような声は、でも涙に濡れていた。涙は止まらない。拭ってあげようと、手をあげようとして……身体は一切動かなかった。


「レオン、あなた、私に何をしました?」

「体の感覚を消した。痛みを感じない代わりに身体は動かせない」

「わぁ便利。なんて顔してるんですか、喋れるだけマシですよ」


 痛みを消してくれたらしい。それは嬉しい。本当に嬉しい。トチ狂って殺してくれと叫ぶところだったから、本当によかった。レオンにそんなこと言いたくないもの。私にもそのくらいの矜持はある。だからそんな憐れむような顔しなくても……。


「死ぬのか」

「理由は分かりませんけど、これは死にますね」


 端的な問いに、ぼんやりと返す。レオンの顔が歪んだ。美形がやったら怖い顔だから本当にやめてほしい。


「……国は、どうする」

「もう、私がいなくても平気ですよ。私と同じような子供の中で、特に優秀なのに話はつけてあります。龍族の皆さんは、私が頼んだ通りにしてくれますよね?」

「当たり前だ」


 私が死んでも、きっと、この国は大丈夫。もう、狂った王は生まれない。


「龍族はきっと、しばらく喪に服すことにするが。……それでも、言われたことはやるさ」

「あなた方にそんな風習ありましたっけ?」

「お前のためだ。感謝しろ」

「死んだ後に感謝なんてできませんよ……」


 というか、私の存在が龍族に新しい風習を持ち込んだ、とか。……わぁい、私とんでもないことしでかしたなぁ! がむしゃらにやってきただけだという自覚があるだけに申し訳ない。


「お前は、我等の身内。……いや、――家族だからな。その巡らぬ魂を、きちんと弔いたいと、皆も言っていた」

「わたし、いつの間にか、たくさん家族ができてたんですね」


 父も母も。血を分けた兄弟も。信頼できる者なんていなかった。すべてが私を殺すかもしれない敵だった。でも、もう、そうじゃないのか。国を任せることができる弟が。未来を託すことができる身内が。私の死を悼んでくれる友がいる。

 それは、なんて幸福な。


「……泣いているのか、アナスタシア」

「そう見えるなら、泣いてるんでしょうね」


 頬を伝う雫の感覚さえないけれど。多分、私は笑っていた。泣きながら、笑っている。

 なんて幸福な人生だったのだろう。なんて、幸福な、人生なのだろう。後悔なんてない。やらなければならないことはやり尽くした。未来に、絶望の色なんてない。満足だ。そのはず、だ。

 もう私の役割は終わったのだ。喜ばしいことだ。喜べ。笑え。幸せだと。


「……湖、見せてやりたかった」


 ポツリと落とされた独り言に、私の身体が動いていたら動揺を悟られてしまっただろう。少しだけ動かない身体に感謝する。少しだけな。


「屋台の、美味しいものを、教えてやりたかった」


 それは、きっと、彼の後悔だ。私の心残りだ。やりたかったこと。平和になったらやろうと、約束していた、沢山の。


「勝ち越しなんてずるいだろ、次は、俺が勝つつもり――」

「やめて!!」


 視界が滲んでいる。レオンの青も、黒も、ぼんやりと霞んでいる。私の悲鳴じみた声に、レオンは口を噤んだ。やめて。やめてよ。なんで今。


「なんで、そんなこと、言うの。やめてよ、わたし、だって……怖くなんてないんですよ。死ぬのは、怖くない」

「だろうな。お前はいつだって死神と一緒にいた」

「なのに、……いま、さら」


 は、と。涙で濡れた熱い息を吐き出す。彼も私も泣いていて。この部屋の中はひどく湿度が高いことだろう。そんな、馬鹿みたいなことを考えても、本当の思いは掻き消えてくれない。


「わたし」


 レオンは、黙って私の言葉を待ってくれている。今そんな優しさ発揮しなくていいのに。もっとくだらないことを話して、もっとどうでもいい話をして。

 私の、嘆きに、気づかないで。


「まだ、死にたくない」


 ああ、そうだな。レオンは穏やかな低い声でそう言った。ああくそ。涙の量が増えたのが自分でも分かる。視界が全くきかなくなったから。


「湖、見に行きたかった。どうせならお弁当持ってピクニックとか、してさ」

「それいいな。……お前が作った弁当食べてみたかった」

「料理は、好きですから。王様の口に合うかは知りませんけれどね」

「お前も王だろ」


 後悔。いや、心残りだ。死ぬのが怖くないというのは本当だけれど。わたしが死んでも大丈夫だと思っているけれど。でも。


「屋台、行きたかった。ボードゲームでもなんでも、次も私が勝つつもりだった。……もっと、一緒にいたかったぁ!」


 子供みたいに喚く。泣いて泣いて。それでも、もう、叶わない未来だ。

 不意に、視界が明るくなった。レオンが涙を拭ってくれたらしい。ありがとう、と伝えようとした声は掠れて音にならなかったけれど。


「俺も、もっと一緒にいたかった」


 その顔は、見えなかった。だけれども、きっと、泣いていたんだと思う。無表情のまま、膨大な涙を流す、不器用な泣き方で。


「なあ、アナスタシア」


 なぁに。問いかけようとしたのに、声は出なかった。


「我は、……我等は、この国を未来永劫、契約に違うことなく守護しよう」


 なんで今更そんなことを宣言するのか。首を捻……いや無理だった。だけど、疑問符が顔に出ていたのだろう、レオンは苦笑して言葉を続ける。


「きっと、俺は信じたくないんだ。お前が死んで、いなくなって、いつか約束さえも忘れてしまう現実を。だから、いや、だが。……お前が確かに生きていた証を、この国の形をしているアナスタシアとの約束を、一つたりとも失いたくない」


 いつもの偉そうな口調は完全に崩れてしまっている。強く強く、まるで祈るような声で私に語り続ける彼は、きっと泣く寸前のような顔をしていることだろう。目に見えるようなのに、もう見えない。


「叶えるから、お前の願った世界をこのまま完璧に続けてみせるから。俺がお前の願いを叶え続けるから」


 視界が暗くなった。目を閉じているのか、開けているのかさえ分からない。なのに、レオンの声だけはひどく鮮明だ。


「だから、どうか」


 懇願するような。縋るような。小さな声はひどく近くから聞こえてきた。どこにいるのかは分からない。見えない。もう見えない。


「……死なないでくれよ、アナ」


 無理だなぁ。でも、彼らしい。無茶苦茶なことを大真面目にやってしまう人だったから。そんな彼でも、無理な事は……あるんだけれど。彼らしくて、なんだか、少し愉快だった。

 多分、愉快だと思いたかっただけだ。


「おれは、ずっと、おまえのことを」


 声が遠くなる。待って。行かないで。声を途切れさせないで……なんて。いってしまうのは私か。

 なんて。ばかげた、じんせいだったのか。


「――」


 そうして。緩やかに、世界は。私の命は。閉じて、弾けて、消えた。



 英雄王『アナスタシア・エヴェリナ・ダフネ』――享年、二十五歳。

 神聖暦千二百年、春の――花の咲く日の、ことだった。

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