第六章:この蒼穹(そら)の為に/03
また南の運転する牽引車に引っ張られたファントムが、質素な格納庫に擬装されたゲートを潜り抜け、地上の滑走路の近くにあるエプロンへと出て行く。
そうすれば、南が事前に話を通しておいたらしく、手が空いている整備員たちがそこで待ち構えていて。エプロンまで引っ張られてきたファントムに群がり、彼らの手で最終チェック作業が始められる。
ちなみに今のファントムだが、当然のように非武装だ。バルカン砲に弾が入っているのかも怪しい。
強いて言うならば、腹下の中央に増槽――――切り離して棄てられる、追加の燃料タンクのことだ。六〇〇ガロン容量の増槽、強いGの掛かる空戦機動にもある程度耐えられる構造の『ハイGタンク』を一本吊しているだけの、そんな質素な出で立ちだった。
「こ……こうか?」
「そうそう、そんな感じで乗っちまえば良いってワケよ」
そうしてエプロンに駐機したファントム、機首側面に掛けられた黄色のタラップ(はしご)を昇り、アリサがファントムの前席に乗り込み。そして翔一もおっかなびっくりといった調子で後席に乗り込むと、南に手伝って貰いながらシートベルトやヘルメットの装着、そのヘルメットに付属した酸素マスクのホース接続など、必要な装具をセットアップしていく。
ちなみに彼やアリサが被っているヘルメットだが、最近よく見る先進的なHMD――――ヘッド・マウント・ディスプレイ付きの豪華でお高い
「イザって時はこのハンドルか、それから頭の上に付いてるそのハンドル。どっちかをグッと引いて脱出だ。そうすれば射出座席が作動して、めでたくベイルアウト成功。パラシュートの旅にご招待ってワケだ」
「そうならないことを祈っておくよ……」
後は、最悪の事態に備えて脱出方法のレクチャーだ。といっても股の間にある射出ハンドルか、ヘッドレストの左右……頭の上にあるフェイス・カーテン。縞模様をしたどちらかのハンドルを引くだけで座席は勝手に射出され、自動的に機体から脱出することになる。アリサに限って何かミスを犯すとは思えないが、しかしメカ・トラブルの可能性もある。まして八〇年代に退役した超年代物なだけに、万が一に備えておくべきなのは間違いない。
「…………アリサちゃんのゴーストが気性の激しい戦闘妖精だとすれば、ファントムは淑女だ。きっとお前さんにも感じるモノがあるだろうよ。言葉じゃねえ、理屈じゃねえ何かを、お前さんならきっと感じられる。根拠はねえが、俺っちはそう思うぜ」
「淑女……か」南の言葉に、翔一がフッと薄く笑む。「良い喩えだ」
「俺も何度か要のおっさんに付き合わされて、一緒に空の上に連れて行かれたモンだよ。あんちゃんはセスナ飛ばしたことあるっつってたが、雲の上はまた別の世界だ。きっと……アリサちゃんとファントム、
南はそれだけを言って、さっさとタラップを下り、翔一の傍から離れていく。オレンジ色のツナギに包まれた彼の背中をコクピットから見送りながら、翔一は「僕の憧れた、大空……か」と、南が今まさに放った言葉を独り呟き、反芻していた。
そうしている間にも、南は待機させておいた電源車を呼び寄せ、機体の傍に停めさせて。停車した電源車からコンプレッサーのホースなどを引っ張り出すと、機体の下へ潜り。自分の手で、手早くそれらをファントムに接続していく。
――――こんな風に外部動力を必要としているのは、ひとえにエンジン始動の為だ。
最近の……例えばF‐15イーグルやF‐16ファイティング・ファルコンなんかは、自分だけでエンジンを始動する為のJFS(ジェット・フューエル・スターター)という物を備えているから、今みたいな電源車抜きでも単機でエンジンを始動できる。
JFSというのは……かなり乱暴な喩え方をしてしまえば、自動車のセルモーターのようなものだ。セルモーターとJFSはまるで違うものだが、自分だけでエンジンスタートをさせられる、という意味では似ている。
それもこれも緊急時や、補給の行き届かない最前線の飛行場で簡単に運用する為の配慮だ。単機で始動し勝手に飛んでいけるという点は、緊急事態を想定すれば絶対にあった方がいい機能なのは間違いない。
だが…………このファントムは古い機体であるが故に、そんな便利な機能を有してはいないのだ。
この頃までのジェット戦闘機が皆そうだったように、F‐4EJも例外でなく。自分でエンジンを回すスターターの類を有していないが故に、こうして外からコンプレッサーで圧縮空気をエンジンに送り込み……空気の力でジェットエンジンのタービンを回し、始動せねばならないのだ。
また外部動力に頼らずとも、火薬カートリッジを破裂させて強引にタービンを回す方法もあるにはあるが……こちらは火薬を使うだけに、エンジンをかなり傷めてしまう。だから普通は緊急時以外には使わない方法だ。ベトナム戦争当時、前線の飛行場ではよく使っていたらしいが……本当に緊急的な措置だ。
――――閑話休題。
話がかなり逸れてしまったが、そういう理由でファントムは電源車の随伴を必要としているのだ。故に南は事前に呼び寄せておき、自分の手でこうして始動の手伝いに当たっているというワケだった。
「さてと、始めましょうか」
コンプレッサーが接続されたのを見て、前席のアリサは酸素マスクの下で小さくひとりごち。そして少々面倒なエンジンの始動手順を開始する。
開いたキャノピーからアリサが人差し指を立てた右手を出し、くるくると小さく円を描くみたいに回して、外の連中に合図をする。今から右エンジンをスタートさせるという合図だ。双発機では普通、右側から始動させる。
その合図に従い、電源車から圧縮空気を送り始め。すると右エンジン内部のタービンが空気で回り始める。そのことを計器盤のエンジン回転計で確認すれば、アリサは今まで回していた右手の動きを止め、今度はグッと握りこぶしを作ってみせる。
それからはひたすら、計器と睨めっこだ。回転計の示すエンジン回転数が十パーセント程度になったところで、外に出した右手の人差し指を立てつつ、クッとスロットルをアイドル位置に持って行く。回転数が上がる度に右手は立てる指を二本、三本と増してゆき……最終的に回転数が四〇パーセントを超えたところで、サッと横に手刀を振る。送っていた圧縮空気を止めろという合図だ。
そうして右エンジンの始動手順をひとまず終えると、ファントムの腹下に潜る南が手早くホースを左側へと付け替えて。アリサもまた今度は左手をキャノピーの外へと出しつつ、似たような手順で左エンジンを始動させ始めた。
少しの時間を経て、左右のエンジンが安定する。J79ターボジェット・エンジンの甲高くも、何処か重々しい音色が木霊する中……役目を終えた電源車がファントムから離れていく。
「…………」
電源車と一緒に離れて行く南が、こっちに向かってニッと笑顔で親指を立てる仕草をしていたのを見て、翔一も彼に小さく親指を立てて返す。
なんてことを後席の翔一がしている間にも、前席のアリサは膝の上に置いたチェックリストに従い、飛行前の点検をサッと手早く済ませていて。とすれば無線で管制塔と交信し、滑走路までのタキシング(移動)の許可を取り付けていた。
「アタシみたく、普通の戦闘機を飛ばせちゃうESPの空間戦闘機乗りって、実はかなり珍しいのよ?」
そうしてファントムが滑走路に向けてゆっくりとタキシングする中、アリサが後席の翔一に向かってそんな言葉を投げ掛けてくる。それに翔一が「そうなのか?」と少し驚いた顔で返してやると、彼女は「そうよ」と何処か自慢げな調子で頷いた。
「…………それに、今日こうしてアンタをアタシの後ろに乗せてあげてるのは、特別なのよ。ホント言うと……アタシはね、後ろに誰も乗せたくないの。どんな時でも、絶対に」
「
「当然よ、アンタに話す義理もないし」
「だろうな」
「とにかく、今日だけ特別。本当に特別なんだから、少しぐらい感謝しなさいよ?」
「君に感謝はしているさ、十分すぎるぐらいに」
アリサに言われ、翔一が素直に頷き返していると。そんなやり取りの間にも、アリサの動かすファントムは既に滑走路へと出ていて。丁度、滑走路の上で停止したところだった。
「キャノピー、閉じるわよ」
「了解だ」
とすれば、今まで開け放たれていた前後のキャノピーがアリサの操作でスッと下がり、バタンと閉じる。
キャノピーが閉じた瞬間、翔一が感じたのは少しの閉塞感と……どうしようもないほどに熱い、胸の高鳴りだ。
当然だろう、彼からしてみれば夢のような体験だ。後席といえども、まさか実際に戦闘機に乗り込み、そして大空へ飛び立てる機会なんて……本来なら、彼にとって一生得られなかったはずのものだ。空に憧れていた彼からしてみれば、本当に夢のような体験。胸の高鳴りを覚えてしまうのも至極当然のことといえよう。
『EAGLET 1, You're Cleared for Takeoff』
「Roger. EAGLET 1, Cleared for Takeoff」
アリサが管制塔と再び交信し、離陸が許可されると。復唱したアリサは真後ろの翔一に向かって「さあ、行くわよ」と一言告げると、一気にスロットルを開き始める。
とすれば――――瞬間、ファントムの尻から火が噴き出した。
アフター・バーナー点火。J79ターボジェット・エンジンが凄まじい轟音を上げながら、二トン近い重量の鉄の塊を恐ろしいほどの勢いで加速させていく。
「ぐっ……!?」
彼にとっては初めて味わう、戦闘機の急加速と強烈なG。翔一は小さな呻き声を上げながらも、眼を見開きそれに耐える。
「さあて、飛ぶわよ!!」
滑走路での急加速の後、やがてファントムはふわりと飛び立ち。とすればアリサはグッと操縦桿を引いて機首を引き上げると、スロットル全開のまま物凄い急角度でファントムを上昇させ始めた。黒く長い機首が向くその角度は、殆ど垂直に等しい。
ハイレート・クライムだ。それこそ後席の翔一を一撃で失神させるんじゃあないかってぐらいの勢いと角度で、アリサはスロットル全開でファントムを急上昇させていく。
「無茶するなって言った傍からこれかよ!? アリサちゃんめ、とんでもねえハイレート・クライムしやがって……!」
そんな、矢のように
「…………でもまあ、相変わらず気持ちのいい飛び方しやがるぜ」
が、次に彼の口から出てくるのはそんな、何処か羨望にも似た言葉で。茜色に染まる夕焼けの大空を見上げる彼の表情も、何処か笑顔交じりの、仕方ないなといった風な感じだった。
消えていく白銀の機影、遠く薄くなっていく飛行機雲。後に残るのは、主脚タイヤが滑走路に残した色濃いブラックマークと、そして双発のJ79ターボジェット・エンジンが奏でる爆音。猛獣の唸り声のような、雷鳴のような低い独特の音が、まるで余韻のようにいつまでも南の耳には届いていた…………。
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