楡と葡萄
津蔵坂あけび
夜半の惨劇
御影石を積み上げられた石垣の上に、青々とした桧の生け垣が植わっている。それらに囲まれた屋敷の庭園。玉砂利を男は踏みしめ、夜空の群青を劈く月を見上げた。
「今宵の月は綺麗に昇っているな。灯りが要らないかと思うほどだ」
燕脂色の甚兵衛に身を包んだ男は年の頃、四十を過ぎたぐらい。老いも見えるが、その着こなしには、若い頃の鯔背さが見て取れる。しゃんと伸びた背で、縁側に足を投げ出す少年を見下ろす。
「依光。顔を上げろ。いい月だぞ」
依光は俯いて、顔を墨で塗りつぶしている。震える手には、脇差しが握られていた。月光を反す銀の刃。
「依光、決めたことだ」
男は声のうちに、少しだけ寂しさを忍ばせた。依光は、それを高い鼻ですうっと吸い込むと、奥歯で噛み潰した。しばし訪れた静寂。ざわざわと風が松の木や生け垣を撫でる音だけが木霊する。
依光は生唾を飲み込み――拳を握りしめ、そして開く。すくっと立ち上がると、少年の背は男よりも高かった。
それを見上げ、男は静かに口角を上げた。
一人分増えた玉砂利の音。やがて消え失せて、飛び石の上――湿った土の上と歩みを進める。松の木の植わった趣のある庭園を抜けると、果実をぶら下げた丈の低い木々が生い茂る果樹園にたどり着いた。
葡萄の甘い匂い。男は陶酔するように深呼吸をした。武骨な手で楡の木の肌を撫で、絡みついた葡萄の蔓を爪弾く。
「楡は葡萄を愛している、葡萄も傷ついた楡を見捨てない。美しいな、私とお前も次に生まれ変わるときは――」
恍惚とした溜め息の音。男は両腕を広げた。涼しい目で少年を見つめる。
その眼差しを受け取って、少年の息遣いが乱れ始める。危うい過呼吸に喘ぐ声、楡の葉の上を幾度も跳ねて反響。やがて唇が噛みきられ、口許に紅い川が流れた。
がたがたと震える手は、柄の上を行ったり来たり。不埒な少年の態度に、しびれを切らしたのか、男はぐっと睨みを利かせた。
ぴたり、と
少年は呼吸を整える。柄の周りでさ迷う手、ぐっと力強く握られて、青筋が浮き出る。間もなく、少年の雄々しい叫びが。
青い月光が、鮮血に濡れた死体を照らしていた。
はたり、と落とされた朱に染まった刃。それから――地面を少年の膝が打った。すすり泣く声は夜が明けるまで止むことはなかった。
***
梅雨時で雨が降っていた。
地面を穿つ槍が空から降り注ぐ。抉れた土と混じり、黄土色の池がそこかしこに。これは鉄砲水にでもなるか、と源田は煙草をふかして窓の外を詰った。
源田は、初老の警官。制服のボタンのメッキの剥げ様が、経歴の長さを物語っている。古さを匂わせながらも、整った佇まいで風格のある男だった。
「源田巡査、表に――」
「どうした三好、早速か」
当惑の表情を浮かべてやって来たのは、赴任してきて間もない新人の三好だった。
近くの川が増水して危険な状態だとか。てっきりそんな報告だと源田は思っていた。しかし、三好の口から告げられたのは、出頭の報告だった。
「このままどしゃ降りが続けば、大事になるかもしれないというのに。間の悪いときに来たものだな」
源田は大儀そうに煙草の火を消した。
既に出頭した犯人は、応接室に案内していると。それを聞いて、源田は顔を歪める。
「まさか、あの椅子に濡れ鼠を座らせているんじゃないだろうな」
新人の肩がびくりと跳ね上がって、図星だと訴えた。
「まあいい。いずれそうなる定めだろうしな」
応接室に置いてあった椅子に腰かけていたのは、まさに濡れ鼠だった。細身の身体に透き通る白い肌をした少年で、衣服からだらだらと水を垂らしている。少年が放つ匂いは、雨の匂いだった。ひどく濡れているせいでもあるけれど、まるで彼自身が雨そのものであるような。
「もう少し、身体を拭いてから上がらせろ」
「それがその――あまり言葉が通じないようでして」
三好から聞いて、もう一度少年の顔を見る。格好からして、身だしなみを整えるような質ではない。しかし、無精ひげはおろか、目だった毛穴すらないきめ細やかな肌だ。まじまじと見つめていると、喉がごくり、と鳴った。その後を咳払いが追った。
ようやく向かい合わせになった、源田と少年。依然として、少年は口を開くこともなければ、姿勢を変えることすらない。湿った匂いを放ちながら、椅子の上で頭を垂れるのみ。
「君、名前は何と言うんだ」
源田のへしゃがれた声が、応接室に響いた。
沈黙の中、壁にぶら下がっている振り子時計の音が、かち――こちと響いていた。
「……よりみつ」
応えが返ってきたのは、数十秒遅れてからだった。苗字を尋ねると、無言で首を横に振った。
「して、君は……何を犯したんだ」
再び訪れる沈黙、
出頭したからには素直に、罪を吐いてくれるかと思っていたが、勝手が違ったか。源田はすくっと立ち上がり、単純な問答を取りやめにした。
「何もこんな雨の日に、自戒をしに訪ねてくるとは、酔狂なものだ。余程、罪悪感に苛まれているのか。それとも雨宿りでもしに来たのか。三好くん、お茶を淹れて来なさい」
三好は急に名前を呼ばれて、一瞬呆気にとられたが、すぐに給湯室に向かった。
しばらくして、温かい煎茶が天板の上に出された。
源田が一口すする。少年は相も変わらず、頭を垂れた状態で、微動だにしない。呼吸はしているということが、僅かな肩の上下で分かるが、それを度外視すれば石膏像のようであった。
「なかなか、いい茶だ。濡れた身体が冷えてきたことだろう。君も味わうといい」
お茶を勧めてみたが、石膏像は動かない。
募る苛立ちを紛らわそうと、もう一口すすったところで。
「人を……殺した……、僕の愛する人を」
色の薄い桜の花弁のような唇が、歌うように言葉を紡ぎ始めた。
「ああ、旦那様。……望んだこととはいえ、もう少し、もう少し。一緒に……」
掠れる声、危うい息遣い。真っ白な皮膚の底から朱が満ちて、朱の上を滴が撫でた。歯を喰い縛り漏らす嗚咽、源田は事情を全て知ったわけではないが、胸が傷むようだった。
雨足が弱まると、蝙蝠傘を差した二人が、合羽を着せた依光を連れて交番を出た。依光の手首には、手錠がついていた。彼自身に抵抗の意はなく、儀礼的につけられたものだ。手錠の掛け方も後ろ手ではない。
依光は、腰縄を三好に引かれながら、現場への案内を頼まれた。三人は十数分ほど歩いて、街の中心部から外れた急な石造りの坂を登る。登りきったところに立派なつくりの屋敷が佇んでいた。生垣に囲まれた日本庭園の規模もさることながら、屋敷の隣の土地は、さらに広大な果樹園。三好は驚きのあまり、声を漏らす。
「こんな立派なお屋敷があったとは」
対して、源田は落ち着き払っていた。
「ここは、
依光は小さく頷いた。源田は、弥兵衛とは何度か話したことがある程度だったが、この地で名の知れた名家のご子息が亡くなったと分かって口を歪めた。
「葡萄を育てていたのですか」
「生業ではない、と川上殿は言っていたかな。葡萄酒にすると言っていた」
葡萄畑に入ると、ちょうど摘粒の時期で、たわわに実った葡萄の実たちがいくつもぶら下がっていた。その葡萄をぶら下げているのは、低く育った楡の木。三好は不思議そうな眼で眺めていた。
「これはイタリア式の栽培方法でね。川上殿に教えてもらったよ。そのときに詩を教えてもらったかな。楡は葡萄を愛している、葡萄も傷ついた楡を見捨てない。互いに慈しみ合うようにして育つ様子をいたく気に入っていたよ」
かつて、弥兵衛がよく口にしていた詩。それが耳に入って、依光は掠れた声で愛しい言葉を謳う。
「……旦那様」
楡に絡みついた葡萄の蔓を撫でる。手錠がかかったままで自由が利かないため、ぎこちない。二人にはその様子は、殺した相手の死を心から悼んでいるように見えた。
「君は、どうして川上殿を」
「それが、旦那様の望んだこと」
ふと、依光は地面を指さした。
果樹園に葡萄の支柱として植えられていた楡の中でも、一際幹が太く立派な樹の根元。朝から降り続く雨で表面はぬかるんでしまっているが、掘り返した後とこんもりと盛り上がっている様が見て取れる。楡の木の幹に赤黒い血の跡がついている。その場に横たえていたスコップにも血の跡がべったりとついていた。
源田は息を飲んだ。間違いなくここに、死体が埋まっている。
「気を付けろ。乱暴に掘り返すと死体を傷つける」
蝙蝠傘の影で土が掘り返されていく。表層を浅く掘り返すと、早くも蒼白い肌が見えた。甚兵衛に袖を通した右腕だ。いよいよ源田も加わって土を掘り返す。
依光は露わになっていく弥兵衛の死体を呆然と眺めていた。
左胸に突き刺された刃。それは、弥兵衛が床の間に大切に飾っていた品。血で汚れる前は、月光の様に美しい輝きだった。それが今は、泥と血に塗れている。
「……こうなるしかなかったのですか。旦那様。ああ、旦那様」
掘り返された弥兵衛の死体は、左胸が刃で抉られていて、惨たらしかった。にもかかわらず、どこか安らかな表情を浮かべていた。
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