ハンカチーフ

 玄関の鍵を開け、家に入る。弥兵衛は、人の気配がないことを不思議に思った。今日は、母親の見舞いに行くからその間の依光の面倒を、植木屋の半次郎に頼んでいた。つまり家には、半次郎と依光の二人がいるはずだった。


 ところが、居間、和室、台所と家のどこを探しても二人の姿が見当たらない。二階も探そうかと玄関に戻ってきたところで、しびれを切らした紀子が呼び止めた。


「どうしたんです、川上さん」

「留守番をしているはずの依光がいない」


 たらりと冷や汗をかくほど焦っている弥兵衛の様子を見て、紀子はひっそりと奥歯を噛みしめる。


「家の中にいないのなら、外に出ているんじゃないですか。そのうちに戻って来るでしょう」

「この雨の中、外にいるというのかっ」


 弥兵衛が大きな声を出したから、紀子は目を丸くした。

 玄関先でここまで騒いだにもかかわらず、半次郎も依光も姿を現さない。ということは、二人が外に出ていることは、もはや間違いない。

 和傘をさして玄関から出た弥兵衛の背後で、紀子はわざとらしく咳をして身震いをするが、弥兵衛は彼女の方を振り返らない。


「待ってください。私も探します。見つからないことには、気が気でないのでしょう。傘を貸していただけませんか」


 弥兵衛は戸惑ったが、彼女の強い瞳を見て首を縦に振った。


 半次郎と依光はどこに行ったのか。そもそも、半次郎は今、依光と行動を共にしているのか。思案は尽きない。

 最初に捜索した場所は、邸宅に隣接した葡萄園だった。葡萄園では、何人か小作人がこの雨の中で作業をしている。その中に半次郎と依光が混じっている。市街地に下りて行った可能性もあるが、まずは近場を探すことにした。

 ぬかるみを蹴り飛ばし、衣服が汚れようが構うものかと進む弥兵衛。紀子は、その数歩、いや十数歩ほど後ろをついて行く。ただ、黙ったままで。

 弥兵衛は、心の中で、なぜこの女は、一緒に探すなどと言ったのかと不思議に思った。探すと言っておいて、依光のことは何も聞かず、背後をとぼとぼとついて回るだけだ。


 花摘みの作業をしている小作人に「依光を知らないか」と話しかけてみた。


「ああ、半次郎さんが葡萄園の中を連れて回ってますよ」


 思いの他、あっさりと解決してしまった。雨の中花摘みをするのに人手が足りないということで、半次郎に手伝ってもらおうという話になり、そこで半次郎が依光に仕事を見せてやろうと連れて回っているらしい。


「お、半次郎さんが来ましたよ」


 他の小作人と同じく、菅笠に蓑を被った格好の半次郎が、弥兵衛を見るなり呑気な挨拶をしてきた。そのすぐ横には、明らかに大きすぎる雨具を着用した少年がぴったりとくっついている。その姿を見て、弥兵衛は胸を撫で下ろした。


「見つかって良かったですね」


 紀子が弥兵衛に言う。いかにも感情が込められていない声で。一方、弥兵衛は彼女の意図など知る由もなく、依光との再会をただ純粋に喜んでいた。


「川上殿ときましたら、家に帰ってお二人の姿が見えないってんで、血相変えて探し回ってましたぜ」


 さっきまでの弥兵衛の様子を小作人が茶化すと、半次郎は腹を抱えて笑いだす。


「何がおかしい」

「いや、悪いことではないですよ。旦那が仕事以外で、そこまで情が移るというのは見たことがなかったものでね」

「これでもずっと作物に携わってきた身だ。自分が育てると決心したものには、情くらい移るさ」


 結局、仕事じゃねえですか、と半次郎に笑われて、悔しくなって笑った。そこに小作人も加わって三人で大いに笑った。


「ああ、そういえば旦那。依光が手柄を立てたんですよ」


 半次郎が依光の背中をぽんぽんと叩く。依光は弥兵衛に向かって一枚の葡萄の葉を差し出した。受け取った弥兵衛は、一気に険しい顔になった。


「また、この季節か。こいつには何度も何度も苦しめられてきた」


 その葡萄の葉には、目立たないが褐色の病斑があった。晩腐病おそぐされびょう。かかれば、結実した途端に実が腐り、収穫に甚大な影響を及ぼす恐ろしい病だ。


「雨は晩腐病を拡散する。感染した株を特定しろ。その株の感染した組織は残らず取り除け。特に品種改良のための交配に使う株は、何としてでも守り抜け」


 小作人は弥兵衛の言葉を聞くとすぐさま、葡萄園を駆けまわって内容を伝えた。

 改めて、依光が発見したという晩腐病に侵された葡萄の葉を見る。薄暗く雨が降りしきる中でこれを見つけるのは至難の業だ。病そのものは厄介極まりないが、早く見つかったことは幸い。初めて葡萄園に出て来た者の手柄としては十分すぎるものだった。


 弥兵衛はしゃがみこみ、依光の肩に手を置いた。


「依光、よくやったな」


 数秒おいて依光がこくりと頷く。それを見て弥兵衛は、依光を深く抱きしめた。


「さ、ひどい雨だから家に入ろう。半次郎、晩腐病の防除の作業を手伝ってくれるか」


 半次郎は、「もちろんです」と応えて、作業に移った。

 

「大井さんも、中に入りますよ」


 それまでの会話で蚊帳の外だった彼女は、少し上の空だった。弥兵衛に呼びかけられてから数秒後、少し裏返った声で返事をする。弥兵衛が背中を見せたのをしっかりと確認してから、彼女は手提げ鞄から赤い菊の刺繍が施されたハンカチーフを取り出した。


 それを胸元に押し抱き、そっと目を閉じて祈る。そして、それを地面に捨ててから弥兵衛の背中を追いかけるのだった。

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