【37】目の錯覚

 雨が降りしきるジャングル―――


 ずぶ濡れで斗真と由香里を捜す一同は、大声でふたりの名前を呼び続けたが、どれだけ声を張り上げても返事はない。


 「斗真! 由香里!」必死な綾香。「絶対にいるはずよ……」


 あの世に連れて逝くことだけが幽霊の目的なら、自分たちは腕を掴まれたときに連れて逝かれていた。彼らの目的はいったい何なのか。当然、明彦たちも考えているとは思うけど……。


 あたしたちを助けたい……腕についた指の跡と幽霊の手の感触、そして魂の温もりが、真実の中にある現実そのもの……。


 謎のひとつひとつが複雑なのに、余計に頭が混乱する言葉を言い残して幽霊は消えた。


 共通点があると言えるのは、水面、コップ、容器、衰弱して見える理沙。この四つだ。理沙が衰弱して見えるように、水面やコップそして容器にも何かが見えるはずなのに、いまのあたしたちには見えない。


 なぜ、あたしたちに見れないの? 


 由香里は衰弱している理沙の姿を目にしたあと、水面とコップと容器を見て取り乱した。そろそろ、自分たちにも見えてもいいころなのに。


 だけど……それらがどうしてカラクリの答えと繋がるんだろう?


 明彦たちはどう考えているのだろうか……。


 由香里も斗真も何をきっかけにカラクリを解いたのか……。


 答えはひとつ……ひとつにまとめようがないのにひとつ……。


 幽霊の手の感触と魂の温もり、それが真実の中にある現実。あたしたちの身に起きたことも考えればわかる……。


 飛行機が墜落してからずっとこの島。それが現実。そしてあたしたちの身に起きたことだ。


 駄目だ……意味不明……わからない……。

 

 最悪の脱出推理ツアーだ。


 「おい」と、健が綾香を呼んだ。

 

 考えごとをしていた綾香は返事した。

 「何?」


 「どうしたんだよ、また難しい顔して」


 「カラクリについて考えてたの。それからふたりの行方とかね。つい自分の世界に入っちゃって」


 「墜落現場には大破した機体と乗客の死体があるだけだ。それなのに、そこに何が隠されているのか見当もつかない」


 「理沙がひどく衰弱して見えたのと同じ。カラクリが解けた瞬間、何かが見えるはずよ」


 綾香と健の会話を聞いて、はっとした結菜が一同に言った。

 「明彦たちが浜辺に到着したら、こんどは全員で墜落現場に向かったほうがいいよね? 三人が出発したときとは明らかに状況がちがう。あのときはコップや容器に何かが見えるとか、理沙が衰弱して見えるとかなかったじゃん」


 綾香は結菜の言いたいことを理解した。

 「三人が墜落現場で答えを確認したら、学校で聞けばいいって考えていたけど、自ら墜落現場に行って答え合わせをするべきかもね」


 「ああ、なるほどね」健も納得する。「答えを聞いただけだと、墜落現場にある答えが見えるかどうかわからないよな。見えない場合は、答えを理解していないってことになるからゲートも見えない」


 綾香は健に言った。

 「それこそが由香里と小夜子が言っていた、ひとりひとりが理解しないと意味がないっていう理由なのかもね」


 道子が重苦しいため息をついた。

 「墜落現場かぁ……。死体、腐ってるだろうね……」


 旅客機の墜落現場を想像した恵が顔を強張らせた。

 「すごいことになってそう。見るのが怖い。いやだなぁ」


 美紅がふたりに言った。

 「しかたないよ。現実世界に帰るためだもの」


 健は唇を結んでうつむいた。生前と変わらぬ姿で現れた幽霊になったまなみ。旅客機の墜落現場に戻れば、まなみの腐敗した死体を見なければならない。なるべくなら見たくない。

 

 健の気持ちに気づいた翔太は声をかけた。

 「大丈夫か?」


 「平気だよ」顔を上げた健は、翔太に返事した。「ふたりを捜し出して類たちと合流したら、すぐに墜落現場に向かおう。それまでに答えを考えないとな」


 健の言葉にうなずく翔太。

 「そうだな」


 「頑張らないとね」と言った綾香が、スマートフォンの画面を見て時間を確認した。


 <8月1日 火曜日 14:48> 


 「スマホ、貸して」と、道子が綾香に手を伸ばした。


 「いいけど、何するの?」と、綾香は道子にスマートフォンを差し出す。


 「何ってことはないけど……」


 スマートフォンを受け取った道子は、自宅の電話番号をタップした。スマートフォンを耳に当ててもこの島は圏外だ。


 (通じるわけないよね。何やってるんだろう、あたし)


 「あたしたちは絶対に帰れるから」綾香は言った。「なんとかなる、大丈夫」


 家に帰りたい。鏡の世界ではなく、現実の学校の廊下を歩きたい。心身ともに疲れた。

 「マジでなんとかしたいけど、雨が降るたびにうんざりする」


 綾香も道子と同じ気持ちだ。だが、弱音を吐くとこの状況に負けてしまいそうなので気丈に振る舞う。

 「あたしもだよ。飲み水があるだけマシだって思うようにしてる」


 健が言った。

 「少し休もう。ずっと歩きっぱなしだから休憩が必要だ」


 綾香もそろそろ座りたいので賛成した。

 「そうしようか」


 ここから洞窟は近い。休憩をとることにした一同は、そちらへ歩き始めた。その直後、泥濘に足をとられた結菜が転倒した。人生初の海外旅行のために購入した可愛い下着が泥まみれだ。いまさら気にしてもしかたないが、奮発して買った意味がなかった。安物でじゅうぶんだった。なんのためにブランド物の下着を購入したのか……馬鹿みたいだ、とため息をついた。


 (明彦と初めてのエッチしたんだよね。そう思えばこの下着にも価値があったのかな……)


 健が手を差し出した。

 「大丈夫? ヒールが高いから足元に気をつけて」


 結菜は健の手を取った。

 「ありがとう」


 結菜が立ち上がると、一同はふたたび歩を進めた。足元には虫の死骸や落ち葉が落ちている。それらを踏むと、現実世界のように形が崩れた。だが、大地に根を下ろした下草を踏んでも、すぐに元の形状を取り戻す。歩を進めるたびに、その繰り返しだ。


 ずぶ濡れの一同は、無言で歩き続けた。樹木に覆われた茂みを掻き分け、洞窟の入り口を潜り、薄暗い内部に足を踏み入れた。天井から雨水が滴るだけで厳しい環境とは無縁の洞窟は、由香里と斗真さえいてくれたら落ち着ける場所なのに……と思いながら大地に腰を下ろした。


 「死神の目的はなんなんだろう……」結菜が言った。「あたしたちが苦しむ様子を見て楽しんでいるのかな? 超悪趣味だよ」


 恵が言った。

 「小夜子や幽霊との遭遇に引き続き、死神ともばったり会ったりしてね」


 「やめてよ」結菜は苦笑いする。「乗客の幽霊だけでも気味が悪いのに、死神にまで会いたくないよ」


 「なぁ……」ふたりの会話を聞いて、光流の顔色が変わる。「由香里と斗真……死神に拉致された可能性もあるんじゃないのか?」


 恵は顔を強張らせた。

 「まさか……」


 綾香が、光流の意見に疑問を感じた。

 「もしそうなら悲鳴も出さずに拉致されたってことになる。由香里とうちらがいた場所は互いに姿は見えなくても、悲鳴を上げればすぐに聞こえる距離だよ。それなのに助けを求める声すらなかった」


 道子が言った。

 「亡くなった親しい知り合いに化けて近づかれたら、懐かしさに油断しちゃうかもね。由香里にたとえたら、大好きなお婆ちゃんとか」

 

 綾香は道子に言う。

 「それこそ考えすぎ」


 光流は道子に訊いた。

 「大好きなお婆ちゃんって?」


 「由香里の死んだお婆ちゃんだよ」道子は教えた。「子供のころ階段から落ちて意識不明になったの。そのとき、天国にいるお婆ちゃんに会ったんだって」


 光流は目を見開いて言った。

 「へぇ、臨床体験。それはすごい」

 

 翔太が光流に言った。

 「呑気に納得してるけど、お前のたとえ話が本当なら大変だぞ。幽霊に連れて逝かれるのも死神に連れて逝かれるのも同じだ」


 光流は言った。

 「だって、必死に捜してもどこにもいないから、最悪なことを想像しちゃったよ」


 翔太は注意する。

 「ネガティブな方向に考えすぎるのはよくないぞ」


 考え込む性格はすぐには治らない。

 「わかってるよ……」


 健が言った。

 「俺はありえないと思うけどね。あの世に連れて逝くことが目的のゲームなら、カラクリに関係なく亡き者に化けた死神が俺たちの前にも現れてるはずだ」


 綾香も同感だ。

 「言えてる。あたしもそう思う。光流と道子の考えすぎ」


 光流と道子は顔を見合わせた。そして光流が言った。

 「いまの発言は却下。忘れてくれ」


 綾香は光流に言った。

 「綺麗さっぱり忘れることにするよ」


 話を切り上げた直後、雨音が消えた。雨が止んだようだ。天井に開いた穴を見上げると鈍色の空が見えた。曇りだ。外を歩くには最適だ。


 健が言った。

 「あいつらとの集合時間まで捜そう」


 腰を上げた一同は歩を進めて洞窟の外に出た。植物の葉を掻き分け、下草が茂った場所に立った。そのとき、足を滑らせた美紅が転倒した。

 「いったぁ」


 綾香が声をかけた。

 「大丈夫? 気をつけないとまた転んじゃうよ」


 「うん」美紅は水溜りを覗いてみた。「ふつうの水面……」


 綾香も水溜りに視線を下ろした。

 「何度も確認したけど、あたしにも何も見えない」


 「だよね……」水面を見つめる美紅は、違和感を覚えた。「あれ?」


 「どうかした?」


 美紅は首を傾げて水面を凝視するも、違和感の原因がわからなかったので、気のせいだと思い込む。

 「なんでもない」


 綾香は手を差し出した。

 「そのうち何か見えるはず」


 顔を上げて綾香の手を取ろうとしたとき、木陰に女の子の影が見えたような気がした。由香里かと思った美紅は、目を凝らしてじっと見つめた。だが、目に映るのは緑色の景色だけ。誰もなかった。疲労による目の錯覚だろう。


 美紅は綾香の手を取った。

 「ありがとう」


 「あたしも転んだからひとのことは言えないけど気をつけてね」綾香は美紅に言ってから、女子全員に言った。「みんなのサンダルはヒールが高いから捻挫したら大変だよ。足元に注意して」


 道子が返事した。

 「わかってるよ。もう転ばないように気をつけてるもん」


 恵が言った。

 「今後の人生でこれだけ足場の悪い道を歩くことはないだろうね」


 暗い顔で道子は言った。

 「言えてる。ついでに言うと飛行機に乗ることもないと思う」


 恵も乗りたくない。

 「飛行機か……あたしも無理」


 一同は歩き始めた。いましがた見えた人影が気になった美紅は、確認のために首を巡らせた。誰もいない。やはり、目の錯覚だったようだ。


 綾香が美紅に訊いた。

 「どうしたの? きょろきょろして」


 美紅は言った。

 「女の子みたいな人影が見えたから由香里かと思ったんだけど、気のせいだったみたい」


 綾香も後方を見る。

 「まさか、また幽霊じゃないよね?」


 「ちがう。あたしのかんちがいだよ」


 「それならいいけど」

 

 綾香と美紅は、気にせず歩を進めた。

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