第2話 二人の幼馴染が抱く切なさに

「…………なに、この乗り物…………?」


 横長の車窓から見えるその光景に、アイは限界まで両眼を見開いてつぶやく。


「…………ホバーボートやホバーカーの比じゃない…………」


 それは、アイの隣にいる勇吾ユウゴですら、糸目から細目に太くなる程であった。


「…………僕たち、あの能力で移動してるの? それとも、目の錯覚…………?」


 言葉遣いも、いつもの丁寧さはなく、むしろ年相応といってよかった。


「…………両方に決まってるでしょう。じゃなきゃ、こんな風に見えっこないわ…………」


 アイは頭を振りたかったが、視線が文字通りのごとく釘付けにされてしまっているため、実行は不可能であった

 それだけ衝撃的だったのだ。

 二人の幼馴染が引き剥がせないでいる眼前の光景に。

 とはいえ、光景それ自体は別に珍しくない。

 誰もが見慣れているごく平凡な山林である。

 見慣れないのは光景の変化だった。

 勇吾ユウゴの早斬りよろしく、それが通り過ぎる速度スピードがあまりにも速すぎるのだ。

 瞬間移動という超能力で走行しているとしか、二人の幼馴染には思えなかった。


「――そらそうやろう。なんてったって、最高速度、五○○キロまで出せる『サイコモーターカー』っちゅう名の『列車』なんやから」


 通路側の座席に腰を下ろしているイサオが、窓側の座席から立ち上がって張りついている二人の友達に対して、落ち着いた口調で答える。どこか自慢げに聴こえるが、勇吾ユウゴアイは構うことなく車窓から見える光景の変化に目を奪われていた。


「――無理もないわ。初めて試乗したアタシでさえ、驚きを隠せなかったんだから」


 リンイサオと同じ側の相対した座席から応じる。視線を落としたままの姿勢で。その先にある膝の上には、細かい部品が散らばった長方形のトレイが乗ってある。リンはその部品の組み立てに、こちらも余念がないようである。


「――そういや、おまいも携わっておったんだっけ。『サイコモーターカー』の開発に」


 そんなリンに、イサオが問い質す。


「――オブサーバーとしてね。最後の詰めとして依頼されたのよ。連続記憶操作事件の後に」


 リンが手を止めて答えると、イサオが思い出したかのように問い続ける。


「――それからやったな。おまいにその類の仕事がよう来るようになったのは」

「――そうね。大半は、連続記憶操作事件の前まで、アタシの主張を信じずに否定し、真実の発覚後、掌を返したように媚びへつらって来た科学者や華族たちだけど」

「……よう受けおったな。そないな連中の依頼を」

「――記憶操作で消去したからね、その記憶は。そう感じるのは、それを施したアタシの主観だし。それに――」


 リンがそこまで言うと、下に落としていた視線を、車窓に張りついている勇吾ユウゴアイの後姿に向け、


「――そんな裏事情、享受する側は関係ないからね」


 と、付け加える。


「――たとえそれがアタシの関係者でも――」


 も、忘れずに。だから地元に帰省する勇吾ユウゴアイの誘いに応じ、同行することになった今でも、その合間を縫って、新たな超心理工学メタ・サイコロジニクスの発明と試作品の開発を続けているのだ。

 真夏にふさわしく、四人とも四種四様の涼し気な旅装ある。


「――ねェ、なにっ! この『サイコモーターカー』っていう乗り物っ! 今日、初めて乗ったんだけど、スゴイってもんじゃないわっ!」


 帰省の途上で、それを最大限に満喫していたアイが、興奮した猛牛のような口調と表情でリンに詰め寄る。


「――教えて、リンちゃんっ! 知ってるんでしょ!」


 勇吾ユウゴもいつもの平常心を床にはたき捨てて、たったいま初めて『ちゃん』づけした相手に猛然とせまる。


「――まァまぁ。慌てなさんなって、お二人さん」


 そこへ、イサオが落ち着いた態度で両者をなだめる。


「――ここはワイが懇切丁寧こんせつていねいに説明したるさかい――


 そして、落ち着き払った口調で前置きすると、ひとつ咳払いしてから説明を開始する。

 『サイコモーターカー』とは、一周目時代の二十一世紀日本で運用されていた『リニアモーターカー』を、二周目時代の第二日本国おいて再現させた、『列車』という名称に分類カテゴライズされる乗り物である。

 再現といっても、走行原理上は似て非なる上に、その基礎技術も根本的に異なっている。

 詳細は割愛するが、端的に言えば、電磁石によって得られる推進力を、念動力サイコキネシスのそれで代用しているのである。

 科学技術テクノロジーもエネルギー源もまったく違うので、遺失技術ロストテクロノジー再現研究所が、精神アストラル界から参考可能な技術情報のサルベージに成功したとはいえ、発案から営業開始まで八年近くの歳月を費やしたが、その甲斐と効果は絶大で、運送と移動の費用コストと負担が、劇的なまでに下がったのだ。オブザーバーとして最後の詰めに携わった観静リンも、それに一役買っていた。

 これまではテレポート交通管制センターが全国のそれを担っていたが、一km《キロ》以下ならともかく、一○○km《キロ》単位だと、費用コストと負担が劇的に跳ね上がり、おいそれと気軽に利用できる交通手段ではなかった。ホバーバイクやホバーカーなら、タイヤのように接地しないで走行できるため、舗装の手間と費用コストが掛からなかった分、二、三年で全国に道路の交通網を行き渡らせた事情も手伝って、比較的有効だが、費用コストと負担は乗り手次第な面が大きく、なによりも時間がかかるので、所要時間だけ見れば空間転移テレポートに遠く及ばない。ゆえに、国土の端から端への移動には、一瞬で目的地に到着できる空間転移テレポートを除けば、最低でも丸二日を要していた。

 ところが、国土を縦断するように敷かれた『サイコモーターカー』だと、合計トータルでわずか三時間で済むようになったのだ。

 この画期的な乗り物の登場により、昨今の第二日本国内では、空前の旅行ブームが到来した。|アスネ(A ・ S アストラル・スカイ・・ Nネットワークの略称)で存在を知った遠方の観光地へ行きたくても、費用コストと手間と時間と距離の分厚い四重壁の前に、華族以外、断念せざるを得なかった士族や平民たちの事情が一変したのだ。旅行好きの彼らはこぞって運賃の安いその乗り物で、全国に点在する観光地を片っ端から観光した。中にはその乗り物に乗る目的で旅行する者たちまで現れ、目的と手段が入れ替わる事態までも発生した。もっとも、旅行は目的地に到着するまでの過程も含めて楽しむものなので、空間転移テレポートでの旅行など、旅行ではなく、単なる移動である。コンビニ感覚と言っても過言ではない。いずれにしても、今後の第二日本国において、『鉄道』は無視できない交通手段になることは確実であった。一周目時代の近現代日本のように。

 だが、一周目時代の日本における鉄道の歴史は、『蒸気機関車』から始まり、次に『ディーゼル機関車』、その次に『電車』、そして『リニアモーターカー』へと、世代交代のように入れ代わって行ったのに対して、二周目時代の第二日本国では、『リニアモーターカー』に相当する列車から、鉄道の歴史が始まったのだ。それ以前の列車にそれぞれ必要な化石燃料や電気技術が、二周目時代ではいまだ発見や確立がされていない事情があるとはいえ。まさに、『明治』前期からいきなり『令和』へ跳躍ワープしたような文明発展を象徴する、新たに誕生した第二日本国の交通分野である。

 そんな事情なので、交通や時代に限らず、どの分野よりもディープで熱狂的な鉄道のファン層だった存在――通称『鉄ヲタ』は、無論、二周目時代の第二日本国には、


「――この列車は『疾風』五〇一号とうてな、『突風』よりも速く、『烈風』よりも遅いんやけど、この中では一番いっちゃん運行本数と編成バリエーションが豊富で、内装も快適なんや。朝の五時からの始発も――(中略)――。そしてな、走行原理はさっきうた通り念動力サイコキネシスなんやけど、レールの必要があらへんホバーボートやホバーカーよりもはるかに高い速度スピードが出せるのは、そのレールのおかげなんやで。しかも、その技術は一周目時代の二十一世紀日本に存在していた『リニアモーターカー』のそれを、車両ともども参考にしているからなんや。つまり、電磁石を念動力サイコキネシスに置き換えたっちゅうわけ。そんでもって、車両とレールには綿密な関連があって、様々な装置が――(中略)――。これがいまおまいらが乗っとる『疾風』の静止画と走行音や。綺麗に録れた見聞記録ログやろ。それぞれ一○○○《いっせん》あるで。『突風』や『烈風』のヤツもな。全停車駅の外見や構造、発車メロディや警笛も全部収録しとる。あと、各駅が発行した切符やそこで押された駅スタンプ、開通記念グッズや鉄道模型までも持っとるで。絶対にやらんけど。その代わり、ワイが独自に、鉄道に関する様々な運転、施設設備、業務、駅、時刻表、一周目時代の鉄道の歴史と、その時のそれらを、現在いまのそれらと比較検証した膨大な考察と研究の知識をおまいらにさずけ――」


 ……すでに一名、爆誕済みであった……。

 ……そして、饒舌というレベルをはるかに超越した龍堂寺イサオの説明に、一瞬でもついて来られる聴者など、無論……


「――ねェ、アイちゃん。家に着いたら、何をする?」

「――もちろん、『夏祭り』の準備よ、ユウちゃん。今頃、アタシの両親がそれに取り掛かっているわ。『第二次幕末』が終わってから、アタシの実家で行われている、毎年恒例の行事だからね。その実行委員長の娘として、アタシも手伝わないと」

「――それじゃ、僕も手伝うよ。僕もアレからずっと楽しみにしていたから」

「――それはアタシもよ。それに、今年はそれに合わせて、サイコモーターカーの開通と、その停車駅の設置記念として町おこしも開催されるからね。きっと賑やかで楽しくなるわ」


 ――絶無に決まっていたっ!

 理解不能となった段階で、イサオのマニアックすぎる説明の傾聴を打ち切り、別の話題に切り替えて盛り上がっている二人の少年少女が、なによりの証左である。

 二人よりも素早く打ち切ったリンも。


「――絶対にいい想い出にしよう、アイちゃんっ!」

「――ええ、絶対にするわよ、ユウちゃんっ!」


 二人の幼馴染は、約束するかのように誓い合い、力強くうなずき合う。

 それも、頑ななまでに。


「――二人とも、大げさねェ。いくら今年は特別とはいえ、そこまで気合を入れるなんて、まるで子ども――」


 ――のようにはしゃく二人の友達を、リンは微笑ましい表情と温かい視線で見やりながらつぶや――


「――――――――――っ!」


 ――きかけたまま、舌ごとその表情が凍りつく。

 ある事実に気づいて……。


「……そう、だったわ……」


 それは、戦慄に似た、重大で深刻な事実であった。


「……だから、必死なのね。楽しい想い出作りに……」


 二人の幼馴染には、幼馴染ゆえに、長きに渡って共有シェアした想い出がある。

 幼馴染と聞くと、幼馴染ならではの特別な付き合いや仲が、両者の間にはあると、万人は思いがちである。

 無論、それは誤った認識ではない。

 確かに、勇吾ユウゴアイは、幼馴染ならではの特別な付き合いがあり、仲がある。

 それに加えて、希少レア度の高さなら、既存のそれらとは比較にならないほどの群を抜いているだろう。

 悪い意味で。


「……イジメをする側と受ける側の仲だった忌まわしき想い出きおくを、少しでも埋めようと……」


 そう思うと、リンたとえようのない切なさに、正視すら耐えられなくなる。

 そんな二人の姿を。

 七年のときを経て、ついに勇吾ユウゴと仲直りすることができたアイは、その時の幼馴染に対して、こう言っていた。


「――これからはできるだけいい想い出を作って行こう――」


 と。

 ――そして、その前には、


「――自分に記憶操作を施して、都合の悪い事を忘れるなんて、もってのほか――」


 とも。

 だから、忘れるわけにはいかなかった。

 それが、忘れたくて仕方がない、忌まわしき想い出きおくでも。

 ゆえに、背負って行くしかなった。

 これからも、ずっと。

 だが、それはイジメの加害者であるアイだけに限ったことではない。

 イジメの被害者である勇吾ユウゴにとっても同様であった。

 幼馴染との仲が壊れる原因を作ったのは、勇吾ユウゴ自身なのだから。

 そのあとに続く事情は極めて複雑なので割愛するが、いずれにしても、七年のときを経て、ついにアイと仲直りすることができた勇吾ユウゴは、二度と幼馴染との仲を壊したくなかった。

 その仲を固い絆で結びつけるには、幼馴染が言った通り、できるだけいい想い出を作って、忌まわしき想い出きおくを塗りつぶすしかない。

 今回の夏祭りと町おこしは、二人の幼馴染にとって、数少ない絶好の機会なのである。


『――これ以上、忌まわしき想い出きおくを増やしたくないっ!!』


 という一念が、笑顔で会話する両者を突き動かしている。

 そう思わずに、リンはいられなかった。


「……七年……」


 それは、一五、六才の少年少女にとって、あまりにも長すぎる歳月だった。

 そのすべてを塗りつぶし切るにも。

 なのに――


「――ホントによかったの? アタシまで地元の祭りに誘って」


 リンは質さずにいられなくなる。

 二人の幼馴染にとって、自分は邪魔者でしかないのではないかと、今更ながらに思い至って。


『…………………………』


 それを耳にした二人の幼馴染は、二人だけの会話を中断すると、きょとんとした表情をリンに向けたまま、しばらくの間、無言で見つめる。

 そして、


「――なに言ってるのよ、リンちゃん」

「――そんなの、いいに決まってるじゃないですか」

「――友達でしょ。アタシたち」

「――そうだよ。帰る場所のないリンちゃんを置いて行ったりなんか、僕たちはしないよ」


 透き通った笑顔でリンに応える。

 競うように言い募るそれは、当然と言いたげな表情と口調だった。


「…………………………」


 リンは心の底から湧き上がって来る嬉しさに、涙がこぼれそうになり、ショートカットの前髪を垂らしてうつむく。

 中学の時に母親をうしない、その母親と離婚した父親の消息すらいまだ知らないリンにとって、かつて両親と一緒に住んでいた地元は、もはや帰る場所ではなくなっていた。

 勇吾ユウゴアイと異なり、自分の帰りを待っている身内は、一人も存在しない。

 無理に帰省しても、待っているのは、地元住人の媚びへつらった笑顔だけである。

 二ケ月ほど前に解決した連続記憶操作事件で、超心理工学メタ・サイコロジニクスに関する真実が、全国に知れ渡って以来、それまでリンと生前の母親を冷遇し続けていた地元住人は、華族すら凌ぐ厚遇や歓迎をするようになった。

 掌を返したかのように。

 それがリンにとって気にくわなかった。

 自分たちに対して行い続けて来た仕打ちを、まるで記憶操作でもされたかのように忘却の彼方へと投げ捨て、超心理工学メタ・サイコロジニクスの生みの親が過ごした地元として有名になるべく、アスネを駆使して必死に地元を宣伝するその姿は、あさましさを通り越して、醜悪ですらあった。

 そんな地元に、リンが帰る気が起きることなど、あるわけもなく、地元から幾度も送られてきた無神経な招待状を、リンはその都度破り捨てた。

 リンにとっての忌まわしき想い出きおくは、そこで過ごした地元にあった。

 ましてや、それしかないとあっては、なおさらだった。

 身内やいい想い出もある勇吾ユウゴアイとはちがうのだ。

 一周目時代の日本と同様、帰省時節シーズンが近づいて来たことで、三人の間でその話題が上がったある日、リンに帰省する意思のない旨を、喫茶店『ハーフムーン』の席で知った勇吾ユウゴアイは、超常特区に残るつもりだったリンを、自分たちの地元に誘ったのだった。


『――アタシ《僕》たちと一緒にいい想い出を作りましょう――』


 と、口をそろえて。

 二人の友人から受けた純粋な好意を、リンが拒絶できるわけもなく、その場で素直に受け取り、素直にしたがった。

 しかし、今となっては、少しためらってからすべきだったかもしれない。

 同じ結果になるとしても、過程に対して配慮が足りなかったような気が、リンはする。

 今しがた二人の幼馴染に対して質した内容は、その時点で気づき、実行すべきはなかったのではないかと。


「――遠慮なんかしないでよ。水臭いわ」

「――想い出づくりは一人でも多い方が絶対にいいんだから」


 だが、そんな負い目に似た思いは、さらに言い募る二人の言葉を聞いて、雲散霧消する。

 同時に、安堵もした。

 二人の幼馴染が共通して抱いている想い出づくりの一念は、決して負い目や罪悪感を感じさせるような、病的で盲目的な類のものではないことに。

 ごく自然に心の底から湧き上がった、健全で健康的なものだった。

 そのような一念は、相手に対して、却ってそれを煽ることになる。

 それではいい想い出は作れないことを、二人は頭ではなく、全身の皮膚で感じ取っている。

 なら――


「――そう。それじゃ、遠慮なくそれに加えさせてもらうわ」


 自分もそれを汲んで応えるしか、リンにはなかった。


「――後悔しても知らないからね、二人とも」


 それも、満面の笑顔で。


「――するわけないでしょ。後悔なんて」

「――しないよ、絶対に」


 アイ勇吾ユウゴの二人も、笑顔でそれぞれ応じる。

 だが、


「――後悔するなら……」


 表情を曇らせてつけ加えたアイが、視線を転じると、


「……イサオさんも同行させてしまったことですね……」


 幼馴染と同じ表情と方向に視線を揃えた勇吾ユウゴも、その一念でいっぱいな口調で語を継ぐ。


「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」


 まだ鉄道の説明を終わらせていない関西弁の友達を……。

 その内容は、もはや「ちょっと何言っているのかわからない」次元を、桁違いなまでに跳び超えていた。

 熱意に至っては、絶対零度の真逆を極めているといっても過言ではなかった。

 うかつに触れようなら、火傷どころか、蒸発してしまいそうな勢いで。

 すでに傾聴を打ち切っている三人の友達など、お構いなしである。

 荒野のど真ん中で独り演説する、孤独な演説者さながらであった。

 満席の乗客たちがその車両に同席しているにも関わらず、そのような錯覚に、乗客の誰もが囚われた。

 むろん、無視は正しい判断と行動である。


「――ねェ、ママぁ。このおにいちゃん、さっきからひとりでなにいっているの?」

「シッ!! 指さしちゃダメっ!!」


 文字と空気が読めそうにない幼女の素朴な質問に、その母親は答えるどころか注意し、我が子がイサオに向けていた視線と指先を、無理やり且つ慌てて正反対に身体ごと転換させる。


(――どうしてこんな変人がわたしたちの隣席となりになっちゃうのよっ!)


 我が子をかばうように背を向けた母親のそれから、そうとしか聴こえようのない、精神感応テレパシーのごとく伝わって来るその声に、アイリンは、それこそ負い目と罪悪感で、これもいっぱいだった。


『…………………………』


 その変人を止めるどころか、無関係を装わずにはいられない自分たちの衝動に対しても。


「…………………………」


 それは、万事無頓着な勇吾ユウゴですら例外ではなかった。

 ――その報い、あるいはとばっちり、というべきか。

 三人が降りるべき駅を、同車両の同駅降車予定の乗客たちもろとも通過してしまったことに気づいたのは、国土の最果てに近い終着駅に到着した時だった。

 『疾風』の最高速度なみにまくし立て続けるイサオの狂熱極まりない弁舌で、停車駅を知らせる車内アナウンスと発車ベルがかき消されてしまったのが原因だった……。




 旅行ブームの到来で、全国各地の観光地は、かつてない程の賑わいで活気づいていた。

 その原動力と大動脈であるサイコモーターカー幹線の各停車駅とその周辺区域は、連日観光客や旅行客で溢れ、まさに疾風怒涛であった。

 各観光地の地元住民も、その勢いで押し押せてくる旅行客や観光客の対応にてんてこ舞いだった。

 どの旅行客や観光客も、身分に関係なく、楽しくて仕方がない笑顔で地元住民に接するので、地元住民も客商売や身分に関係なく、笑顔で応対する。

 その勢いは、夕刻近くになっても、収まる気配はなかった。

 だが、『八子やご駅』という停車駅に降車した一部の観光客と旅行客の表情が、不機嫌なそれで険しくなっていた。

 それもさもありなんだろう。

 本当なら真昼ごろに降りる予定だったのだから。

 しかも、それを狂わせた元凶は、終着駅に到着すると、元々その駅で降りる予定だったのか、満面な笑顔でさっさと降車していった。

 迷惑をこうむった同車両の乗客たちの白眼など、どこぞの風が吹くように気づかないまま。

 乗り過ごされた乗客たちは、不本意なUターンを強いられ、それぞれ降車予定の駅に到着する都度、足早に降りて行った。

 元凶の関係者らしき三人の少年少女たちに、元凶と同様な視線の一瞥を、その度に投げつけて。

 その視線は、三人の降車駅である『八子やご駅』の北口路線バスターミナルに着いたあとも絶えなかった。

 そして、そんな人目を避けるように、地元住人しか知らない人気ひとけのない路地裏に、三人が入ると、その少年少女たちは、パンク寸前の肺に溜まっていた空気を大量かつ同時に吐き出した。


「……すっごく、つらかった……」


 アイが両手に両膝をついて、Uターンしてから体験し続けていた感想を、それ混じりに述べる。


「……イジメの比じゃなかった……」


 勇吾ユウゴも幼馴染の感想に限りなく一〇〇%に近い率で同調した。


「……もう二度と、アイツと同じ列車には乗らない。日本民族の総氏神、『天照大神あまてらすおおみかみ』に誓って……」


 リンに至っては連続記憶操作事件の時でさえ誓ったことのない神にまで誓う有様だった。


「~~アタシたちの貴重な想い出づくりのスタートに、ドがつくほどのケチをつけやがってェ~~。今頃は鉄道にご満悦なアイツもアタシたちと同じ目にえェェェェェェェッ~~」


 そして、それが呪いに変わるまで大した時間は要さなかった。


「~~えェェェェェェェェェェェェェ~~」


 アイも。

 だが、その対象は、キャラ的に自分が言うべきセリフを先取りされた某女友達にも、わずかな比率ながらも向けられていたが。

 次々に上がる女子たちの呪詛に、勇吾ユウゴも迷わず続きかけたその時――

 ――ふと、ある気配を感じ、糸目の視線を身体ごと向ける。

 五、六軒ほどの距離にたたずむ、一個の人影に。


「――どうしたの、ユウちゃん?」


 異変に気づいたリンが、初めて「ちゃん」づけで呼んだ男友達の視線に釣られて両眼を動かす。

 勇吾ユウゴと同じ人影を、リンはその先に認めた。

 ――直後、


「――ひっ!」


 隣に立っていた勇吾ユウゴが小さな悲鳴を上げて尻餅をつく。


「――――――――えっ?!」


 リンが唖然とした表情で肩越しに振り向くと、抜刀の構えで勇吾ユウゴを見下ろしていた。

 空間転移テレポートさながらな突如さで至近に出現した、正面にたたずむ人影とは別の、新たな人影――

 ――ではなかった……

 ……のに気づくまで、かなりの時間を、リンは費やした。

 一瞬前まで正面にたたずんでいたはずの人影の消失や、消失した人影と至近に出現した人影の姿形が同一なことも含めて。

 である以上、一個の人影が正面から二本足で突進して来たとしか考えられなかった。

 一瞬――

 ――それも、風や音もなく。

 勇吾ユウゴの早斬りに匹敵する突進速度スピードであった。

 その際、その人影が舞い上げたと思われる、自身の長い髪と白いワンピースのスカートがゆっくりと舞い落ちる。

 それが、空間転移テレポートでの移動で生じた現象ではないことの、何よりの証左であった。


『…………………………』


 時が止まったような沈黙が、それが落ち着いた後になっても続く。

 陽月の日差しが降りそそぐ人気ひとけのない路地裏に。


「――やっぱり克服していないようね、勇吾ユウゴ。わたしの『瞬歩』に反応できるようになったとはいえ――」


 おもむろに抜刀の構えを解いたその人影は、これもおもむろに評しながら、肩をすくめる動作と、首を横に振る動作を、同時に行う。

 やれやれ、とも、しょうがない、ともつかぬ、それは表情であり、口調であった。


「――この前、陸上防衛高等学校で開催された武術トーナメントの試合を、感覚同調フィーリングリンク生放送で脳内視聴していたけど、ホント、それでよく優勝できたわねェ。褒めるべきなのか、呆れるべきなのか、正直、迷うけど」


 ボリュームのあるウェービーロングの髪を片手で背中にで集めると、二十代半ばと思われるその女性は、尻餅をついた勇吾ユウゴに手を差し伸べる。

 リンをも上回る美貌だが、ヤマトタケルのようなツリ目が、絶世の美女と評するには、惜しむべき減点材料であった。


「……でも、優勝した事実に変わりはないよ。専業主夫になる条件のひとつをクリアした事に対しても」


 見上げた勇吾ユウゴが不機嫌な口調と表情で言い返すと、差し伸べられた手を掴み、立ち上がらせてもらう。


「――だから、文句はどこにもないはずだよ、母さん」

「――――――――えっ!?」


 リンの表情に再び唖然のそれが到来する。

 衝撃の事実が自身の脳内に炸裂して。


「……あ、景子ケイコおばさま……」


 これまでイサオを呪い続きていたアイが、今になってようやく気づく。

 幼馴染である小野寺勇吾ユウゴの母親の存在に。

 その瞬間、アイの表情に暗い陰が落ちる。

 七年に及ぶ忌まわしき想い出きおくがフラッシュバックして。


「……あの、その、アタシ、今まで、ユウちゃんを……」

「――いいのよ、愛ちゃん。アイにしなくて。すべては、不甲斐ない愚息が不甲斐ないなりに選んだ道だから。わたしは母親として息子の意志を尊重しただけ。それに、もう仲直りしたのなら、親の出る幕なんて、どこにもないわ。ましてや、息子自身が自分の名誉を自分で挽回した結果によるものなら、親としてこれほど嬉しくて誇らしいことはなくってよ。勇次ユウジもとても喜んでいたわ」

「……で、でも……」

「――だから、これからも、息子と仲良くしていってね。七年前の誘拐事件が起きる以前の時のように。勇次ユウジもそれを望んでいるわ」

「……………………」


 幼馴染の母親から願われたその言葉に、アイは瞳をうるおわせずにはいられなかった。

 包容力のある優しい口調も、涙腺を刺激して止まなかった。


「……おばさま……」


 アイの口からこぼれ落ちたそれも、涙で濡れていた。


「――じゃあ、これでボクも専業主夫になっても――」

「いいわけないでしょ、勇吾ユウゴ


 勇吾ユウゴの母親が冷淡に即応する。

 目つきにふさわしく。

 、アイにむけられていたそれとはまるで別人であった。


「――それとこれとは別なんだから、当然じゃない」


 無論、勇吾ユウゴの幼馴染に対して取っていた態度も、完全に打って変わっていた。


「~~~~~~~~~~っ!」

「――ふくれっ面になっても無駄よ、勇吾ユウゴ。これだけは譲れないわ。これは勇次ユウジとわたしの間で交わした大事な約束なんだからね」


 それを皮切りに、小野寺母子おやこの間で大論争が勃発する。

 第三者の介入が不可能な規模の。


「……あの女性ひとが、ゆうちゃんの母親……」


 リンが茫然とした表情で勇吾ユウゴの母親を見つめる。


「……うん、そうよ」


 アイが零れかけそうな涙をこらえながらうなずく。


「……姉、じゃ、ないのね……?」

「――そうよ。姉じゃないわ、リンちゃん」


 念を押されたアイは、こらえ切った笑顔でふたたびうなずく。


「……ゆうちゃんの母親なら、多田寺ただでら先生や武野寺たけのじ先生と同じ世代のはず。なのに、その二人よりも若々しいなんて……」


 リンは驚きを隠せなかった。


「……アタシも以前から不思議に思ってたけど……」


 アイも首を傾げる。

 その時、アイのエスパーダに精神感応テレパシー通話が入る。


「――あ、母さん。遅れてゴメン。ついさっき着いたわ――」


 声に出して応答するアイ


「――うん、わかった。急いで家に帰る。荷物を置いたら、父さんの手伝いに行くわ――」


 そう告げて精神感応テレパシー通話を切ると、隣にいるリンに視線を転ずる。


「――そういうことだから、ここでいったん別れるわ、アタシ」

「――うん、わかったわ。それにしても、忙しそうね。夏祭りの実行委員長って」

「――今年は町おこしとのコラボだからね。町長との打ち合わせもあるし。それじゃ、ユウちゃん、あとで来てね」


 まだ母親と論争中の幼馴染にも告げると、その場から駆け足で去って行った。

 スキップ気味のように、見送ったリンには見えた。

 だが、見送ったのはリンだけではなかった。

 無論、小野寺母子おやこは論争に夢中なため、一瞥すらしてない。

 去って行ったアイとは反対方向の、十字路で結ばれた路地裏の物陰からであった。

 アイの後ろ姿が見えなくなると、今度は小野寺母子おやこにその視線を転ずる。

 正確には小野寺景子ケイコに。

 陽月の日差しには程遠い、陰気で暗い視線で睨みつけていた。




(――よかった。赦してくれて――)


 人気ひとけがまばらな路地裏を走りながら、アイは安堵のつぶやきをこぼす。

 勇吾ユウゴの両親のことだから、そうなると予感はしていたが、それでも、そうならない可能性を払拭することはできなかった。

 地元に帰省するにあたって、不安材料があるとすれば、まさにそれであった。

 予定では幼馴染の家まで足を運んで、これまでイジメ続けていた勇吾ユウゴの両親に対して、頭を下げて謝罪するつもりだったのだが、思いも寄らぬ場所で勇吾ユウゴの母親と出会ったことで、自分の舌が思うように動かないうちにその旨を告げられてしまった。

 謝罪なんて不要だと言わんばかりの当然さで。

 その瞬間、自分のうちにあったささくれが取れたように感じた。

 幼馴染との想い出づくりに、暗い陰を落とすことがなくなったと。

 そう思うと、安堵せずにはいられないのである。

 スキップを踏むような駆け足になってしまうのも。

 そのせいだったのだろう。

 前方不注意で曲がり角から現れた通行人に衝突しかけてしまったのは。


「――あっ! ゴメンなさいっ!」


 慌てて立ち止まり、衝突を回避したアイは、これも慌てて頭を下げる。


「――危ないわねェ。気をつけ、な……さ……」


 驚いた通行人は声を上げようとして、そのトーンを落とす。

 アイの姿を見続けているうちに、段々と。

 そして、


「……もしかして……アイ……ちゃん?」


 恐る恐る尋ねられたアイは、不可思議げな表情で頭を上げると、ぶつかりそうになった通行人と正対する。

 ――うち、に……


「……あ……杏里アンリちゃん……なの?」


 たどたどしく問い返す。

 見覚えのある容姿だったので。

 すると――


「――そうっ! 萩原はぎわら杏里アンリよっ! アタシっ!」


 通行人の少女は身を乗り出して答え、驚きに破顔した口元を両手で押さえる。


「――やだっ!? ウソッ!? 信じられないっ!? こんなところで逢えるなんて、ひさしぶりじゃないっ!」


 セミロングとサイドポニーの複合髪型ハイブリットヘアを、あどけなさが抜け切れてない顔立ちの表情ごと振りまいて。

 それは似たような顔立ちをしたツーサイドアップの少女も同様であった。

 二人の少女はその場で両の手を取り合って飛び跳ねる。


「――ホント、ひさしぶりねっ!」


 アイは嬉しくて堪らない表情でその声を上げる。


「――かれこれ六年ぶりかしらっ!?」

「――そうよっ! アイちゃんが超常特区で一人暮らしを始めて以来、ずっと顔を見てないものっ!」

「――アタシと違って、杏里アンリちゃんは行けなかったものね。超常特区に」

「……両親が許してくれなったからね……」


 消え入りそうな声で答えた杏里アンリの笑顔にわずかなかげりが差す。

 超常特区の居住は、教員資格を持つ一部の大人をのぞくと、十代の少年少女に限定されているが、法律的に義務づけられているわけではないので、当人に居住の意思がなければ、無理に実行しなくても構わないことになっている。

 むしろ中央政府がそれを推奨するほどである。

 理由はやはり、過剰なまでの人口過密による諸問題の再発を懸念しているからである。

 前述の規制を設けても。

 そのため、超常特区の居住権利を放棄すれば、中央政府から減税などの特典を付与するという法律を制定して、超常特区の人口過密緩和をはかっていた。

 平民を主な対象として。

 また、そこに住み続ければ、人間の脳機能や知能指数IQが向上したり、超能力や超脳力が身についたりするという、超常特区特有の現象に懐疑的な傾向の強い身分層も平民であった。

 加えて、いくらギアプの補助があるとはいえ、ようやく二桁の年齢に達したばかりの我が子を、事実上の一人暮らしをさせるのに、心理的な抵抗が強い親も、平民を中心に多く、前述の様々な事情もあいまって、萩原杏里アンリのように、超常特区での一人暮らしを、親の反対に断念し、地元での居住継続を余儀なくされてしまう子供が少なくないのである。

 そんな事情にかこつけて、一時、中央議会の席上で、超常特区の居住権を華族に限定するという法案が、その身分でしか構成されてない貴族院から提出されたが、それは平民が大半を占める衆議院の猛反対によって却下されたという報道ニュースが、アスネを通して全国に流れたのは余談である。


「――アイちゃんはいいよねェ。超常特区での一人暮らしを両親が許してくれてェ」


 両手を離した杏里アンリは心底うらやましそうな目つきと表情で口元に人差し指を当てる。


「――だって、志望が志望だもの。アタシには、『天照大神あまてらすおおみかみ』につかえる大神十二巫女みこ衆の筆頭巫女として、魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする第二日本国を、無力な警察や軍隊に代わって守るという夢と使命があるんだから。そんな一人娘をアタシの両親が反対するわけがないじゃない。たしかに、次頭巫女たる杏里アンリちゃんも連れていけなかったのは残念だったけど……」

「――また始まった。アイちゃんの和風中二世界ワールドが。変わらないね。相変わらず」

「――杏里アンリちゃんだって、変わってないわ。だって、アタシの壮大な有芽と使命にまったくかないんだもの。杏里アンリちゃんだけよ。地元に通っていた頃の小学校で友達になってくれた同性女の子は」

「――そりゃそうよ。アイツにあんな事をやってのけたら、友達になりなたくなって当然よ。むしろ光栄だわ。そんなアイちゃんから大神十二巫女みこ衆の次頭巫女として選ばれて」

「――よく遊んだわね。そう言いながら、アタシたち」

「――そうそう。同じ教室の男の子悪ガキや公園の野犬を、魑魅魍魎と見立てて退治したりしてね。ホント、あの頃は楽しかったわァ」

「――えへへ」

「――うふふ」


 二人の少女は年相応の可愛らしい笑顔を浮かべて笑い合う。

 無邪気なまでに。

 まるで『あの頃』に戻ったような感覚だった。


「――でも、どうして今まで会ってくれなかったの? アタシ、お盆と正月は毎年欠かさず帰省していたのに、その時にかぎって家には居なかったわ。テレ通(精神感応テレパシー通話の略称)もそうだったし」


 ふと疑問に思ったアイの問いに、杏里アンリは笑顔だった表情をふたたび曇らせる。


「……うん、ちょっと、ね。色々あって……」


 歯切れの悪い、あいまいな返答だった。


「……………………?」


 アイは首を傾げるが、


「――それよりも、アイツも帰省してるんでしょ。アイちゃんも帰省したってことは」

「――えっ?!」


 思い出したかのように尋ねられ、表情を戸惑いのそれに変える。


「――それでね、アタシ、名案いい事を思いついたの。三日後に始まる夏祭りと町おこしのコラボ祭で、アイツに恥をかかせてやるのよ。それも、二度と地元に帰れないほどの、強烈なヤツを、アタシたちの手で」

「――えっ、ちょ――」

「――そんなことをおおやけの場でされたら、きっとこたえるわ。アイツのヘタレっぷりからして。ホント、士族ってどうしようもない身分の連中ね。いっそこの世から消えてしまえばいいのに」

「……あ、杏里アンリちゃん……?」

「――だからアイツをイジメてたんでしょ。自分を見捨てた腹いせに。ま、当然の権利よね」

「…………アイツ、って…………?」

「――えっ?! ヤダ、アイちゃん。なに寝ぼけたこと言ってるのよ。アイちゃんが超常特区で一人暮らしを始めてからもずっとそばにいたじゃない。もちろん、超常特区そこでもイジメ続けてたんでしょ――」


 すでに顔面が蒼白なアイの前で、杏里アンリは決定的な一言を放った。


「――小野寺勇吾ユウゴを――」


 あかみを帯びた陽月に一筋の雲が差す。


「――アタシが初めてアイちゃんと出会ったのも、そんな場面に出くわした時だったわね。あの時、アタシ、感激したわ。平民の女の子であるアイちゃんが、士族の男の子をイジメるなんて、勇敢の二文字で言い表せるものじゃなくてよ」

「…………………………」

「――よく考えたら、これがきっかけでアタシたちは友達になれたんだよね。そして、アタシたちは二人で小野寺のヤツをイジメ続けた」

「……………………………………………………」

「――振り返って見ると、ホント、いい想い出よねェ。平民に過ぎないアタシたちが、士族の子弟を気兼ねなくイジメることができるなんて。その逆が当たり前な世の中なのに、ホント、『あの頃』は爽快だったわァ」

「………………………………………………………………………………」

「――アイちゃんもそう思うでしょ」

「…………………………………………………………………………………………………………」


 アイは応えない。

 ……否、応えられない……。

 ……ただ、立ち尽くすだけだった。


「――だから、いっしょに考えよう。どうやってアイツに恥をかかせてやるか。イジメはいつだってアイちゃんができるから、やっぱりコラボ祭でしかできない事にしないと。具体的には……そうね、例えば――」


 地元の友達が喜々として語り続けるその言葉は、アイの耳や見聞記録ログに入っても、脳内記憶には残らなかった。

 ……否、残せなかった……。

 ……時が止まったかのように思考が停止して……。

 時空の狭間に漂っているような感覚がアイを襲う。

 現在いま過去かこの……。

 陽月に差した一筋の雲が、暗雲さながらに分厚くなる。

 不穏で不吉な雷鳴を響かせて。




 そんな空模様になっても、八子やご駅周辺の賑わいは、まったく衰えを見せなかった。

 むしろますます盛んになっていた。

 八子やご駅の北口路線バスターミナルは、地元の夏祭りと町おこしのコラボ祭を楽しみに来訪した観光客や旅行客でごった返し、それはターミナルを囲うように並び建てられた商店も同様の状態だった。

 その中には、イサオによって降車駅を乗り過ごされ、不本意なUターンを強いられた観光客や旅行客も含まれていたが、その時は不機嫌だった彼らも、今では地元民の手厚い歓迎ともてなしですっかり上機嫌だった。

 三日後に開催される夏祭りと町おこしのコラボ祭の前夜祭としては、間違いなく大成功だったと、この光景を駅長室から眺めていた八子やご町の町長は、のちに語った。

 アスネでこのイベントを知った観光客や旅行客は、一通り前夜祭を満喫したあと、これで気分良く本番を迎えられると思いながら、その時に備えて、次はホテルや旅館などの宿泊施設に足を運び始める。

 その流れを、八子やご町の町長は満足げな表情で眺め続ける。

 それは地元民も同様であった。

 本番の成功を信じて疑わなかった。

 しかし、その流れを、疎ましい目つきで眺めやっている者がいた。

 それを一望できる場所に建てられたアパートの二階にある窓から。

 暗い室内にはアルコールの臭いが充満していた。

 部屋の主であるその男が、飽きることなく缶ビールを飲み続けた結果である。

 窓枠に持たれているその男の足元には、空になった缶ビールがダース単位で転がっている。

 室内もゴミ屋敷なまでに雑然とした有様で、メタンガスの発生も、時間の問題――というより、秒読みカウントダウンの段階に入っているといってもよかった。

 旅行客や観光客が行き交う歩道や立ち寄る商店の街並みとは対照的な、荒んだ室内であった。

「――けっ」


 その光景から視線を外した男は、忌々しげに短く吐き捨てると、手に持っている缶ビールを一気に飲み干す。

 アルコールの回ったその酔眼は、室内の有様を象徴するような負の感情で濁り切っていた。

 顔つきや身だしなみも、それ相応だった。


「――なァにが夏祭りだァ。ナぁニが町おこしダぁ。いィったいダレのお陰でそんな平和ボケを教授できるようになったンだと思ってんダァ」


 アルコール混じりに吐き出すその声も、不安定極まりない音程に大きく揺れている。

 そして不意に思い出す。

 先刻、十字路の路地裏で見かけたあのオンナどもを。


「――こうなったのもォ、すべて――」

「アイツらのせいだと言いてェのか」


 不意打ち当然に先取りされた自分以外の声に、だが、男の反応リアクションは極めて鈍かった。シラフであれば驚きながらも機敏に動いていただろうが、アルコールを大量に摂取したその状態では、認識すらおぼつかない。反応できただけでも上出来であろう。


「――久しぶりだな、オジさん」


 男の部屋に現れたもう一人の男は、部屋の主よりも一世代ほど若い二十歳前後だが、


「――この町に潜んでるってことは、まだ諦めてねェのかよ。相変わらずだなァ。せっかく刑務所ブタ箱から出られたっていうのに。刑務所ブタ箱でくたばっちまったオヤジと違って、まだ残っている余生を、そんなくだらねェことにつぎ込むとは、オレからすればバカバカしいぜェ」


 親子ほどの年齢差がある年長者に対して、取るべきではない言動を、その若い男は遠慮なく取る。敬意や尊重とは無縁な態度である。


「――ナんだァ。テめェ。他人ひと様の部屋に無断で入るンじゃネェよ。サっさと出てイけェ」


 しかし、酔っ払いの男は呂律ろれつの怪しい舌回りで無断侵入者に退去を命ずる。


「――やれやれ、オレのことすら覚えてねェのかよ。刑務所ブタ箱にぶち込まれる前までは、オジさんやオヤジたちの仕事も手伝ったことさえあったんだぜ。まァ、大した手伝いじゃなかったけど」


 それに構わず、若い男は話を進める。


「――てメぇ、いイ加減にしロよォ。さっサと出テいかネぇと、誇り高い士族たるオレが手打ちに――」


 身体を左右に揺らしながら立ち上がった酔っ払いの男は、相手の言葉を無視して、千鳥足で不法侵入者に歩み寄るが、途中で脚がもつれ、ゴミで敷き詰めれられた床に転倒する。それでも立ち上がろうと身体を起こすが、なかなか所有者の意思どおりには動かなかった。


「――やれやれ。誇り高い士族とやらも、随分と落ちぶれたもんだぜ。オヤジもそうだったけど、見ているこっちが恥ずかしくなるよ」


 若い男は見下ろしたままかぶりを振る。

 あわれみとあざけりを含んだ声で。


「――こんなザマじゃ、やっぱり誘うのは止めた方がいいかな。この町の夏祭りと町おこしのコラボ祭をぶち壊す計画に――」


 そのセリフに、酔っ払いの男は初めて反応らしい反応を、酔っ払いなりに示す。


「――なンだ? その計画は」

「――言った通りの計画ないようさ。いまその頭数を現地ここで集めている最中なんだよ。このコラボ祭を開催されたら困る裏社会の連中を主にな」

「………………………」

「――オジさんの性質タチから見て、もし復讐を諦めずに八子町ここにいたら、こんなイベント、歓迎するとは思えねェからな。現に不機嫌そうに眺めていたし」

「……お前、アイツの息子か。刑務所ブタ箱でくたばっちまったオレの同志の……」

「――そうさ。やっと気づいたか」


 若い男は破顔すると照れくさそうに頭を掻く。

 パンチパーマの髪をかき分けて。


「――で、どうする? 直道なおみちオジさん」


 パンチパーマの男は馴れ馴れしい口調で返事をうながす。

 ほとんど泥酔状態に等しかった男は、それがウソのような動作で立ち上がると、これもまたウソのような鋭い目つきで、


「――そんなの、決まってるだろ。計画の詳細を教えろ」


 それに応えた。

 それも、鋭く尖った声で。

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