【38】信用できない

 曇り空の下、足場の悪い大地を歩ていた三人は、高木が根を下ろす大地へ足を踏み入れた。下草もあまり生えておらず歩行しやすい。


 類はお腹をさする。曖気が出た。

 「腹がきつい……」


 呆れた表情の明彦が類に言う。

 「四つも食べるなんてあり得ない。椰子の実ひとつにココナッツジュースが約一リットルも入っているんだ。信じられないよ」


 類は言った。

 「だって残すのもったいないじゃん」


 明彦は言った。

 「だからって合計四リットルだぞ」


 純希が言った。

 「俺らはふたつが限界。腹がタプタプだ。ゲームクリエーターになるより、フードファイターになったほうがいいんじゃねえの?」


 類は、椰子の実を二個収めたリュックサックを指さし、強調した。

 「重たい荷物を背負ってるんだ。食い溜めが必要なの」


 類の食欲に純希は呆れる。

 「食い溜めねぇ。器用なやつだ」


 くだらない会話を交わしながら歩く三人。足元を気にしていなかった明彦が水溜りに落ちた。ジャングルを歩いてから靴の中はいつも濡れている。水溜りに落ちようと落ちまいと同じなので、動じずに足を上げた。


 「ちょっと待って」明彦はふたりを呼び止め、水溜りの前に屈み込んだ。「由香里と斗真は水面に何かを見た。鍋の中にヒントがあるわけじゃない。水溜りでも関係ないだろ?」


 ふたりも明彦の隣に屈んだ。


 類が言った。

 「鍋だろうと水溜りだろうと俺には何も見えない」


 明彦は言った。

 「見つめ続けたら何か見えるかもしれないじゃん」


 類は言う。

 「時間の無駄なような気がする」


 水溜りを覗き込む明彦。

 「そう言うなよ。ひょっとしたら純希になら何か見えるかもしれないじゃん」


 「そうだな」と返事した純希は、まじまじと水溜りを見た。だが、特別なものは映らない。見慣れたふつうの水面だ。「囁きが聞こえなかった俺にも何も見えない。あいつらいったい何を見たんだろう?」


 明彦は首を傾げた。

 「幽霊じゃない何か……それを由香里は幽霊だとかんちがいした」


 純希は言った。

 「幽霊とかんちがいするほど怖いものってことだよな?」


 「たぶん……」明彦は、曖昧な周囲の景色が映った泥水を指先で弾いた。「ぎょっとするものだと思うけど」


 類が明彦に言った。 

 「小夜子のときにはなかったんだ。死んだやつが化けて出てくるとか聞いてないもん。どっちにしても、三十年前よりもこの脱出ゲームは難易度が高いはずだよ」


 明彦は類に言った。

 「由香里が言うには結末は同じらしい。だけど、途中経過はちがえども結末に関しては同じような気がしてたから、由香里の言葉に意外性は感じなかった」


 「たとえ結末が同じでも内容が難しければ謎解きは厄介だよ」


 「かもしれないけど、絶対に解く。そして、新学期を迎える」


 「明彦に期待してる」


 「出入り口はゲートしかないんだ。水面に映ったものさえわかれば、コップと容器の側面にも何かが見えるはずだ」


 囁きに支配されていたので、容器の存在を知らない。

 「容器ってなんのこと?」


 軽く説明した。

 「綾香たちが浜辺で軟膏入りの容器を発見したんだ」


 「軟膏? 皮膚に塗り込む軟膏?」


 「うん、そうみたい。俺も現物を見たわけじゃないから、どんなかんじのものなのかわからないけどね」


 「どうしてそんなものが? てゆうか、それって本当に漂流物なわけ?」


 「囁きに支配されていた綾香は、鍋もコップも死神の置物だって推理したみたいだけど、囁きから解放されたいまは考えを改めた」


 「やっぱり、現実世界の海と繋がっているんじゃないのかな? 漂流すれば戻れる可能性もあるんじゃない?」


 「綾香たちにも言ったけど、この島は捕獲器みたいなものだ。島に入った獲物がここから抜け出すには、カラクリを解くしかない」


 「なるほどな……意地でも解かないとな……」


 純希がジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見下ろした。現在、十五時五十分。

 「集合時間まであと少し」


 明彦は、純希のスマートフォンの画面を覗いた。

 「もうこんな時間なんだ」


 類もポケットからスマートフォンを取り出して画面を見る。旅客機の墜落初日から一向に変わらない日付。電波アイコンも圏外。


 電波がないとわかっているものの、理沙の電話番号を選択して、通話ボタンをタップしてみた。もしかしたら、奇跡が起きるかもしれない。道子と同じ行動をとった類は、スマートフォンを耳に当てた。


 「理沙が出てくれるかな、なんて……そんなわけないよな……」


 明彦は言った。

 「気持ちはわかるけど、虚しくなるだけだよ」


 類は言った。

 「鏡でのやりとりじゃなくて、じっさいに話せたら……俺たち助かるかもしれないなんて、そんなの甘いよな」


 純希が言った。

 「じっさいに話せても状況は変わらないよ。だってここは現実世界じゃないんだ。レスキュー隊だってこない。この状況を脱出するのに必要なのはカラクリの答えのみ」


 類は残念そうに言った。

 「そうだよな」


 「少し早いけど倉庫に行こう」明彦は頭上を見上げた。「木の葉っぱがいいかんじで日除けになってる。眠っているあいだに晴れたとしても直射日光から体を守ってくれる」


 理沙に逢えるから嬉しい。類の顔が綻ぶ。

 「よし。それじゃあ倉庫に行くとするか」


 大地に腰を下ろした三人は、目を瞑って意識を集中させた。その直後、外気の変化を感じたので瞼を開けた。目の前には鏡に両手をついて、こちら側を覗き込むように見ている理沙の姿が見えた。


 類は理沙を見て微笑んだ。しかし、明彦と純希には理沙が衰弱しているように見えた。室内も異様に暑い。窓やドアも閉まっており、密室状態だ。


 だが、数回まばたきをするといつもの理沙に戻っていた。室温も適温だ。この現象はいったい何を意味しているのか……。


 明彦と純希は、類に目を向けた。類は笑みを浮かべながら鏡に息を吐きかけ、到着を知らせていた。衰弱した理沙の姿は、類以外の全員に見えている。


 なぜ、類に見えないのか? 囁きからの解放と関係しているようで、関係ないのだろうか……。いまの類は、どこから見てもいつもどおりだ。囁き声が聞こえている様子はない。


 「なぁ、類」念のために明彦が確認する。「理沙はどう見える?」


 類は明彦に返事する。

 「どうって、いつもの理沙だよ」


 「ずっとここで寝泊まりしているんだ。帰宅させてベッドで休ませたほうがいい。すごく心配なんだ」


 「また衰弱して見えたの?」


 「うん。ひとことで言えばヤバいくらい」


 「でも、いま目の前にいる理沙は、紛れもなく現実世界の理沙だ。鏡に映る生徒も現実世界の元気な生徒なんだ。けっきょく理沙も元気なんだよ」


 「それでも休むことは必要だよ」


 純希が言う。

 「理沙は生真面目すぎるところがあるから、お前が気を使ってあげないと、そのうち倒れちゃうぞ」


 「そうだな。もしかしたら無理してるのかもしれないな」類は鏡に息を吐きかけて文字を書く。《家のベッドで休んでもいいんだよ》


 理沙は首を横に振った。

 「類やみんながジャングルで頑張っているのに、あたしだけ休むわけにはいかないよ」


 《心配だから》


 理沙は言った。

 「心配してくれるのは嬉しいよ。でもね、将来の夫が困ってるんだよ。呑気に寝てなんかいられないよ」


 心強く感じた。

 「理沙……」


 目を丸くした純希。

 「将来の夫?」


 類はふたりに言った。

 「結婚の約束をしたんだ。誕生日のプレゼントに婚約指輪をプレゼントした」


 驚いたふたりは目を見開いて、理沙の左手の薬指を見た。可愛らしいリボンモチーフがついたピンクゴールドの指輪が婚約指輪なのか、と理解した。


 純希は戸惑いながら祝福する。

 「お、おめでとう。お前らはいつか結婚するんだろうなぁ、とは思っていたけど、まさか十七歳で結婚を誓っちゃうとはびっくり」


 「将来を誓い合うのに年齢は関係ないよ」類は理沙を見つめながら言った。「必要なのは互いの愛情と意思だけだよ」


 純希は言った。

 「いや、まぁ……そのとおりだと思うけどね。愛があればね、たしかにそうだけど」


 明彦は理沙の様子が気になる。

 「愛し合っているからこそ、理沙を休ませたほうがいい。俺は理沙の友人として心配なんだ」

 

 「わかってるよ。俺も心配だから」と、明彦に言った類は、理沙に伝える。《疲れたら休んでね》


 理沙はうなずく。

 「うん」


 理沙の体調を心配する明彦は訊く。

 《本当に大丈夫なの?》


 理沙は笑みを浮かべて返事する。

 「もちろん。ぜんぜん平気だよ」

 

 類は明彦に言う。

 「本当に大丈夫なんだと思うよ。疲れたら休むって本人が言ってるんだし」

 

 そのとき、ジャングルからこちらに意識を移動させた一同のざわめく声が後方から聞こえた。ざわめいた理由は訊かなくてもわかる。それは理沙が衰弱して見えるからだ。何度見ても慣れない光景だ。


 類たち三人は、動揺している一同の顔ぶれを確認した。由香里と斗真が欠けている。ふたりの消息は依然として不明のまま……と訊かなくてもわかった。


 綾香たちは類に目をやり、安堵の表情を浮かべた。類だけでも見つかってよかったと思う。しかし、心配ごとが多すぎて手放しで喜べる心境ではない。


 綾香は口元に笑みを浮かべた。

 「類、よかった。ジャングルでふたりと合流できたんだ」


 類は謝る。

 「うん。心配かけてごめん」


 「いいの。安心した」


 「ふたりは……いないんだよな……」


 「大丈夫。必ず、見つけるよ」と言った綾香は、理沙に目を向けた。衰弱して見える。「辛そう……」


 「正午に見たときよりも具合悪そう……」明彦の隣に立った結菜も、理沙の顔を見る。「やっぱり、へんだよ。心配だよ」


 明彦も言った。

 「俺らも心配してる」


 綾香は手で顔を仰いだ。

 「なんか、異様に暑くない?」


 だが、衰弱している理沙が見えるのも、室温が高いのも、わずかなあいだだけ。


 健が類に訊く。

 「お前には理沙がどう見える?」


 類は答える。

 「どうって、いつもどおり。たまに疲れてるのかなって思うときもあるけど、でも本人は大丈夫だって言ってるし……」


 健はもう一度、訊いた。

 「衰弱して見えたことは一度もないんだよな?」


 類は理沙を見つめる。

 「うん、一度も。だからみんな言われると不安になる」


 綾香は首を傾げた。もうそろそろ、類にも見えてもころなのだが……。

 「囁き声はもう聞こえないんだよね?」


 類は正直に言った。

 「おかげさまでね。嘘はついてないよ」


 囁きに支配されているあいだは平気で嘘をつける。本当なのだろうか……と、類に疑いの目を向けた。

 「ほんとに?」


 明彦は綾香に言った。

 「ジャングルでも愉快な類だった。信じていいと思うよ」


 「明彦が言うなら」と、綾香は素直に信じた。


 類は綾香に言う。

 「俺って信用ないよな」


 「くだらないことで拗ねないで」


 「だって、ひどいじゃん。長いつきあいとは思えないよ」


 「長いつきあいだからこそ疑ったのよ」


 「なんだよ、それ」


 健は屈んで理沙と視線を合わせた。鏡に息を吐きかけて文字を書く。

 《元気?》


 「元気だよ」理沙は返事する。「いますぐみんなと遊園地に行きたい気分。あたしの体調を気遣ってくれるのは嬉しいけど、本当に元気だから心配しないで」


 体調不良で遊園地は辛い。理沙が衰弱して見える現象は、やはりカラクリを解くためのヒントなのだろうか? 本当にそう思ってよいのだろうか?


 《それなら安心だ》と、理沙に返事を書いた健の心に不安が残る。

 (本当に元気なんだろうか?)


 類は、健の肩を軽く叩いた。

 「ほらな、やっぱり理沙は元気なんだ」


 返事する健。

 「ああ……いまは……」

 

 明彦も不安に感じていた。真剣な面持ちで類に言う。

 「かもしれないけど……軽く考えないほうがいいと思う」


 類は言った。

 「そこまで重く考える必要はないよ。現実世界の理沙が元気ならそれでいい」


 明彦は、鏡の向こう側に見える現実世界の窓を見つめた。中途半端に引かれたカーテンの隙間から、眩しい木漏れ日が揺れている。当然、こちら側の世界も同じ光景だ。


 旅客機が墜落した八月一日からきょうまでの東京の天気は晴れ。燦々と輝く太陽が都内を照らしているはずだ。それなのに適温に感じるのはなぜだろう。


 中学生のころ、太っている自分が嫌で、真夏に過酷な自己流ダイエットを試みた。それは部屋のクーラーの電源を切り、窓を閉めきって、サウナスーツを着て大量に汗をかくという方法だ。その後、軽い熱中症になり、体調を崩してしまった。


 もしこの光景が現実なら、理沙が元気なのはおかしい……。


 「引っかかる……」と、明彦はぽつりと呟いた。


 類は訊く。

 「何が?」


 明彦は窓やドアを指さした。

 「へんだと思わないのか? 閉めきっているんだ。暑くないわけないよ」


 類は締め切った窓を見て答える。

 「かもしれないけど、不思議と暑くない」


 光流も言った。

 「俺も適温なんだけど」


 綾香が言った。

 「あたしも明彦と同じ疑問を考えていた。いまの季節にクーラーがない部屋の窓を閉め切るって拷問レベルだよ」


 明彦は言う。

 「それなのに暑くないから奇妙なんだ」


 光流は言った。

 「そう考えると暑くないわけないんだけど、じっさいこの部屋は適温だ。だから理沙に暑くないって言われると納得しちゃうんだよな」


 綾香は不安を口にする。

 「だったらどうして、理沙が衰弱して見えたときだけ室温が高く感じるのか、それが不思議なの」


 明彦は周囲を見回した。

 「温度計があれば一発だなって思ったんだけど、あるわけないよな」


 綾香は言った。

 「教室にだってないのに、ここにあるわけないじゃん」


 「理沙にしつこいって思われるかもしれないけど、もう一度だけ訊いてみるよ」類は理沙に訊いてみた。《室温はどう?》


 不思議そうな表情を浮かべて、理沙は答えた。

 「適温だよ。どうしていつも室温を気にするの? こんなに快適なのに。類たちは暑いの?」


 《ぜんぜん》


 理沙は言った。

 「あたしもだよ。現実世界のすべてが鏡の世界に影響してると思うの。それこそ、鏡合わせみたいにね。こっちが適温なら類たちも適温。こっちが寒かったら類たちも寒いんじゃないのかな? 

 つまり、類たちが暑くないなら、あたしも暑くない。八月なのに不思議だけど、ぜんぜん平気なんだよね。だから心配しないで、とくに明彦は。どうせまた深刻な顔してるんでしょ? こっちから見えなくてもわかる」


 類は笑った。

 《かなりね》

 (どう見ても元気そうだよな。そもそも目の前で話しているのは理沙本人なんだから、具合が悪かったら明るい声を出すのは難しい)


 笑顔の類とは対照的な表情の明彦は考える。

 (もしも衰弱している姿が現実の理沙だったら、冗談なんて言える状態じゃないよな)


 類は言う。

 「気にしすぎだと思うよ」


 明彦の頭の中にふたたび囁き声が響き始めた。


 違和感なんてない―――


 俺は神経質すぎるんだ―――


 適温だ―――


 快適な環境だ―――


 「そうだな……類の言うとおりだ」

 (やっぱり俺の気にしすぎだ。もう少しポジティブにならないと……)


 類が明彦に訊く。

 「納得した?」


 「うん。考え込んじゃう癖は俺の性格だからね」


 「慎重なところがお前のいいところ」


 「ありがとう」微笑み返す。「そう言ってもらえると嬉しいよ」


 不安げな表情を浮かべた純希が、明彦に訊いた。

 「お前……囁きが聞こえているわけじゃないよな?」


 明彦は否定する。

 「いや、聞こえてないよ」

 

 純希は明彦を疑う。

 「それならいいけど……」

 (一瞬、表情に違和感があったのは気のせいかな?)


 美紅が言った。

 「室内が密室でも理沙は暑くないんだし、あたしたちも平気。たぶん、集合場所って決めた倉庫だけは、一定の温度で保たれているんじゃないのかな?」


 類は言った。

 「ジャングルも浜辺も過酷だ。きっとここは、俺らにとって過ごしやすい憩いの場であり、安全地帯って考えたほうがいいのかもね」


 綾香が言った。

 「憩いの場? 理沙が衰弱して見えるから、ぜんぜん落ち着かないけど」


 類はたとえ話をする。

 「ほら、ゲームって、自分たちの陣地にヒントが隠されていたり、体力を回復させるカプセルが落ちてたりするじゃん。そう考えたらありなんじゃない?」


 綾香は軽く口元に笑みを浮かべた。

 「ずいぶんと強引な説明だけど類らしいよ」


 明彦も笑みを浮かべた。

 「さすがはゲームオタク。いいたとえだよ。そういえば、ほかの教室も蒸し暑かったし、たしかにそう考えると、ここは憩いの場だ」


 綾香は思い出す。

 「そうだね、音楽室も理科室も蒸し暑かったね」


 道子が言った。

 「不吉なできごとの前触れみたいで不安だったけど、死神のゲームだからヒントが怖いのはしかたないよね。現実世界の理沙が元気なら問題ないんだ。だって、あたしたちのせいで衰弱してほしくないから」


 こめかみに走る痛みをこらえる明彦は、悟られないように平静を装う。

 「衰弱した理沙の見た目が痛々しいから心配になるけど、不吉な前触れとかそんなんじゃない」


 綾香は明彦に訊く。

 「衰弱した理沙が見えるのと同時に、室温が異様に高くなるのもヒントなのかな?」


 「だと思うけど……」少し考える明彦。「一番最初に衰弱した理沙を見たのが由香里。だけど、囁きに支配されていた斗真は、衰弱した理沙を見てない。囁きからの解放と関係しているようで、していないのかも……。

 つまり、衰弱した理沙を見なくてもカラクリが解ける。それなら、ヒントだったとしても、そこまで重要じゃないんだと思う。衰弱した理沙を重要視しすぎるとカラクリが複雑化してしまう。俺としてはそれが怖い」


 純希は明彦を疑う。

 (さっきまであんなに理沙を心配していたのに。いつもの明彦なら、カラクリが複雑化してもしつこく追究するはずだ。怪しい……)


 純希と目が合った明彦。

 「どうしたの?」


 明彦から目を逸らす純希。

 「いや……なんでもない」

 (そもそも、全員まともなのだろうか……)


 綾香も言った。

 「あたしも正直言って、これ以上、複雑化させたくないんだ。つぎからつぎへと謎が積み上がっていくだけだもん」


 翔太が言った。

 「由香里も衰弱した理沙を見てなかったとしても、カラクリを解いていたかもしれない。重要視しなくていいなら、それに越したことはない」


 結菜が疑問を感じた。

 「たしかに複雑化させたくないけど、島や鏡の世界で起きていることのすべてに意味があるなら、カラクリの答えに大きく関係してなくても、なんらかの意味がある。少しは考えたほうがいいよ」


 明彦は結菜に言う。

 「それはもちろんだよ。ただ、考えすぎると頭が混乱しちゃうから」


 (深い意味があるような気がしていた。本当に少し考えるだけでいいのだろうか? でも、考えたくないと、もうひとりの自分が囁く。すごく厄介だ。頭の中が混乱する)


 類が明彦に言った。

 「あえて複雑にする必要はない。だって理沙は元気なんだから、省いて考えればいいじゃん」


 元気……明彦の胸の奥に引っかかるものがあった。楽しそうにスマートフォンを操作している理沙に目をやった。

 

 (本当に元気なのか? 俺の考えすぎなのか? 囁きに負けてはならない、負けたくない)


 気持ちを強く持とうとする明彦の頭の中に囁き声が響く。


 元気に決まっている―――


 理沙とやり取りしてみろ一目瞭然だ―――


 明彦は鏡に息を吐きかけて、突然ハートを描いた。絵心はないので歪だ。


 それを見た理沙は、左右の人差し指と親指の先端を合わせてハートをつくって微笑んだ。完全に類とかんちがいしている。

 「ラブ」


 目を丸くした類は、明彦に訊く。

 「え? 頭、大丈夫?」


 明彦は続けた。鏡に息を吐きかけ、ハートを描いて類のふりをする。またもや騙された理沙は、先ほどのように胸の前で人差し指と親指の先端を合わせてハートをつくった。

 「大好き」


 明彦はもう一度、息を吐きかけて文字を書く。

 《ありがとう 明彦》

 

 あんぐりした一同。


 類が訊く。

 「どうしちゃったの? お前」


 達筆な明彦と類の字の差は歴然。理沙は軽く鏡を叩いて照れ笑いした。

 「類じゃなかったんだ。まちがえちゃった」


 《ドッキリ成功!》と明彦は返事を書いた。


 理沙は楽しそうに笑う。

 「姿が見えないってずるい」


 時折見えるひどく衰弱した理沙が本来の姿なら、横になった状態から動けないはずだ。それも指先でハートマークをつくって、可愛らしい仕草をしてくれた。理沙としては元気をアピールしたいにちがいない。やはり、理沙は元気なのだろう。自分の取り越し苦労だったようだ。


 とはいえ、囁きに従ったのに違和感がないのは不思議だ。囁きは、本来、行うべき言動と真逆のことを囁いてくるはずなのだが……。


 そもそも、倒れる寸前のひとが、こんなにも楽しそうに笑い声を上げるだろうか……。体力の低下はあったとしても、そこまで深刻に考える必要はないのかもしれない。


 自分は囁きに支配されているわけではない。ときどき聞こえるだけだ。そう……ときどき……。


 「本気で具合が悪かったら俺の冗談につきあえないはずだ。現実世界の理沙が元気な証拠だ」

 

 類が明彦に言った。

 「お前らしくないからビビったよ」


 翔太が言う。

 「島での生活もあすで一週間目だ。さすがの明彦もプッツンだな」

 

 「プッツン?」苦笑いする明彦。「ユーモアのセンスには自信があるよ」


 翔太は口元に笑みを浮かべた。

 「将来は愉快なお医者さんだな」


 純希は観察するように明彦を見る。

 (信じていいのだろうか……)


 純希の視線を感じた明彦。

 「なんか、よく目が合うね」


 返事する純希。

 「お前が美女なら嬉しいところだけどね」

 

 冗談交じりで答えた明彦。

 「美女じゃなくて残念だったね」


 本物の笑みなのか、虚構の笑みなのか……どちらか判断しかねる純希は明彦を疑う。

 (やっぱり、信用できない……)


 鏡に息を吐きかけて文字を書いた類は、理沙を笑わせようとした。

 《ひっかかった》


 文字を見てすぐに類だと理解する。

 「ドッキリ仕掛けられちゃったよ。まさか明彦だったとはね」


 《ジャングルの暑さのせいでへんになった》

 

 理沙は言った。

 「類もみんなも熱中症には気をつけてよ」


 《ありがとう》もう一度、鏡に息を吐きかけて文字を書く。《ミーティングするから待っててね》


 「うん」理沙は鏡にスマートフォンを向けた。「ゲームしてる」


 《楽しんで》


 理沙とのやりとりを中断させた類は、一同に顔を向けた。

 「よし、安心した。俺たちが現実世界に戻ったら、理沙の疲れも吹き飛ぶはずだ。頑張ろう」


 綾香が言った。

 「何がなんでもカラクリを解かないとね」


 道子が言った。

 「とはいえ、幽霊のヒントはわけがわからないし、どうしたらいいんだろう?」


 綾香は言った。

 「ヒントじゃなくて答えを教えろよってかんじ」


 道子はうなずく。

 「言えてる」


 類も言う。

 「小夜子も何も教えてくれなかったな……」


 光流が言う。

 「やっぱり……カラクリの答えが怖すぎて口にしたくなかったんだよ。それにゲートの中も……きっと、怖いんだよ。だから由香里も斗真も消えちゃったんだ」


 類は光流に言う。

 「もう少し希望を持とうよ……。将来、新聞記者になるんだろ? 暗いだろうなぁ、お前が書いた記事」


 「俺ってそんなに暗い?」


 「俺からしてみれば」


 呆れたような表情の綾香が類に言う。

 「類がお気楽すぎるの」


 類は言い返す。

 「お前は怒りの沸点が低すぎるの」


 「あたし短気じゃないけど。わりと優しい女だよ」


 「お前が優しい? うそでしょ?」


 「ふたりともそこまで」明彦が類と綾香に言ってから、光流に言った。「囁きに支配されていたとき、ゲートに強い恐怖を感じていた。でもゲートを通らないと現実世界には帰れないんだし、不安かもしれないけど前向きに考えていこう」


 光流は感心した。

 「なんだかお前に言われると安心する。そういうの見習いたいよ」

 

 明彦は光流の言葉を否定する。

 「そこまでできた人間じゃないよ」


 「俺からしてみればじゅうぶんだよ」光流は明彦を褒めた。「気を強く持たないと、囁きに支配されたら大変だ。本来の取らなければならない言動と真逆の内容を囁いてくるから超厄介だもんな」

 

 そうだよ……真逆なんだ。それなのに囁きに従った俺の心に違和感がない。でも理沙は、いまもスマホを手にして、ひとり遊びを楽しんでいる。元気な証拠だ。衰弱した理沙の姿に、いったいどんな謎が隠されているんだろうか……。


 斗真のように衰弱した理沙を見なくてもカラクリが解けてしまうんだ。カラクリを複雑にしているだけだ。深く考えないほうがいい。

 

 そうだ……考えては駄目だ。頭が混乱するだけ。


 無駄は省かないと……。


 「無駄は省いて考えていこう」明彦は頭に浮かんだ言葉を口にした。「由香里や斗真を見つけても答えは教えてくれない。それに墜落現場にある答えは、カラクリの答えを理解しないかぎり見れないんだ。答えを見るためにもカラクリを解く必要がある」


 「いまの俺たちの目に答えは映らない……」類は不安げな表情を浮かべた。「ここで何回も理沙と逢ってる。それなのに俺ひとりだけが衰弱した理沙を見てない。このまま墜落現場に向かっても、俺だけが島にとり残されるんじゃないって……怖いんだ。衰弱した理沙を見るのも怖いけど、そっちのほうがもっと怖い。

 囁きに支配されていたときは、島に残ったほうがいいって、そう思い込んでいた。でもいまは、こんな場所にとり残されたらと思うと最悪な気分になる。斗真は、衰弱した理沙を見なくてもカラクリを解いてる。それはわかってるけど……本当に答えが見れるのか不安だよ」


 明彦は類に言った。

 「カラクリの答えが理解できれば、墜落現場にある明確な答えが見れるはずだ。そしてその答えは、残念ながらいまの俺たちにはわからない。つまり、衰弱した理沙を見ようと見まいと、そこまで大きな差はないんだ。俺もお前も同じだ」


 「そっか……」類は明彦に確認する。「じゃあ俺は、島にとり残されないんだよな? 大丈夫なんだよな?」


 明彦は笑みを浮かべて言った。

 「安心しろ。当たり前じゃん。俺たちはそんな薄情者じゃない」


 綾香も類を元気づけた。

 「何が起きても絶対に置いていかない。そんなネガティブな考えは類らしくないよ」


 友情を感じた類は嬉しく思った。

 「そうだよな、俺らしくないよな」


 「そうそう。お前はいつもどおり、なんとかなるって言っていればいいの」と類に言った翔太が、純希と健に目をやった。「お前ら口数が少ないけど大丈夫か?」


 健は返事した。

 「大丈夫、元気だよ」


 翔太は純希に言った。

 「とくにお前が喋らないと心配になる」


 純希も健と同じ言葉を返した。

 「心配しなくても、俺も元気だから大丈夫だ」


 (衰弱した理沙を見なくても斗真はカラクリを解いている。たしかにカラクリの答えに大きく関係したヒントではないのかもしれない。でも……あやふやにしていいんだろうか……)


 いましがた類に勇気を与えた明彦の心にも不安があった。

 (俺は囁きに支配されているわけじゃない……。けど……純希に言ったほうがいいってわかってるのに、言いたくない……)


 純希は明彦に目をやった。

 (疑いすぎか? 明彦もみんなも……ひょっとしたら、まともなのは俺だけ? それなのに水面には何も見えなかった。俺には囁きが聞こえていない。由香里も斗真も答えに気づいた時点で、そっと教えてほしかった。俺になら理解できたと思うのに……)


 いましがた衰弱した理沙が見えないことへの不安を抱えていた類は、ふと思い出す。長所も短所も単純なところだ。

 「あ、そうだった。そういえば、椰子の実を収獲したんだ」


 斗真と由香里を捜す一同は、まさか食糧が手に入るとは思わなかったので、歓喜の声を上げた。

 「やった!」嬉しそうに言う綾香。「でも、どうして椰子の実を?」


 類は説明する。

 「うまい具合に椰子の木に雷が落ちて倒木になったんだ。だから手に入ったんだ」


 綾香は目を輝かせた。

 「ラッキーだったね! 何個あるの?」


 類は答える。

 「二個だよ。それしかリュックに入らなかった」


 分け合って食べるには少ない。綾香の笑顔が曇る。

 「たったの二個……」

 

 「お前らで食べろよ。俺ら食べたから」


 「食べた? 何個?」


 「明彦と純希が二個。俺は四個だ」


 「そんなに食べたの? 美味しかった?」


 「え?」類は、綾香の態度が変わったので戸惑う。「美味かったけど……」


 「そりゃ美味いよな、ひとりで四個も食ったんだから」翔太が類の首に組みついた。「リュックサックに入らなきゃ手で持とうよ」


 「何言ってるんだよ! 重いだろ! 無茶言うなよ! ブーイングするのは勝手だけど、二個だけでも感謝しろよな」


 不満そうな翔太。

 「たったの二個じゃん」


 綾香も不満そうに言う。

 「そうだよ。一個食べたかった」


 「でも、ないよりは嬉しいよ」と、類に言った美紅が訊く。「それより、予定どおり浜辺に到着できるの?」


 類は答える。

 「たぶん大丈夫」


 美紅は言った。

 「じゃあ、うちらは浜辺で待ってるよ」


 「うん」類は笑みを浮かべる。「浜辺どの辺りに出られるのかわからないから少しうろうろすると思うけどね」


 美紅は微笑んだ。

 「やっとリアルにみんなに会える」


 結菜が明彦に言った。

 「気をつけて帰ってきてね」


 明彦は微笑んで返事した。

 「ありがとう」


 翔太は純希に目をやった。そして先ほどと同じ質問をした。

 「さっきから大人しいけど具合でも悪いの? 本当に大丈夫?」


 純希は返事した。

 「大丈夫……」

 (信じていいのか? どうなんだろう……誰を信じればいい?)


 純希は理沙に時間を訊いた。

 《何時?》


 理沙はスマートフォンを鏡に向けた。

 「はい」


 <8月6日 日曜日 17:39>


 現実世界の時間は進んでいる。島では八月一日のまま。それは十三人の止まった年齢を意味しており、進む時間は島の時間だ。それらは幽霊からのメッセージだとまなみは言った。


 どういう意味だろう……。


 なぜ、彼らがスマートフォンにメッセージを? どうやってそんなことができる? 


 たまたま墜落時間に死ぬ予定だったひとたちが旅客機に集められた、彼らはゲームの一部なんじゃないのか?。


 そもそも、なぜカラクリの答えを知っているのか……。


 一部始終を見ていたからといって答えがわかるはずもない……。


 まさか、『ネバーランド 海外』から事前に聞かされていた? 旅客機が墜落することを知っていて自ら捨て駒になった? じつは自殺願望者の集まりだった? 


 だとしたら……俺たち十三人を妬むはずがない。


 あいつらはいったいなんのために化けて出てきた?


 「もういい?」と、理沙はスマートフォンの画面を鏡に向けたまま訊く。


 鏡に息を吐きかけた純希はお礼を書く。

 《ありがとう》


 真剣な面持ちの類が、純希が考えていた内容と同じ疑問を口にした。

 「ところで……幽霊はどうして俺たちの前に現れたんだろう?」


 だが、いまの類たちと話し合っても意味がないので、純希は返事しなかった。


 道子がぽつりと言った。

 「助けたいって言ってたけど……正直、怖いよね。どこからどこまでが本当なのかわからない……」


 「だよね。あたしもそう思う」と、道子に返事した綾香が、明彦に訊いてみた。「幽霊が言い残したヒント “手の感触と温もりが真実の中にある現実そのもの” 。あれは考えなくてもいいのかな?」


 明彦は、一呼吸置いてうなずいた。

 「それも衰弱した理沙が見えるのと同じで、事情が複雑になるだけだから、俺はもう考えないことにした」


 綾香は明彦に疑いの目を向けた。

 「そうなんだ……」

 (やっぱりね……思ったとおりまともじゃない……)


 綾香の質問に対する明彦の返事に純希は驚いた。いつもの明彦なら絶対に考えている。あんなにも追究していたのに……みんな……何かがおかしい。

 「俺は考えたほうがいいと思うけど……」


 明彦の考えはかわらない。

 「言っただろ? 無駄は省こう」


 純希は、明彦に囁きが聞こえていると確信した。

 (やっぱり、いつもとちがう……)


 健が純希に話しかけた。

 「座りっぱなしだと床が痛くてケツが痛いよ。少し廊下を歩きたいんだけどつきあってよ」


 健も一同に不安を感じているとわかった純希は、明彦に顔を向けた。

 「健につきあうわ」


 明彦は返事した。

 「ああ、いってらっしゃい」


 思ったよりも簡単に許可してくれたので、純希と健は腰を上げ、廊下に意識を集中させた。




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