冷蔵庫は小さな祠
それは大きなガラスの蓋付きキャセロールだった。
シンプルなデザインで、よく六華がレンジ蒸しなどを作るときに使っていたものだ。
その中には大きなトライフルが冷えている。
上から、白いフレッシュクリームの層、様々なベリーがたくさん入った真紅のリキュールジュレの層、バニラの粒がちりばめられたカスタードの層、シェリーを染みこませたジェノワーズの層。
――あ
やっと彼は思い出した。
これは繋が少し前に「こういうのを子どもの頃食べた」とチラシの裏に落書きしたものだ。
あのとき、繋の手もとを覗きこんで六華が言った。
「おいしそう! トライフルだね」
「……トライフルって言うんだ、これ」
「うん。ロンドンの、えーっとねえ……名前は忘れたんだけどどっかのデパートで売ってるやつに似てるよ」
六華はさらっとそういうことを口にする。繋はそのたび、心におろし金を当てられたような感じを覚える。その傷口に、レコード針でも置いたら、きっとスピーカーは「こんな女とうまくいきっこない」と歌いだすに違いない。
遊び慣れて旅慣れて、自分に金をかけて上質なものを知っている女には萎縮してしまう。
飲みたくもないビールを飲まされて、アルコールに弱い繋はいつになく饒舌だった。
「子どもの頃、家族でたまに行ってたレストランのデザートだよ。小さなグラスで出てくるんだけど、一度でいいから丼一杯くらい食べてみたいと思ってた」
昔、まだ家族とは強いつながりで結ばれたものであり離ればなれになるなどとは思っても見なかった頃の話だ。ロンドンのデパートがどうとかは関係がない。
「ふーん……今度一緒に行こうよ」
「その店、もうないんだ」
「んー……」
喋りすぎた、と繋は思った。六華にはこのノスタルジーがきっとわからないだろう。
ふと六華は掌を上に向けて彼に差し出した。
「そのメモ、もらっていい?」
そのとき六華に渡した落書きがどうなったか繋は気にも留めなかった。
それが、こういうことになっていたとは。
誰かが食べた形跡はなく、少し傷み始めているようだ。
ビニール袋に入った派手なHAPPY BIRTHDAYのロゴキャンドルが、キャセロールの蓋の上に可愛らしいヒヨコ柄のマスキングテープで貼りつけられていた。
――そういえば、僕の誕生日、先週だったな……
そのとき、繋の中で何かがぱきんと音を立てた。
パズルのピースが、イメージの狭い間隙にきれいに嵌ったような気がした。
何の変哲もない冷蔵庫の前で、彼は膝をついた。
暗くなり始めたキッチンで、庫内照明が祈りの祠の燈明のように彼の顔を照らした。
暗い部屋で、六華は汗まみれで目を覚ました。
自然解熱に伴う発汗のようだ。
寒気はするが、意識は先ほどとうって変わってしゃっきりしている。
カーテンの隙間から、暗い空に無数に輝く星が見えた。
シャワーを浴びて着替えたいがまずは熱を測ろう。
枕元に置いていた体温計を手にとろうと体を起こすと、ベッドの端に大きな、真黒い影が佇んでいるのに気付いた。
手にとった体温計が、かたんと床の上に落ちた。
「え? 繋?」
「気分は?」
繋はナイトテーブルの小さな灯りを点け、体温計を拾うと、幾分体調が回復したように見える六華に渡した。
「……あ、ああ……だいぶいいみたい」
また夢のやり直しだろうか。
さっき見た、にせものの夢にはまったく寂しい気持ちにさせられた。
繋は黙って六華を見ている。
六華の脇の下で体温計が鳴った。
「何度?」
「36.8度。やっと熱が下がったよ」
六華は汗に濡れたうなじのあたりの髪を掻き上げた。
「ああ、もう汗びっしょり」
「大丈夫?」
「うん。私、丈夫だし」
六華は、ベッドから抜け出すと、衣類を入れたキャビネットの前にしゃがみ込み、着替えを用意し始めた。
「ねえ、さっきさあ」
「うん」
「繋にこっぴどくフラれたような気がするんだけど、何でまだここにいるの」
「いや、うん……」
繋ぐはもぞもぞと言葉を探している。
「六華、一つ訊いてもいい?」
「いいよ。二つでも三つでも」
「冷蔵庫に入ってるトライフル、食べてもいい?」
「見たんだ」
「うん」
「繋の描いたのそっくりにできてるでしょ?」
「うん。びっくりした」
「おかずもいっぱい作ってたんだよ」
「うん、それも食べる」
「でももう一週間くらい経つから、傷んでるかもしれないし、やめといたら?」
「せっかく作ったのに」
「見てもらえただけで、もういいんだ」
繋はいつものようにちょっと困ったような顔をし、六華は寂しい目でにこっとしてみせた。
「質問は終り?」
「いやもうちょっと」
「じゃあどうぞ」
六華がやつれた笑顔で促す。
繋は尻すぼみな口調で、以前にも幾度となく訊いたことをまたぶつけてきた。
「……六華は僕のどこがいいの?」
六華はあっさりと言った。
「言ったでしょ。よくわかんないけどこの人は私にぴったりなんだって感じるって」
繋の目を、和やかに六華の目が見つめた。
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