第十二章:アリサ・メイヤード/07

 ――――アリサが意識を取り戻した時、既に脱出ポッドは月の地表に着地していた。

「アタシ、は……」

 朦朧とする意識の中、自分に一体何があったのか。自分は何でこんなところに居るのかが一瞬、分からなくなる。

 だが、すぐに思い出した。そうだ、自分はあの時、ミサイルを避けきれなくて。それでベイルアウトして、でもゴーストの胴体が爆発して、破片が飛んできて…………。

 どうやらその記憶が間違いじゃあないらしいことは、今まさに自分が目の当たりにしているコクピットの惨状を見れば明らかだった。

 正面にある液晶一枚だけのスマートな計器盤は、しかしその液晶パネルが無残に割れてしまっていて。他にもコクピットのあちこちに破片が突き刺さっている。キャノピーもひび割れているし、一体どれだけの破片がこのコクピット・モジュールを襲ったのだろうか。まさにフレシェット弾のような勢いでコクピットをズタズタに引き裂いたことは、想像に難くなかった。

 とはいえ、身体に痛みもない。身体を見渡してみても別に傷は無いし、痛覚が麻痺しているというワケでもなさそうだ。こんな惨状で傷ひとつ負っていないなんて、本当に奇跡的というか何というか…………。

「あれ、これって……」

 が、アリサはふとした時に懐に違和感を覚えた。

 見てみると、やはり違和感を感じたところには鋭い破片がナイフのように突き刺さっている。だが痛みはないし、血が流れ出している様子はない。

「……!」

 と、破片の突き刺さっている自分のパイロット・スーツをぼんやりと見下ろしていたアリサは、ふとした時に気が付いた。確かこの位置にはユーティリティ・ポケットがあったはずだ。そこには確か、アレを突っ込んでいたはず……!

「……っ」

 破片を抜いて、そのポーチの中に収まっていた物を見ると……思っていた通り、それは金色の懐中時計だった。

 父がオホーツク事変に出撃し、帰らぬ人となる少し前にアリサにくれたものだ。それ以来、アリサはこの形見の懐中時計をお守りのように肌身離さずいつも持ち歩いていた。それこそ、こうして出撃の際にもだ。

 どうやら、この懐中時計がアリサを破片から守ってくれたらしい。破片の長さや刺さっていた場所を鑑みるに、モロに突き刺さっていたら明らかに致命傷を負っていたことだろう。急所になる臓器を深々と刺し貫いていたはずの位置で、下手をすればアリサはあのまま、意識が戻ることもなく死んでいたかもしれない。

「パパ……」

 それを思えば、アリサの双眸には自然と涙が浮かんでいた。地球の六分の一の重力の中で、涙粒はゆっくりと浮き、そしてヘルメットの中で静かに滴っていく。壊れた懐中時計をぎゅっと握り締める彼女の両手は、肩と同じように震えていた。

「……!」

 と、その頃になってアリサは気が付いた。そういえば、さっきからソフィアの声が聞こえないと…………。

「ソフィア! ソフィア!! 無事なの――――っ!?」

 懐中時計をパイロット・スーツのポケットに収め、血相を変えたアリサが後席の方を振り向くと――――その瞬間、彼女の顔が凍り付いた。

「あ……アリ、サ。気が付いた、んだ。良かった…………」

 自分の方に振り向いたアリサの顔を見て、ソフィアは真っ青な顔で……ぽつりぽつりと、うわ言のように途切れ途切れに。寒気を耐えるように震えきった、そんな頼りない声で呟く。

「そんな、ソフィア…………!?」

 強張った顔で、にっこりと……儚げにも思えるような、そんなささやかな笑顔を形作ってみせるソフィアの姿を見て、アリサが凍り付くのも無理ないことだった。

 ――――だって、彼女の身体はズタズタに引き裂かれているのだから。

 きっと、爆発したゴーストの破片を浴びたのだろう。思えば位置関係的に、後席に座るソフィアの方がゴーストの爆発に近かったはずだ。

 コクピット・シートにぐったりともたれ掛かる彼女の身体は、本当に引き裂かれているといった方が適切なぐらいの惨状だった。

 キャノピーや計器類が砕けているのは当然として、華奢な身体を包み込むパイロット・スーツにも大小様々な破片が……数百個単位で突き刺さっている。まるで散弾でも喰らったかのようにだ。今のソフィアの様相は……酷い喩えだが、本当にハリネズミめいている。

 加えて、一等大きな……それこそ鉄筋コンクリートの鉄筋かと思うぐらいに長く、太い破片が、彼女の右胸に突き刺さっていた。

 いいや、右の背中からと言った方がより適切かもしれない。だってその破片は……シートの背もたれを貫通し、明らかに彼女の・・・背中に・・・突き刺さって・・・・・・いるのだから・・・・・・

 背中を貫いた太い破片は右肺を刺し貫いて破裂させ、それなりの起伏がある胸まで派手に突き抜けている。身体のあちこちに刺さっている破片と同様、傷口にはかなり濃い血が滲んでいて。キャノピーが砕け、与圧が無くなった空気ゼロの空間の中では……下手に破片を抜く方が、却って致命傷になってしまいそうな程だった。

「そんな、そんな……! ソフィア、ソフィアっ!」

 ソフィアのそんな惨状を目の当たりにしてしまえば、親友のそんな酷い有様を目の当たりにしてしまえば、アリサが取り乱さないはずもなく。彼女は酷く狼狽した様子でソフィアの名を叫びながら、計器盤の脇にあったT字型の小さなレヴァーをグッと思い切り引っ張る。

 緊急用のキャノピー投棄レヴァーだ。これはどうにか生き残ってくれていたらしく、アリサの手がレヴァーを引いた途端に爆発ボルトが作動し、ボロボロのキャノピーが文字通り吹っ飛ぶ。

 そうすれば、シートベルトを外……そうとしても外れなかったから、手持ちの折り畳みナイフ、エマーソン・スーパーコマンダーで無理矢理にシートベルトを引き裂いて外し。前席コクピットから飛び降りると、ソフィアを助け出そうと、アリサは彼女の横たわる後席コクピットの方へと駆けていく。

「ま、待っててソフィア……! 今、今助けるから……!」

「無理、だよ……。この傷じゃあ、助からないよ…………」

「そんなの! そんなの……やってみなきゃあ、分からないっ!!」

「分かるんだ、不思議と……。それに、痛みももうないんだ。ううん……身体、の感覚自体が、もう……殆ど、ないんだ…………」

「やめてよ、やめてよソフィア……! アタシを、アタシを独りにしないで……!」

 どうにかしてソフィアを助けようと、アリサは取り乱しながら彼女の両肩を掴むが。しかし震える手でソフィアが伸ばした左手が、そっとアリサの頬……いいや、頬の傍にあるヘルメットのバイザーに触れると。止めどなく涙を流す彼女の頬をそっと拭うみたいな仕草で、ソフィアは震える指先で、アリサのバイザーを優しくなぞる。

「ごめんね……。私は、ここまでみたい」

「諦めないで! 諦めたりなんか、しないでよ……っ!」

「本当は、ずっとずっとアリサと一緒に、飛んでいたかった。ずっとずっと、アリサと一緒に、生きていたかった。だって……私、は。アリサのことが、大好き、だもん」

「ソフィア……ぁっ!」

「ごめ、んね。私は、先に行くよ。でも、ずっとアリサの傍に、私は居るから。ずっとずっと、傍でアリサを、守り続けるから」

「やめて、やめて……! お願い、もう私を独りぼっちにしないで……! ソフィアっ!」

「泣かないで、アリサ。私は……アリサの、笑ってる顔が。楽しそうな、貴女の顔が……一番、好きだから…………」

「ソフィアぁっ!!」

 ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、アリサは頬のバイザーに触れていたソフィアの左手を、震える彼女の手をそっと左手で握り締める。

 その瞬間、アリサは分かってしまった。彼女の死が……ソフィア・ランチェスターの死が、どうあっても避けられぬものであることを。

 冷たい大気ゼロの宇宙空間、孤独な月面に於いても分かってしまうのだ。パイロット・スーツ越しだとしても、何故だか分かってしまったのだ。自分が握り締める彼女の左手が……小刻みに震える、小さな愛おしい手のひらが。もう、冷たくなってしまっていることを。

「ごめんね、ごめんね……! ソフィア、私の、私のせいで……!」

 そんな彼女の手を必死に、縋るように握り締めながら。バイザーの下で大粒の涙を流しながら、アリサがただただ彼女に詫びる。まるで、母親に叱られた後の幼い子供のように泣きながら、震えた声で。

「アリサの、せいじゃ、ないよ……。誰のせいでも、ない…………」

 泣き続けるアリサに、ソフィアは口の端から血を滴らせる口でニッと小さく微笑みかけ。まるで母親のように慈悲深い表情と声音で、彼女を諭すみたく震える声で言う。

「私が! 私が判断ミスをしたから! 私があの時、ソフィアの言う通りに退いていたら、こんなことには……!」

「……でも、そうしていたら、フルバック隊は、全滅してたかも」

「だとしても! ソフィアがこんな……こんな風にはならなかった!」

「アリサは、レッド隊も、フルバック隊も、誰も見捨てなかった。それで良いと、私は思うよ」

「そんなこと……!」

「いっつも、つんけんしているけれど。でも、本当は、凄く優しい女の子……。全部、知ってるよ……? そんなアリサだから、わたし、は……好きになったんだよ…………?」

「ソフィア……ソフィアぁっ!」

「アリサが、無事で良かった。わたしが、盾になれたのかな……? もしそうだったとしたら、凄く……嬉しいな…………」

 ソフィアは青白い顔でそっと微笑み、呟き。そうした瞬間……がはっと口からおびただしい量の血を吐いた。

「ソフィアっ!」

 そんな風に血を吐いたソフィアを見て、アリサがまた血相を変えて取り乱す。

 もう……終わりの瞬間は、すぐそこまで近づいていた。ソフィア・ランチェスターの消えかけた生命いのちの灯火は、もう数分もしない内に消えるだろう。

 それを悟っていても、しかし何も出来ない自分がもどかしくて。アリサに出来ることは、ただ自分を責め続けることと、大粒の涙を流すこと。そして……彼女の手を握り締め、傍に居てやることだけだった。

 周りには、誰もいない。今も上空では交戦が続いている。救いの手を差し伸べてくれる救世主メシアなんて、この不毛の大地には居ないのだ。死の臭い漂う静かな月面に、そんな都合の良い救世主メシアなんて存在し得ない。

「ねえ、一緒に行くって約束したわよね? アポロ十一号の着陸場所、一緒に見に行くって……ソフィア、約束したじゃない」

 だから、アリサは語り掛ける。涙に震えた声で、消えかけたソフィアの生命いのちを何とか繋ぎ止めようと。

 その努力はあまりに涙ぐましく、そして無意味なものだったが。しかし、意味があるとすれば――――最期の瞬間を、笑顔で。最愛の彼女に見送られながら迎えることにあるのかもしれない。少なくとも、ソフィアにとってそれはある種の救いだった。

「……うん、ごめんね、アリサ。行きたかった、けれど。もうわたし、無理みたい」

「そんな! そんなこと……!」

 ううん、と静かに首を横に振るソフィア。彼女の顔からはとっくの昔に血の気が引ききっていて、意識すらをも段々と朦朧としてきていた。視界もなんだか、薄ぼんやりとしておぼろげだ。

 それでも、彼女の姿だけは――――アリサの姿だけは、今もハッキリと眼に映っている。可愛らしい顔を涙でくしゃくしゃにした、そんな彼女の顔が視界いっぱいに映っている。僅かに残った左手の感触も、確かに感じる。彼女が握り締めてくれている、そんな感触を。

 それが、ソフィアにはたまらなく嬉しかった。本当は、ずっと彼女と一緒に生きていたかった。ずっとずっと、彼女と同じ空を一緒に飛んでいたかったけれど……でも、こういう幕切れなら悪くないと思えてしまう。彼女に看取られながら、綺麗で静かな月の上で逝く、こんな穏やかな最期ならば。

「そ、そうだ! なら十一号だけじゃない、他にも色々行きましょうよ! 十六号が良いかしら、それとも十七号? ああっと、十三号もアリかしら……!」

「……ふふっ。十三号は、着陸してないよ……?」

「えっ、そうなの……?」

「うん。事故で中止しちゃったんだ……。映画にもなってるから、今度……アリサも、観てみなよ…………」

「だ、だったらソフィア! アタシと一緒に観ましょうよ! その方が……その方が、きっと……たのっ、楽しいわよ……っ!!」

「…………もういいよ、アリサ。もう、無理しなくても」

 必死に、縋るように声を掛けてくるアリサが。声を震わせ涙を流す彼女が、あまりにも不憫で。ソフィアは吐血したせいで赤く汚れたバイザーの下、彼女にフッと微笑みかける。もういいよと、赦すかのように。

「……ソフィア」

 そうすれば、アリサの方も無意味だと漸く悟ったのか。悲しげな顔で、震える声で彼女の名を呼ぶだけで、それ以上は何も言わない。いいや、言えなかった。

「ひとつ、お願いしても、いいかな……?」

 そんな彼女に、ソフィアは静かに語り掛ける。自分に残された時間がもう幾ばくもないことを悟りながらも、しかしもう少しだけ、連れて行くのは待っていてと。これだけは、伝えさせて……と、朦朧とする意識の中で祈りながら。ソフィア・ランチェスターは、今も手を握っていてくれている、最愛の彼女に向かって語り掛ける。独り遺していってしまう、独りぼっちにさせてしまう彼女に……最期にひとつ、どうしても伝えておきたい言葉を。

「な、なあに……?」

「アリサはきっと、もう少ししたら、アリサにとって一番大切で、一番大好きで……何よりも大事な、そんな相手に出逢えると、思うんだ」

「そんなの……」

「分かるよ。……向こうとこっちの間に居るから、なのかな。何となく、分かるんだ。わたしに予知能力は、ないけれど。でも……何となく、そんな、気がする」

 ソフィアは震える彼女にそっと微笑みかけ、そして続けていく。彼女に遺す、最期の言葉を。

「きっと、その子がアリサにとっての……貴女にとっての、掛け替えのない翼になってくれると、思う。アリサと一緒に、何処までも飛んでいける……そんな、翼に」

「ソフィア……!」

「その子と、毎日を過ごして。素敵な恋をして……二人で、何処までも羽ばたいていって欲しい」

 ――――でもね、アリサ。

「たまにで、いいんだ。たまに……わたしのことも、思い出してくれると、うれしいかな」

「っ……! 思い出す、毎日だって! ソフィアのことを……アタシが! 忘れられるわけ……っ!!」

「…………そっか」

 ――――なら、安心した。

「アリサ、いつまでも飛んでいてね。わたしは、自由に羽ばたいているときの、貴女の顔が。楽しそうな、アリサの顔が……一番、大好きだから…………――――――」

 そっと、重い瞼を閉じて。ソフィアの左手から、力が抜けていく。

 握り締めていた彼女の手が、自分の手をすり抜けて。ゆっくりと、六分の一の重力に引っ張られるようにして……ゆっくりと、力なく横たわった。

「あ、あ、あ……!!」

 その瞬間が、来てしまった。

 アリサは全てを悟ると、言葉すら失ってしまう。震える手で、もう二度と動くことのない彼女の左手をぎゅっと握り締め。冷たい手のひらを、強く、強く両手で握り締めながら……彼女はただ、力の限り叫んでいた。

「ソフィア……ソフィア……! あああああああああああ――――――ッ!!」

 慟哭の叫び声が、灰色に満ちた月の大地に木霊していく。

 空気なんてないから、彼女の叫び声が伝わるはずなんてないのに。月の大地そのものを震わせるような叫び声は、哀しみに満ちた涙声の、震える叫び声は。いつまでもいつまでも、灰色に染まる月の大地に木霊していた――――――。





(第十二章『アリサ・メイヤード』了)

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