親愛なる「やさしい人」へ

雨月夜

第1話



 「優しい人が、一番嫌い。」



 気怠い授業の中休み、隣の席の男子は、既に口癖になっているその言葉を呟いた。

 高校に入学して早数か月、既に何十回も聞いた言葉だった。


 私はそれを、いつも「おかしな話だ」と思いながら、無言で聞いている。

 全く皮肉だとも思うが、それをわざわざ口にする事もなかった。




 だって、彼はクラスメイトから「優しい」と褒め称えられているのだから。

 


 「何でも引き受けてくれる」

 「困っている人を見捨てられない」

 「いつも優しい笑顔」


 それが、彼に対するクラスメイトの評価だった。

 というよりも、彼がそれ以外の評価を受けているのを、見たことはない。



 「それ、もう口癖だよね。」



 私が珍しくそう切り返すと、彼は少しだけ意外そうに、こちらを見た。

 ハの時になっている眉が下がって、困り顔のような笑みを浮かべている。


 そんな彼の色素の薄い髪の毛が、窓からの光に透けてキラキラ輝いていた。




 彼はそもそも、外見からして「優しそう」な人だ。


 小柄で細身な頼りない身体、ヘラヘラとした笑顔が貼り付いた特徴のない顔、何も主張しない高めの声。


 確かに彼は、きっと「優しい」。

 クラス中から爪弾きにされている私にも、分け隔てなく接する彼は、誰に聞いても間違いなく「優しい」人なのだろう。




 しかしそれは、正確には「都合のいい人」という意味であるように思う。



 以前、それを彼に直接話した際、彼は顔色一つ変えずに「知っているよ」と答えた。いつも通りの、貼り付いた笑顔を一切歪めもせずに。


 それ以来、私は彼に一目置いている。

 純粋に、面白い奴だと思うからだ。



 実際に彼との会話は、周囲で喧しく騒ぎ立てるクラスメイト達とのそれより、よっぽどまともだった。




 「君の言う『優しい人』って、どんな人?」



 だから今日は、そんな疑問をぶつけてみた。


 時々話すだけだが、彼は私にはない視点を持っている。

 少し皮肉気味だが大人びていて、論理の通った彼のものの見方を聞くのが、私は好きだった。


 彼も彼で、私と話す事が嫌いではないのか、時々彼から話しかけてくることもあった。そんな程よい距離感での会話が、とても心地良い。




 彼はいつもの笑顔のまま「そうだなぁ」と独り言ちる。

 考えているのかいないのか判りにくい笑顔ではあるが、彼が真剣に考えてくれることを私は知っていた。


 だから、次の授業の教科書を取り出しながら、のんびりと待つ。




 次は数学。私の好きな授業だ。

 数字は嘘をつかないし、何より美しく、正確だから。




 「優しさって、常に善意の押し付けだと思うんだよね。」



 彼の声が、唐突に響く。いつも通りの、少し高めの声。


 その視線は、窓の外の「ボランティア清掃員」の姿を見つめていた。



 「優しい人って、相手のことを思って行動していると言う。でも、それはその人から見た『相手』であって、本当に相手が望んでいるかはわからない場合が多い。もしかしたら、相手にとっては迷惑かもしれない。」


 「でも、受け取る側はそれが『善意』である以上、無下には出来なくなっちゃう。ボランティアとかも、正にそれだよね。」


 「それを理解もせずに『相手のため』を思って行動しちゃう人間、俺は嫌いかな。」




 そこまで言うと、彼はコチラを見た。


 髪の毛と同じく色素の薄い瞳が、皮肉げに歪む。



 「だからこそ、俺は確かに『都合のいい人』ではあるけど、相手が求めること以外はやりたくないんだよね。」


 「むしろ、相手の望みを叶えること以外は、絶対にやらない。それ以外は全部、押し付けだもん。」




 私は「ふーん」とだけ、答えた。

 確かに彼には一切押しつけがましいところがなく、そこがまた彼と過ごすのが気楽な理由でもあるように感じる。


 なるほど確かに、彼らしい考え方だ。


 毎度ながら、面白い考え方だと思う。とても筋が通っていて、わかりやすい。

 確かに斜め上からの視点ではあるが、それを語るのが俗に言う「優しい人」の彼であることが、余計に面白いところだった。



 だから、私の「ふーん」は、賞賛の意味を含んでいる。


 この態度は多くの人の気に障るらしいが、彼は悪意がないことを理解してくれているらしく、全く気にした様子はない。それも、私が彼と話すのが好きな所以だった。




 いつも、2人の会話はココで終わることが多い。

 彼の考え方に、私が賞賛を示して、また互いの世界に戻る。





 でも、今日は違っていた。


 彼が突然、私の方に手を伸ばしたのだ。



 「でも、もっと嫌いな『優しい人』は…。」



 それだけ絞り出して止まった彼の声は、珍しく何の色もなかった。

 いつもの柔さがない、固い声。


 私は驚いて、彼を見る。

 その表情に、いつもの笑顔はない。初めて見る表情だ。



 「どうしたの?」と聞くのも何か違うような気がして、私はただ彼を見つめた。




 しばしの沈黙の後、彼の伸ばした手は空を彷徨って、2人の机の間に落ちる。


 何となくその手の行方を追視すると、彼の膝の上に辿り着いて、拳の形になった。

 いつの間にか俯いた彼が、その拳をどういう気持ちで見ているかは、私にはわからない。




 「俺さ、ずっと死にたいと思っているんだ。」



 唐突な彼の語りに、私はまた驚いた。

 急過ぎる展開に頭が上手く回らず、ただただ彼の言葉を聞く。



 「物心ついたころからかな?何でかわからないけど、ずっと死にたくって。」


 「何故生きなきゃいけないかが、わからないんだよ。なんにも面白くないし。」


 「実は、どうやったら楽に死ねるかを、ずーっと考えているんだ。」



 一切コチラには視線を向けず、俯いたままの彼は、淡々と語る。

 その声に、いつもの弱弱しさはなかった。



 個人的には、少しだけ、意外な内容ではあった。

 だって、彼からそういう話を聞いたことはなかったし、その様なそぶりも一切感じたことがなかったから。



 しかし同時に、当たり前かもしれない、とも思う。


 これだけ世間を斜め上から冷静に分析する能力を持ちながら、実際には「都合のいい人」として扱われ続ける。それは確かに、苦痛であろう。

 そうでなくても、彼には彼の苦悩があって当然なのだ。いつも笑っているからと言って、何の苦しみもない筈はない。




 彼の言葉は、他のクラスメイトが嘯く薄っぺらい「死にたい」とは、違う。

 ただ「嫌なことから逃げたい」「ラクして生きたい」という意味ではないのだろう。


 それだけ、歴然とした重みを感じる、言葉だった。





 私は、生きなきゃいけない理由も、死んではならない理由も知らない。


 彼の命は、意思は、全て彼のモノであり、彼の自由だ。

 だから、彼が何を考え、どう死ぬかは、全て尊重されるべきものだと思う。周囲がとやかく言うべきではない。


 もしかしたら「そんなこと言わないで」と言うべき場面なのかもしれない。


 でも、そもそも、何が彼にとって幸せかなんて、彼にしかわからないのに、どうしたらそんな適当なことが言えようか?



 生きていれば幸せだなんて、誰が言ったのだ。





 「別に、いいんじゃない?」


 私がそう言うと、彼は意外そうに顔を上げた。



 「それも、君の自由だと思うよ。君が心からそう思うなら、私はそれを絶対に支持する。」


 「一緒に、どうやったら楽に死ねるか、考えようか?」




 これは、私の心からの言葉だ。



 これでも私は、彼を好ましく思っているのだ。

 クラスで浮いている私に分け隔てなく接してくれたから、というだけではない。彼の話す言葉や、世界を見る視点が、好ましいと感じる。


 だから、彼が望むことを支持するのが、当然だと思う。それ以外に、私が彼に対して出来ることはない。



 彼の言葉を借りるなら「相手の望みを叶えること以外は、絶対にやらない」だ。

 私も、この考え方には、全面的に賛同する。





 私は真剣に「どうやって死ぬのが楽なのか?」を考え始めた。


 流石に「私が殺してあげる」ということは出来ないので、せめてもの協力のつもりだった。




 そんな私を見て、彼は笑った。


 泣き笑いの様な、複雑な表情だった。

 今日は、彼の「初めて見る」表情のオンパレードだ。




 そう言えば、笑顔を貼り付けるのがデフォルトの彼にとっての「本音」とは、何なのだろうか?





 「だから、優しい人は、嫌いなんだ」



 そう語る彼の声は、チャイムの音にかき消される。

 「起立!」と言う日直の声に反応して立ち上がる彼は、当然のように「いつも通り」の彼だった。


 もうこの話は終わりと言わんばかりに、彼は黒板の方だけを見つめている。





 あの「泣き笑い」のような顔こそが、もしかしたら彼の本音を孕んでいるのかもしれない。

 そんなことを思いながら、私も遅れて席を立つ。



 しかし、その「本音」が何なのか、私には皆目見当もつかなかった。






 親愛なる「優しい人」へ

 (あなたって、本当に)

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