雨にぬれてもはえふく旅路


 厚い雲が瞬きをするように山の端を覆い、急激に気温が下がったかと思うとざあと降り出した。旅仕様の厚手のマントは多少の水滴は弾くものの、こうも容赦なくやられては敵わない。

「ひっでえな、くそ」

 草地では数少ない大木の影に身を寄せて、キヤが悪態をつく。水を吸って重くなった衣服が肌に張り付き、その不快感に零夜も顔をしかめる。マントの裾を絞ると、結構な量の雨水が吐き出された。

「あんまり雨宿りにならないね」

 頭上を見上げながら、ティエラが呟いた。大木はその大きさの割に枝葉が透いており、「ないよりはまし」といった程度にしか雨を遮らない。

 為す術なく、一行は言葉少なに灰色の雲の行く末を見守る。しばらくは止みそうにない。


 篠突く雨の静寂の中、ぽそぽそと囁く声を拾い、零夜は視線を足元へと落とした。子猫ほどの大きさの単眼のミトラが零夜を見上げ、なにやら呟いている。

「なに?」

 よく聞こうとしゃがみ込もうとしたその時、ミトラの頭蓋を貫いて大きな影が伸び上がった。零夜の背を遥かに上回るその子実体しじつたいは緋色の舞茸のような形をしており、胴に空いた穴の中からいくつもの目がぎょろりと零夜を見下ろす。

 咄嗟に背後のティエラをかばいながらも、その態度から一切の敵意が感じられないことにすぐ気付き、零夜は小刀を構え臨戦態勢を取るキヤを制した。

「待って、なにか言いたいみたいだ」

 零夜はしゃがみ込んで、そのかすかな声を拾い上げる。粘着質な泡が弾ける音と、その合間に挟まる鳴き声の中に、意味ある言葉が潜んでいる。



「……お酒がほしいんだって」

 零夜の通訳に、キヤが「はあ?」と声をあげた。

「お酒をくれたら、雨をしのいでやってもいいって言ってる」

 ミトラは言葉が通じたのがずいぶん嬉しいようで、頭蓋から飛び出た無数の触手で零夜の頭を撫で回している。

 「酒って、この酒か?」と、キヤは背嚢はいのうから陶器の瓶を取り出す。先日寄った街で購入した、度数の強い蒸留酒だ。キヤがその瓶口をミトラに近づけると、ミトラは触手を伸ばすや否や「ギョイッ」と甲高い声をあげた。

「それじゃないみたいだ。匂いが強すぎるって、嫌がってる」

「なんだよ、贅沢なやつだな」


 結構な値段がしたそれが雨に濡れないうちにと、キヤはさっさと瓶を外套の内にしまい込んだ。ミトラは蒸留酒の匂いを攻撃と捉えたのか、警戒のこもった目でじとりとキヤを睨む。「やんのか」と喧嘩を買う姿勢のキヤをなだめ、ついでに「あいつもそんなつもりじゃなかったんだよ」とミトラもなだめる。ミトラは納得していないようだったが、鬱憤を晴らすように零夜の頭や頬を撫で回しおとなしくなった。


「でも、そしたらきみにあげられるお酒はないかもな。キヤが持ってるお酒は基本強いやつだし、俺は飲まないし」

 触手を伸ばすミトラの頭蓋を、爪の先で優しく掻いてやる。ミトラは気持ちよさそうに単眼を細めながら、キョオッと高く鳴いた。「え、匂いがする? 持ってるだろって?」零夜はいぶかしがりながら、触手が指す方に視線を向ける。その先にいたティエラが、「あ、私のニシュかな?」と呑気な声をあげた。


 ニシュは草食動物の乳を発酵させた飲料で、とろ火で温めただけでほとんどアルコールが飛んでしまうほどの度数しかない。飲みやすく栄養価が高いため、零夜たちにしてみれば酒というより滋養飲料という認識だった。

「こないだ乳を補充したばっかりだから、まだあんまり発酵してないかもだけど……どうかな?」

 ティエラがニシュを注いだ器をミトラに差し出す。ミトラは先程のこともあってか慎重にその匂いを嗅ぎ、恐るおそる触手の先端を液面につける。半分未発酵のニシュがどうやらお気に召したようで、ミトラはぷいぷい鳴きながら、触手をうねらせてティエラの髪の毛をくしゃくしゃと乱した。


「えーと、これは喜んでる、のかな?」

 されるがままに髪を乱されながら、ティエラは零夜に通訳を求める。

「うん、ありがとうってさ。地面にこぼしてほしいって」

「こぼす? 良いけど……」

 ティエラはミトラにもみくちゃにされながらニシュの器を傾けた。重力に従って、白い液体は絹糸のようなすじを描きながら地面に落ちる。降る雨に満たされた大地にニシュの染み込む余地はなく、白い水たまりは雨に薄められぼやけていく。


 本当にこれでいいのか、一同が不安に思った矢先、地面に奇妙な変化が起きた。まるで誰かが裏側からつついたかのように、ちょうど指先程度の大きさに土が盛り上がる。こぼされたニシュを中心に、小さな塚はまたたくまに数を増やす。水をたっぷり吸った重い土を持ち上げて、地面から出てきたのは白い触手の先端だった。


 ミミズのように蠢くそれらは互いを押し合いへし合いながらニシュに群がる。その様子を見つめる単眼の瞳は、心なしか安堵しているようにも思える。ひとつ眼のミトラは零夜を見上げ、頭蓋から飛び出した子実体を零夜の頬にこすりつけた。細かな産毛に覆われたそれは水を弾くらしく、ほとんど濡れていない。意外な触り心地の良さについつい微笑む零夜の耳に、小さな言葉が届いた。

『たすかった、ありがと』

「そっか、よかった。こいつら、きみの友達?」

 零夜が問うと、単眼はじっと零夜の向こう側を見上げる。その視線の先にあるのは、零夜たちが雨宿りに身を寄せている巨木だ。いや、果たして巨だろうか? 零夜は目をこらし、耳をすませる。


 雨音のノイズがかぶさって、あまりに高くから聞こえてくるその声はかき消されてしまっていたようだった。意識を集中させていれば、低い声が囁きかけていることが分かる。声の内容まではさすがに聞き取れないが、それは確かにミトラの声だった。

「この木……木じゃない。ミトラだ」

 零夜の言葉に、キヤもティエラも驚いたように頭上を見上げた。雨に打たれた枝が震えざわめいている。その様子は普通の樹木と変わりないように見えるが、幹をよく見れば、確かに木にしては軟質なように思える。しかしなにより決定的な点は、今まさに地面から顔を出した触手だろう。木で言えば根にあたるのであろうこの器官は、明らかに意思をもって蠢いていた。


『おれ、これからうまれた。これしんだらこまるの』

 単眼のミトラが、自分もニシュのおこぼれに預かりながら零夜に話しかける。

「ああなるほど、きみの親なんだ」

『そう、おや。おさけなくてこまってた。アランジャのひと、こないから』

「アランジャの人が?」

 アランジャ族と言えば、ティエラの生まれでもある遊牧民族だ。心当たりをティエラに尋ねれば、ティエラは少し考え込んだあとで「たぶん」と話し出す。

「遊牧の順路が変わったんだと思う。アランジャ族は土地を移動するときに、恵みへの感謝としてニシュを大地に飲ませるの。この子たち、それを栄養にしてたんじゃないかな」

「そうか、アランジャの人たちが順路を変更したから、ニシュが飲めなくなって飢えてたんだな。確かによく見ればこいつ」

 キヤが巨木の幹を指でなぞる。薄く剥がれた皮が、消しゴムのかすのように細長く固まって落ちる。

「だいぶ弱ってるみたいだもんな。枝もスッカスカで、雨もしのげやしねえ……いてっ!」

 侮辱の意を理解したのか、単眼のミトラは伸ばした触手でキヤの横腹をどつく。

「いてて、悪かったよ。悪かったって」

 執拗に追い回してくる触手から逃げながら「お前からもなんとか言ってくれよ」とキヤは零夜に助けを求めるが、零夜は「今のはキヤが悪い」と歯牙にもかけない。


 ひととおりどつき回して満足したのか、単眼のミトラは最後にキヤの頬に粘液をペッと飛ばすと、再び零夜の足元に落ち着いた。地面から生えた白い触手も、すっかりニシュを舐めきってしまい、もそもそと左右に揺らめきながら再び土の下へ潜り込もうとしている。

 その様子にひとつ眼の視線を吸い込ませながら、ミトラは『おれいする。あめよける』と零夜に告げた。


 舞茸のような緋色の子実体がぐんと伸び、三人を覆えるほど大きく傘を張った。密な網目で形成されるそれは、表面に細かく生えた、緋色の産毛の撥水はっすい作用も手伝って、ほとんど雨を通さない。頬についた粘液を拭いながら、「こりゃいいや」とキヤが笑う。

『あめやむまで、おれいだから』

「ありがとう、助かるよ」

 零夜に撫でられ、ミトラは零夜の足にうっとりと身を寄せた。




 雨がやんだのは、小一時間後のことだった。すっかり晴れ模様とまではいかないが、暗い灰色の重苦しい雲は風に流され姿をくらませた。ぼやけた白の太陽に照らされて、いまひとつすっきりしない青色が広がっている。

「快晴とはいかないか」手のひらを空に向け、キヤが呟く。「念のため、今日の野営地は高い場所に取ろう」

 上空は風が強いらしい。細く流れていく雲を見上げながら、零夜は立ち上がった。単眼のミトラは雨を凌ぐ屋根だけでなく、零夜たちが腰掛けられるように低い位置にも子実体を伸ばしてくれていた。(キヤのために椅子を作ることには少々渋っていたが)

 柔らかな子実体の座り心地は最高で、ティエラは「キヌヒツジの毛よりふかふか!」と大喜びだった。


「ありがとう、本当に助かったよ」

 改めてミトラに礼を言うと、ミトラはひとつ眼をゆっくりとまばたいた。

『おさけおいしかった。またくる?』

 ミトラの問いに、零夜は困り顔で首を横に振る。

「ごめん、もう来ない。旅をしてるから、ここからずっと南に行くんだ」

『…………』

 その沈黙に心が痛む。ニシュを恵んでいたアランジャの人々が来なくなり、巨木のミトラは飢えて枯れようとしていた。そこへ零夜たちが来ることで一時の飢えは満たされたのだろうが、今後どうなるかは目に見えている。

 再びの飢え。そして遠からず待ち受けているのは、緩慢な死だ。


 事情をキヤに説明すると、「どうしようもないな」と乾いた答えが返ってくる。「こいつは」と、キヤは拳で軽く巨木の幹を叩く。

「この地が豊かだったから、ここに根を張ることを選んだんだろ。養分が多く得られるうちは、このでかい図体でも良かったんだろうがな。

 外部からの供給がない、捕食の器官もついてないとなりゃ、地面から養分を吸い上げるしかないが……こいつの巨体をまかなうほどの養分が、ひとところの土地にあるわけがない。土地もこいつも、枯れてく一方だよ」

「私も、キヤの言う通りだと思う」

 青い瞳に沈痛な色を浮かべ、ティエラも同意する。

「もっと豊かな土地を見つけたとか、天候的な理由とか……色んな事情はあるけど、アランジャ族が遊牧の経路を変更するのは珍しいことじゃないの。この辺りの小隊は、きっと長いあいだ経路を変更しなかったのね。だからこの子は、アランジャ族がいなければ生きていけないくらい、大きく育っちゃったんだ……」

 つまりは、至るべくして至った結末だということだ。零夜は足元のミトラに視線を落とす。表情のない大きな瞳は、その澄んだ緑色で親たる巨木を見つめている。


『おや、しぬ?』

「……うん、たぶん」

 小さなミトラの問いに、零夜は正直に答えた。

「俺たちにはどうしようもない。アランジャの人たちのせいでも、きみたちのせいでもない。ごめん」

『せい……は、なにかわからない。せいはなに? しはみんなのもの』

「そっか……きみたちの生にも死にも、責任なんてものはないんだな」

 せがむように身体を伸ばしたミトラを優しく撫でる。「そいつはまだ根を張ってないだろ。きっと良い土地を見付けられるさ」というキヤの慰めに、零夜はそっと微笑んだ。



 風は南から吹いている。「じゃあ」と片手を上げて、零夜はミトラに別れを告げる。「……元気で」

 ミトラは手を振るように、触手と緋色の子実体をゆらゆら揺らす。もう二度と会うことのない別れは、零夜にとってこれが初めてではない。しかしこの感覚は、いつまでたっても慣れなかった。寂しくて、胸がぎゅうと締め付けられる。

『……おれい』

「え?」

 風の中に低いざわめきを聞き、零夜はうつむいていた顔を上げた。『さいごの……ひとつ……』同じ声が、再び耳に届く。巨木の透いた枝葉が、南風にそよぐ。

「きみが喋ってるの?」

 その問いに返事はなく、巨木は風に合わせて大きく身を捩った。

「レイヤ、どうしたん……」

 振り向いたまま歩き出そうとしないレイヤを促そうと、キヤとティエラも巨木を振り返る。まさにそのとき、三人の視界にその光景が広がった。


 巨木の身じろぎと同時に、雨のしずくに似たきらめきが空間を満たす。水晶のようなプリズムは僅かな太陽光を健気に集め、一等星のように気高くまたたいた。巨木から舞い散ったそれは、透明な結晶だった。

 夢のような光景に、零夜もティエラも――キヤですら、呼吸を忘れて見入ってしまう。

 砂粒のような結晶は舞い上がり、しばらく空中に留まり光を放ったのち、ゆっくりと落下を始める。


 とりわけ大きな結晶が、零夜の頭上にきらめいた。零夜は羽根のように舞い落ちるそれを、両手で包み込み受けとめる。極めて軽く、透明の身体に虹の光を集めた小石サイズの結晶は、零夜の手のひらに品良く鎮座する。

『アランジャのひと、もうこないから。それあげる』

 単眼のミトラがそう言った。

「これ……何?」

『しらない。アランジャのひとほしがる。それとって、おさけくれた。だからそれ、にんげんがよろこぶもの』

「……ありがとう。あの、あなたも」

 巨木にも礼を言うが、結晶の放出で力を使い切ったのか、巨木は再び話そうとはしない。「最後のひとつ」という巨木の言葉を噛み締めて、零夜は結晶を軟布で包み込み鞄にしまいこんだ。


「じゃあ今度こそ、さよなら」

 手を振って、南に視線を向ける。『さよなら』と聞こえた声が、零夜の背中を静かに押した。


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