第一章:桐山翔一/02

 サッとブレザースタイルの制服に袖を通し、履き古したローファー靴を履いて、玄関から家の外へ。学生である身の上で、そして今日は平日だ。その他大勢の例に漏れず、翔一もまた今日も今日とて学院へと向かうべく、家を出なければならないのだ。

 夜中の雨模様とは打って変わって、今の外界は綺麗な晴れ模様だ。濡れたアスファルトの路面だったり、道端にある小さな水溜まりだったり、或いは未だ漂う残滓めいた微かな雨の匂いだったりと、一晩中ってぐらいに降り続いた雨の気配がまだまだ色濃い朝の空気だが。しかし東の空からはギラギラとした朝日が照り付けていて、頭上に広がるのも綺麗な蒼い天球だ。点々と雲が浮かんでいて、日本晴れとはいかないまでも。しかし清々しいという喩えが相応しいほどの爽やかな朝だった。

 そんな清々しい朝なのだが、しかし翔一の気分と足取りは何処か重い。正直言って億劫といえばそうだ。どうにも眠くて眠くて、今からでも家に戻ってベッドに寝転がってしまいたい衝動に駆られる。

 だが…………さっきも述べた通り、翔一はあくまでも学生の身分だ。であるのならば、平日に学院へ行かねばならないのは必定。故に翔一は強烈すぎる怠惰な衝動を希薄な理性で何とか抑えつけつつ、学院へ向かうべく雨上がりの朝焼けの中を歩き始めた。

 どうにも歩くのが面倒で面倒で仕方のない日は、こっそり相棒のイナズマ400で楽に通学してしまう彼だが、しかし大抵はこうして徒歩で学院の登下校を済ませている。というのも、彼の家から学院まではそこまで遠い距離ではなく、徒歩でも行って帰ってこられる範囲内にあるのだ。その点だけで、立地の点だけで言えば、翔一にとって学院……国立風守学院はまあ悪くない場所だった。

「ん……?」

 そうして学院への道を歩き始めて、十分少々が経った頃合いだろうか。歩道を独りトボトボと歩いていた翔一のすぐ傍に、かなりの年代物な旧車が滑り込んで来たのは。

 ハザード・ランプを炊いて路肩に停まったそれは……蒼い旧車だ。一九七五年式のトヨタ・セリカ1600GTリフトバック。何処かアメ車ルックなその古びたシルエットも、明らかに純正色でないカラーリングも。そして名機2T‐Gエンジンの奏でる古風にして甘美な音色も、その全てが翔一にとっては見慣れた、聞き慣れたものだった。

「やあ、偶然だね翔一くん」

「いつものコトじゃあないですか、霧子さん」

 だから、翔一は開け放たれたソイツの窓の向こう側からセリカの運転手に話しかけられても、何も驚くことなく言葉を返すことが出来ていたのだ。

 路肩に停まったセリカの運転席から小さく身を乗り出し、開けてあった助手席側の窓から、立ち止まった彼を見据える彼女は。他ならぬ翔一にとっても、お互いに勝手知ったる間柄の女だった。

 ――――羽佐間はざま霧子きりこ

 他でもない、国立風守学院の養護教諭だ。もっと分かりやすい言い方をすれば、保健室の先生と言うべきか。その肩書きに違わず、彼女はスカートスタイルのスーツの上に白衣を羽織っていた。白衣は袖を折っているし、スーツはブラウスの胸元を大きく開けたりなんかして着崩している辺り、格好から既に霧子の飄々としたフリーダム極まりない性格が表れているというか、何というか。

「折角だ、今日も乗っていくといいよ。学院まで送っていくから」

 霧子はウェーブ掛かった黒いロングヘアの髪を小さく揺らし、アシンメトリー調の前髪の下……翔一とは対照的に、左眼を隠した前髪の下からエメラルドグリーンの瞳を覗かせ、いつもの飄々とした口調と態度で翔一に向かってそう提案する。

「お言葉に甘えて」

 翔一はそんな霧子の好意を素直に受け取り、傍にあったガードレールを乗り越えて。やはり勝手知ったる調子で助手席側のドアを開けると、慣れた調子でセリカの助手席に乗り込んでしまう。

「さあ、行こうか」

 彼が乗り込んだのを確認すると、霧子は小さく微笑み。サイドブレーキを下ろしつつギアを入れ、滑らかにクラッチを繋いでセリカを再び発進させた。

「それにしても翔一くん、最近はよく逢うものだね」

「霧子さんの通勤ルートと僕の通学ルートが同じで、時間帯も最近は被ってるってだけですよ」

「ふむ、つまりこれは運命って奴か」

「歩かずに楽を出来る運命なら、僕も大歓迎ですがね」

「はっはっは、君も言うようになったじゃあないか。何にせよ、教師としての立場は抜きに……保護者として、君を学院まで送ることは決して吝かじゃあないんだ。だから私に遠慮は不要だよ、いつも言っていることだけれどね」

 年代物のカーステレオから、これまた年代物の……七〇年代のフォークソングが流れる中、ステアリングを片手で握る霧子は乾いた笑いを薄く浮かべ。そして口に咥えていたラッキー・ストライクの煙草を、短くなったそれを灰皿にスッと押し付ける。そうすれば霧子は白衣の胸ポケットから新しい一本を取りだして咥え、運転しながら器用にマッチを擦って火を付けていた。生徒の前で、というより同じ車の中で堂々と煙草を吹かすのはどうかと思うのだが。まあ彼女からしてみれば、翔一は生徒という感じではないのだろう。

 ――――今まさに霧子自身が言った通り、羽佐間霧子という女は翔一にとって保護者の立場にある女だった。

 といっても、彼女のはらから生まれたワケではない。あくまで保護者というだけで、血縁関係は霧子との間には一切存在しないのだ。

 では、何故そんな霧子が翔一の保護者を名乗っているのか。その理由は割に単純で、霧子が翔一の母親……桐山楓の親友であるが故のことだった。

 元は空自の医官、三等空佐の階級まで持っていた彼女と母がどんな切っ掛けで知り合い、そして霧子が何でまた養護教諭なんて立ち位置に落ち着いたのかは翔一にも分からないが。しかし今の彼女は、海外を飛び回っている母の代わりに、翔一の保護者……つまり母親代わりのようなをしてくれている存在であることは、紛れもない事実だった。

 実際、翔一も彼女には割と心を開いているというか、慕っている節がある。あまり他人と話したがらないタイプの翔一にとって、羽佐間霧子という存在はある意味で……彼にとっては、学院内で一番言葉を交わしている相手なのかもしれない。それぐらいに翔一は霧子のことを慕っていて、血の繋がりこそ無いが家族のような存在だと思っていた。

 ちなみにこれは余談だが、今まさに向かっている学院……国立風守学院への入学だって、彼女の勧めがあってのことだ。

 翔一に勧めた詳しい理由を、霧子が話してくれたことはない。しかし翔一は霧子が言うことならばと思い、勧められるがままに風守学院に入学を決めていた。特に志望校があったワケでもないし、正直な話が何処でも良かったのだ。それぐらいに投げやりな判断だったから、折角ならと霧子に勧められた風守学院を選んだ……というワケだ。

「ところで翔一くん、最近調子はどうだい?」

「と、いうと?」

「単なる世間話さ、特にこれといって聞きたいことはないよ。強いて君に問うておきたいことがあるとすれば……そうだね、勉学のことか。これでも私は一応教師だからね、その辺りは。それに保護者としての立場でも、君の口から聞いておきたい気持ちはあるんだ」

「可も無く不可も無く、といったところですよ。霧子さんの方こそ、今日はご機嫌じゃないですか。何かあったとか?」

「ふっ、やっぱり君にはお見通しか。いやあ、実は先日ちょっと良いものが手に入ってね。何かって? 仕方ないな、翔一くんにだけ教えてあげよう。結構な年代物のレコードなんだけれど、これが結構保存状態が良くてね――――」

「……相変わらずですね、霧子さんのレトロ趣味も」

 ニヤニヤと薄い笑みを浮かべながら、聞いてもいないことを運転しながらベラベラと喋る霧子のいつも通りな調子に、翔一は毎度のコトながら辟易し。年代物の割に状態の良い助手席シートに収まりながら、はぁ、と小さく息をついていた。

 ――――このセリカ1600GTに代表されるように、霧子はかなりのレトロ趣味の持ち主なのだ。

 まさにこの車が代表的だ。七〇年代のセリカはそれこそ博物館級の代物で、状態にもよるが……凄まじい型落ちにもかかわらず、中古車市場だとそれなりのお値段がする車種だ。最近では特にこういったレトロカーの類が流行りつつあるのは事実だが……これに関しては霧子がミーハーというワケではなく、単純に彼女が昔から筋金入りのレトロ趣味であるが故の車種チョイスなだけだ。

 カーステレオで流す曲は古びた昭和のフォークソングか歌謡曲かで、趣味はレコード収集とヴィンテージカーを乗り回すこと。霧子は外見からして明らかに変人のそれなのだが、そんな彼女のド変人っぷりに拍車を掛けているのが、この徹底的なレトロ趣味だった。

「……っと、話している内に何だかんだと着いてしまったよ。いやあ、楽しい時間というものはアッという間だね」

「楽しいのは霧子さんだけでは……?」

「そうかい? 私は楽しいけれどね、君とこうして過ごすのは」

 とまあ、いい加減に聞き慣れた霧子の戯れ言を聞き流している間にも、彼女の操るセリカ1600GTは学院に到着していて。蒼い年代物のボディが、ゆっくりと校門を潜っていくところだった。

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