終わりのプリン

 ところが繋は小さく、言い訳するように言った。


「いや、……僕もう帰るから」


 自分の夢の中のはずなのに、そう自分に都合よくは運ばない。

 それはきっと、自分でもうまくいくわけがないとどこかで思っていたからだろう。

 彼が「帰る」という言葉を、ここ以外の場所に使うのが彼女にはつらかった。

 黙っているこの一瞬一瞬に、ふわふわとこの場を柔らかく包んでいた優しい靄が剥げ落ちていく。


「ねえ、一つ聞いていい?」


「…………」


「結婚したくないって思ってるんでしょ?」



 繋は目を伏せた。

 

――やっぱりね


 六華は浅く溜息をついた。


「それならそれで、はっきり言えばいいのに」


「どうしても、六華と一生一緒にいるとか、家族になるっていうイメージが持てないんだ……」


「……そう」


「ごめん、具合の悪いときに」


「謝らなくていいよ」


 六華は、何でもないことだとでも言うように、小さく笑った。


「ふふっ、なるようにしかならないよね、こういうことってさ」


「ごめん」


「あーあ、私は繋のこと大好きなのに。残念だな」


 熱に浮かされた力のない声で茶化す。

 沈鬱な面持ちで繋は謝った。


「ごめん」


「こうやってお見舞いに来てもらうと、期待しちゃうじゃない」


「……ごめん」


 布団の上の男の手に、六華はそっと触れた。

 その熱さに、繋は怯んだ。


「こっちこそごめんね。繋、無理してたよね」


 言いながら、六華はこのまま死にたくなっていた。


――どうして私って、こういうふうにかっこつけちゃうんだろう


 いつもウィットに富んだ会話で繋に劣等感をチクチクと植えつけて来る六華が、白昼夢を見ているような目にみるみる涙を溜める。

 それが零れるのを見たくなくて、繋はおびえた表情で顔を背けた。


「御見舞いにプリン買ってきた。冷蔵庫に入れとくから、あとで食べて」


 繋はそっと、重なった六華の手の下から自分の手を抜き取った。


「……じゃあ」


 繋は再度立ち上がり、今度こそ小さな寝室のドアを開け、出て行った。

 閉めたドアの向こうから立て続けに洟をかむ音が聞こえたが、六華がベッドから出て追って来ようとする気配はなかった。

 繋は静かなリビングをキッチンへ向かって横切った。

 窓の外、遠くで子どもが笑っているのが聞こえる。

 楽しそうで結構だ、と繋は思った。

 キッチンの端にある冷蔵庫を開けると冷気がひんやりと流れ出してくる。

 そこへ買ってきたプリンを詰め込もうとして、繋の手が止まった。

 そこにはどう見ても自分が買ってきたものよりも高価そうな、高級洋菓子店のシールが貼られたプリンが二つ並んでいる。先ほど六華を見舞いに来たという妹が買ってきたものかもしれない。

 この推測が正しければ、六華に兄妹そろってどれだけプリンが好きなのかと思われたに違いない。

 自分が持ってきたものは妹のものよりなんとなく見劣りするように思えた。

 しかし持って帰るわけにもいかない。とりあえず高級プリンとは離れたスペースに置いていこうと、彼は冷蔵庫のあれやこれやを眺めた。


――これは……


 そこには保存容器がぎっしり詰まっている。

 サーモンマリネやローストビーフが透けて見える。

 丸く揚げた小さなボールは、きっとコロッケに違いない。

 他にもいろいろ、食べきれないくらい保存されている。

 ここを出る前、冷蔵庫の中身はこんな状態ではなかった。六華はあまり作り置きをしない主義だったはずだ。

 

 しかし今となってはどうでもいいことだった。彼は小さな扉を静かに閉めた。

 ところがその一瞬、保存容器の奥に、何かが見えた気がした。

 それが妙に見覚えのあるようで、どこか引っ掛かる。

 それは自分にとってあまり良くないようなことにも思えたが、何かが「見ておけ」と胸の奥で囁く。

 しばらく冷蔵庫の白い扉を見つめ、逡巡の後、もう一度繋はそこを開けてみた。

 彼はパズルでもやるように保存容器の置き場をあちこち替えて、冷蔵庫の奥にあったものを目の前に引っ張りだした。

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