砂井さんは――――カッコいい。
砂井さくらさんは、とてもカッコいい女の子だ。本当に、痺れるくらいにカッコいいのだけど、それを友達の安崎に言ったりすると「カッコいい……?」と訝しまれる。まあ疑うのもわかる。確かに、学校の教室で存在感を消してひとりの時間を読書で過ごす砂井さんと〝カッコいい〟なんて単語は、結び付きにくい。当てはまる言葉といったらせいぜい〝地味〟とか〝物静か〟とかだと思うだろう。ビルの屋上でライフルを構え、スコープで捉えたターゲットを撃ち抜く砂井さんを見るまでは、僕もそう思っていた。
僕は隣を歩く彼女をチラリと見る。
狙撃ポイントへ向かう砂井さんは、鋭い刃のような雰囲気を纏わせ、無意識の威圧感を放っている。
か……
カッコいい……。
仕事人モードの砂井さんと一緒に歩けるのが嬉しくて、つい何度も盗み見てしまう。殺気立つ視線。真一文字に結ばれた唇。きびきびとした歩き方。それらすべてが、小柄でちょっと幼さのある砂井さんのものだというのがにわかには信じがたい。色素が薄めな柔い肌。つい両手で包んであげたくなるような小顔。首元まで自然に伸びるセミショートの黒髪は、良いトリートメントを使っているのか、つやつやとして綺麗だ。少々長めな前髪は目元にかかっていて……、
その前髪の間から覗く茶色の瞳が、こちらを向いた。
「何」
平坦な声色に、僕はびくっと体を震わす。
「あ、えっと」
「?」
「……か」
僕の中にちょっとだけ悪戯心が芽生えた。
この状態の砂井さんにはビビってばっかりだったけど……たまには反撃してみよう。
「可愛いなあ、と思ってさ。砂井さん、少しお化粧変えた? いつにも増して可愛いよ。好きだなあ、砂井さんのこと」
「そう。あまりジロジロ見ないでくれる?」
「あっはいすみません」
撃沈であった。
謝る僕に「ん」とだけ応えて、砂井さんは歩くペースを上げた。僕でも追いつくのに苦労するくらい速い。そのせいで、砂井さんの顔を見られなくなってしまった。
機嫌を損ねてしまった……なんてことだ……。
謝りつつもついていき、ビルのエレベーターや階段を上がる。ビルの屋上に到着。ここから狙撃の準備に入る。
◇◇◇
そもそも何故、素人である僕が砂井さんの仕事に同行しているのか。
それは僕が「砂井さんの仕事を見てみたい」と望んだからであり、砂井さんが「兵太くんと一緒だとうまくいく気がする」と言ってくれたからだ。
事実、僕がそばにいると調子がいいらしく、仕事を予定より早く終わらせることができているらしい。元から砂井さんは百発百中の天才スナイパーだったらしいけれど、僕が一緒なら百発百二十中だそうだ(なんだそれ)。
また、例によって、砂井さんが撃つ標的は人ではない。逃走中の犯罪者が乗っている車のタイヤだとか、逃走中の犯罪者が持っている刃物や銃だとか、とにかくいろいろな〝人以外のもの〟を撃っている。
普通なら数百メートルも離れたちっぽけなターゲットに精確に当てるなんて芸当はできない。ただの天才では不可能だ。肉眼では砂粒以下にしか見えないくらいのそれらを――――しかし砂井さんなら撃ち抜ける。そこには圧倒的な狙撃技術だけでは説明できない何かがあると思われた。
その何かとは、何なのか?
例えばこんなエピソードがある。
砂井さんと雲前橋でデートをしていた時のことだ。
当時まだ僕らは手を繋いだこともなくて、僕はカチコチに緊張していた。僕がそうなくらいだから、普段弱々しい砂井さんはガチガチになっていた。ことあるごとに「ひゃっ」とか「にゃっ」とか可愛い声を上げていたっけ。その様子が可笑しくて、僕は次第に笑えるようになり、それにつられて砂井さんもほぐれた表情をするようになったのだけれど、依然として手を繋ぐことはできていなかった。
自然に繋ぐ方法を考えながら街の外れを歩いていると、唐突に、僕の右手がすべすべとしたほんのり温かい感触を感じ取った。
横を見ると、砂井さんが僕の手を、さりげなく、きゅっと握りしめていた。
え?
僕は混乱した。
手が。
手が!
キャー!
この子こんなに大胆だったの?
うわめっちゃすべすべ! 指、ほっそ! それなのにやわらか! あったか!
うおおおお!
手繋ぎ最高ォォオ!
みたいなことを心の中で叫びまくっていると、隣で砂井さんが鋭い声を発した。
「建物から離れて」
「えっ?」
「地震が来る。大きい。早く建物から離れて」
そして、その十数秒後、震度5弱の強い地震が街を襲った。
砂井さんが僕の手をとったのは、手を引いて安全な場所へと僕を連れていくためだったのだ。
地震が収まった後、僕は三つのことを思った。
ひとつは、女の子と手を繋ぐと幸せになるんだなあということ。
ふたつめは、危機が迫って仕事人モードになった砂井さんはすごくカッコいいなあということ。
そして三つめは、砂井さんって、未来予知ができるのでは? ということだ。
スナイパーは、風速、風向き、温度や湿度、地球が自転する際に働くコリオリ力までをも考慮に入れ、ターゲットを狙う。しかしそれにも限界がある。いくら天才かつ歴戦のスナイパーでも、標的にヒットさせられたとして、その後のことまでは考えられない。撃たれた標的が、どんなふうに破壊され、どんなふうに破片を飛び散らすのか、そこまでは予測できない。
どういうことかというと。
つまり砂井さんは、そこまで考えているのだ。
犯罪者が人質に突きつけたナイフに、砂井さんが撃った弾丸が向かっていくところを想像してほしい。空間を歪ませるようにして突き進む弾丸。それがナイフに衝突する。ナイフは破損し、犯罪者の手から離れる。折れたナイフが回転しながら飛んでいくが、人質にも、犯罪者にも、その周囲にいる人々にもその刃は当たらない。落ちたナイフは地面を滑り、包囲していた警官の足下に落ち着く。そしてそのまま警官たちは犯罪者を拘束する。
人以外を撃つスナイパー。
その能力は人知を超えている。
未来予知にも近いことを可能にする、ものすごい能力。
いや、これ、能力という言葉で片づけてしまっていいのかな。
よし、今度からはカッコよく、異能と呼ぼう。
そんなことを思い、口に出そうとして砂井さんの方を向く。
砂井さんはこのビルの屋上で、膝射の姿勢でスナイパーライフルを構えていた。相変わらず近くのものに切り傷でも与えそうな雰囲気だけれど……どこか様子がおかしい気がする。何故だろう。呼吸はまあまあ安定しているし、集中も途切れてはいないみたいだけど……。
その時、僕はハッとした。
おかしいのは、それだ。
まあまあ安定している程度の呼吸では長距離狙撃なんてできない。
ほんの少しコンディションが変化するだけでそれは致命的なミスを招き得る。それが狙撃なのだと砂井さんは言っていた。ならば今のこの状態は、バッドコンディションとすらいえるのではなかろうか。
どうしてしまったんだろう?
さっき、僕が砂井さんを怒らせてしまったのと何か関係があるのだろうか?
心配しながらも、僕はどうすることもできない。彼女が具合を悪くしているというのに、僕は、無力だ。砂井さんは「兵太くんと一緒だとうまくいく気がする」と言ってくれたのに。だからせめて、心の支えであろうと思っていたのに。
砂井さんが人差し指をトリガーから離した。
大きく息を吐く。
それから、ライフルの構えを解いた。
僕の方を向く。
「兵太くん」
「な、何? というか大丈夫? 僕にできることがあったら何でも……」
「来て」
集中を阻害しないようにと一定の距離を置いていた僕は、戸惑いながらも砂井さんに近寄る。すると、砂井さんは僕の手をそっと握った。やわらかくてあたたかく、今は手汗でしっとりとしている砂井さんの手。僕はドキッとして息をのむ。砂井さんは僕の手をとったまま自分の頭に乗せた。
「撫でて」
「あ、うん」
よくわからないまま頭を撫でる。身長149cmという小柄な砂井さんの頭は、非常に撫でやすい。髪もサラサラで、撫でてるこっちが気持ちよくなってくる。
すぅー、はぁー、と吐息が聞こえる。
砂井さんの呼吸音が、徐々に僕の聞き慣れたものに近づいていく。
それはスナイパーとしての状態が高まっていることを意味していた。
「うん。ありがとう。もういい」
「ど、どういたしまして……」
「あ」
「ん?」
再びスナイパーライフルを構えようとして、砂井さんはこちらを見た。
ほんのりと赤みのさした頬。
「撃つ間も、わたしに触れていて」
そして。
その日も砂井さんは、任務を見事に完遂してみせたのだった。
◇◇◇
「ごめんねっ……ごめんね、兵太くん……っ」
「大丈夫だって。怒ってないよ。ほら、拭いて」
大きな瞳をうるうるさせてしきりに謝る砂井さんに、僕は笑ってハンカチを差し出す。砂井さんはこくんと頷いて受け取り、溢れそうになった涙をちろりと拭った。
仕事を終えて、その帰り道だった。人通りの少ない並木道。ライフルの入った大きな楽器ケースを砂井さんの代わりに僕が背負い、ふたりで歩いている。スナイパーモードから平常運転に戻った砂井さんの歩幅は、狭い。きびきびとした足取りから、とことことした歩き方に変わった感じだ。
そんな砂井さんに合わせて、僕もさりげなくスピードを落とす。
「でも……」
砂井さんが顔を伏せる。
「やっぱり、あんな言い方……だめ、だよね……。ひどいこと、言っちゃった……」
仕事の前、僕に対して「あまりジロジロ見ないでくれる?」と言ったのを気にしているのだ。それでさっきから謝ったり、落ち込んだりしている。泣いちゃう砂井さんも可愛いなあ、とは思うが、それはそれとして悲しませてばかりじゃいられない。
「砂井さん」
僕に名を呼ばれて、砂井さんは肩をびくつかせる。
「僕の方こそ、ごめん」
大きな茶色の瞳が、きょとんとして前髪の間から僕を見た。
謝られるなんて思っていなかったという顔だ。
僕の下心に気づかない砂井さんの純粋さが愛おしいけれど、悪戯もほどほどにしなければ。
「狙撃が最初うまくいかなかったのは、たぶん、僕のせいだ。僕が変なこと言ったから、砂井さんは僕に、ぴしゃりと厳しい物言いをした……そうでしょ? 可愛いとか、好きだとか、僕が言ったことは全部本当だけど、でも悪戯心もあったんだ。スナイパーモードの砂井さんに、ああいうことを言ったらどうなるか、知りたくて」
「そっ……! そんな、いいよ! わたし、気にしてないしっ、ていうか、その……」
砂井さんは袖の先からちょろりと出した指先をもじもじさせる。
「……うれし、かったし……。ちゃんと、おめかしの仕方を変えたこと、気づいてくれて……ちゃんと見ていてくれて。……わたし、嬉しかったの……。だから、お仕事中も、そのことで頭がいっぱいで……兵太くんの言葉が、頭の中、ぐるぐるーってなって……」
「砂井さん……」
「でも……でもね……? そんな『嬉しい』をくれる、兵太くんがいるから……わたし、がんばれるの。だ、だ、だから、そ、その……あ、あ、あのね、兵太くん……!」
目を今までになく泳がせる砂井さん。
僕は、歩幅を合わせてゆっくりと歩きながら、決して急かしたりせず、ただ待った。
やがて砂井さんは、顔を上げる。
「こっ……これからも、わたしを好きでいてくだしゃひっ……!」
僕は思わず噴き出してしまい、そして肝心なところを噛んでしまった当の砂井さんも、慌てた後に声を立てて笑う。
そして僕は、思った。
ライフルを持っていない間は引っ込み思案で頼りないけれど、伝えるべきだと思ったことはきちんと目を見て伝えてくれる。
そんな姿こそ、砂井さんの、本当にカッコいいところなんだ。
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