曲がる、交差点

ʟᴇᴍᴏɴᴀᴅᴇ sᴀɴᴅᴡɪᴄʜ

in 渋谷


 夜道を歩いている。夜道、と言うのにふさわしい、人気のない住宅街だ。立ち並ぶ建物の隙間から、冷ややかな月の光が差し込んでいる。街灯は少ないが、明るい。久々の月夜である。

 少し道を逸れればすぐに繁華街に面するこのあたりは、治安はあまりよくない。しかし今晩は特別らしい。いわゆる『華金』の名残もなく、酔っ払って迷い込んだ若者もいなければ二次会会場へ近道しようとする千鳥足のサラリーマンもいない。とても静かだ。遠くに見える踏切も、今は黙ってじっとしている。

 今日は、良い日だった。ただ漠然とそう思う。そして、あの晩もそうだった。


 まだ梅雨入り宣言もされていなかったあの晩、私はとても上機嫌だった。朝家を出るときに慌てて、タイトルも見ずに掴んだ文庫本が、偶然そのころ特に気に入っていた作家の新刊だった。単行本が発売されてすぐに一度読んでしまってはいたけれど、文庫化にあたって未発表だった短篇も収録されるということで買ったまま、忙しさにかまけて忘れていたものだった。加えて、何の気なしにふらりと入った喫茶店が当たりだった。コーヒーはもちろん店内に流れる音楽の趣味もよく、音楽のわからない私にはかけっぱなしの有線放送だったのかこだわり抜かれたレコードだったのかの見当すらつかないが、その心地よさに気づけば長居してしまっていた。何冊かの本を読み、その喫茶店を出るころには雨は止んで月が出ていた。もっとも、私が街を歩いていたころは晴れていたのでさして長い時間降っていたわけではないようだが、それまで居心地の良い低いテーブルの席でコーヒーを傍らに活字に没頭していた私は、店を出て外気の湿度に触れたところで初めて雨が降ったことに気付いた。私はもちろん傘など持っていない。不要になった傘を片手に歩く人びとの間を、少し身軽に通り抜けた。


 一日に累計何千人、何万人の人が通るのか、見当もつかない、とにかく人の多い道に出た。縦横無尽に人が流れる様子は、自分がその中にいるときにはさして気にもならないが、遠くから見ているとやはり不気味なものであろう。これだけ大量の人間が、各々別々の方向に、同時に足を踏み出しているというのにどこか整然としている。稀に肩や荷物がぶつかったところで、多くは大して気にもかけず通りすぎてゆく。もっとも、怒りをおぼえて振り返ったところで相手はすでに雑踏の一部だ。探し出す手間よりも先ず、自分の目的地にたどり着くことが優先されるのも無理はない。人との関りよりも自己を優先せざるを得ないのは少し悲しいことかもしれないが、どこか満たされた私には、それくらいの冷たさがむしろ心地よかった。人の多い横断歩道からやけに大きく見えた月は、変わらず明るく綺麗だった。

 すれ違った人の中で、あの喫茶店を知る人は何人いただろうか。この先あの喫茶店を気に入り、今日の私のように通うようになる人は。そして、あの日以前の私の知らないあの喫茶店を知っている人がきっと存在することを、少し妬ましく感じた。だからこそ、同時に、あの日見つけた私のお気に入りは、それとの出会い自体すら誰にも教えないでおこうと思った。自分のルーツなんてものは不可逆で、歓びも後悔も、秘密にしておいたほうがいいに決まっているのだ。先は見えなくても、我々の半直線は必ず交わり色を変え、時に衝突し進路を変えるだろう。いつかその分岐点たちが我々の魅力に昇華するときまで、それらを愛し続けることができれば間違いない。星は見えなくても、月の煌きが全てを消してくれているのならばそれでいい。

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曲がる、交差点 ʟᴇᴍᴏɴᴀᴅᴇ sᴀɴᴅᴡɪᴄʜ @lemonadesandwich

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