【28】幽霊からのメッセージ

  流木に腰を下ろす綾香は、鈍色の雲が広がる空を見つめた。


 由香里はどこにもいない。


 いったいどこに行ってしまったのか。


 自分たちには見えないゲートを通って現実世界に帰ってしまったのだろうか……。


 だとすれば、旅客機の墜落現場へひとりで向かったことになる。それも短時間で。校内にいるときのようにワープでもしないかぎり不可能だ。


 綾香は、空から一同に目を転じた。


 全員がいつもどおりの表情だ。それなのに、カラクリについて真剣に話し合おうとするたびに態度が変わる。だが、綾香も囁き声に反発するたびに、頭痛を感じていた。ときどき顔を歪めている健も頭痛に耐えているはずだ。


 囁き声が聞こえる理由を突き止めたいところだが、謎が明らかになればすべてわかることだ。しかし、肝心な謎が明らかになる日は遠い。お腹も空いた。


 由香里はあたしたちを見捨てたのだろうか……。


 いまごろ東京でパフェでも食べているんじゃないだろうか……。


 由香里はあたしたちを裏切ったの?


 そんなことない! 由香里が裏切るはずない!


 綾香は頭をよぎった不安を払拭して、スマートフォンの画面に視線を下ろした。


 <8月1日 火曜日 15:25>


 日付は相変わらず出航日で止まっている。この島に流れる時間は進んでも、自分たちの年齢は十七歳のまま。


 ツアー会社の名前が『ネバーランド 海外』だから『ピーターパン』と重ねてしまって、そう思い込んでしまっただけなのだろうか……。

 

 いや……ちがう……。


 表示された日付が止まっていることに気づいたあのとき、旅行会社が関係していようがいまいが、自分たちの年齢が止まってしまったような気がした。


 でもなぜか、明彦でさえ、それを追究しようとはしなかった。


 もしかしたら、あの時点でカラクリの答えに恐怖を感じていたのかもしれない。


 それなら、年齢が止まってしまった謎も追究しなくてはならない。


 スマートフォンの画面を見つめている綾香に結菜が言った。

 「明彦たちと落ち合う時間まで由香里を捜そうよ」


 「そうだね」綾香は返事した。「もう一度、ジャングルを捜してみよう」


 綾香が流木から腰を上げると、一同も腰を上げた。


 健が綾香に顔を向けた。

 「よし、行こう」


 綾香は返事する。

 「うん」


 一同は靴に足をとおした。由香里が失踪した直後は靴を履く余裕はなかったが、ジャングルの大地には危険が潜んでいるので念のために靴を履く。準備が整った一同は歩を進めた。砂浜から湿った固い大地のジャングルへ移動し、霞がかった周囲を見回した。やはり、由香里の姿はない。名前を呼びながら歩を進めると、突然、前方にまなみが現れた。驚いた一同は後退る。


 「まなみちゃん……」健が話しかけた。「由香里の居場所を教えてほしい。本当は知ってるんだろ?」


 健の問いかけに答えないまなみに、綾香が声を張った。

 「小夜子のこともカラクリのことも知っていたって、明彦から聞いてる! どうせあたしたちの会話を隠れて聞いていただけなんだろうけどね! でも、本当に全部知ってるなら、あたしたちよりも島について詳しいよね!」


 健以外は、綾香の言葉に驚愕した。


 結菜が綾香に訊く。

 「小夜子のことまで知ってたの?」


 いまのみんなは、囁きに支配されている。詳しく説明したところで意味はない。綾香は、結菜の質問には答えずにスマートフォンの画面をまなみに向けた。


 「一部始終を見ていたなら年齢についても知ってるんじゃないの? あたしたちはこの島にいるかぎり十七歳のままなの? スマホに表示された日付と時間が関係してるんじゃないの? もしそうなら、なぜなの? どうなの? 答えて!」


 まなみは静かな声で言った。

 「あなたたちの推理したとおり、スマートフォンの時間は、この島に流れる時間。止まった日付は、あなたたちの年齢。そしてそれは、あたしたち死者からのメッセージ。もう気づいてもいいころよ。いいえ……本当は気づいているはず……あなたなら……」


 綾香は訝し気な表情を浮かべた。

 「死者からのメッセージ? どういう意味?」


 まなみは綾香を見据えた。

 「たとえ百年滞在しても、あなたたちはいまと変わらない。十七歳のまま。思い込みの空腹が頭を混乱させているだけ……」


 木陰から男が出てきた。

 「本当に空腹を感じているのか?」


 怖くなった綾香は、身を強張らせた。

 「当たり前でしょ。ほとんど何も食べてないんだから。汗だってかくし喉も渇く」


 男は綾香に質問を続けた。

 「本当に汗をかいているのか?」


 綾香は言う。

 「馬鹿げてる……かくに決まってるでしょ。炎天下を歩けば汗だくよ。全部見ていたならわかってるはず」


 斗真が小声で言った。

 「幽霊は何が言いたいんだ?」


 「さぁな……」斗真に返事した健が、男に訊く。「俺たちにわかるように説明してくれないか?」


 男は言う。

 「君たちを助けたい―――」


 健と綾香は驚いた。

 

 (助けたい? 明彦と純希から聞いた話と同じだ。だけど、連れて逝こうとしているようにしか思えない……)


 まなみは健に手を差し出した。

 「さぁ……あたしの手を取るの。真実はあたしの手の中にある。あたしの手を取って―――真実の中に現実がある―――」


 まなみと男の背後に、大勢の乗客の幽霊が現れた。霧がかった周囲の光景が不気味さに拍車をかける。


 「あたしたちを助けたいだなんて嘘だ!」綾香は一同に声を張った。「逃げないと連れて逝かれる! 逃げて!」


 一同は一目散に逃げた。幸い浜辺に近かったので、すぐに退散できた。一同は、後方を見て幽霊を確認した。やはり、ここまでは追ってこないようだ。前屈みで息を整え、乱れた気持ちを落ち着かせた。


 光流が綾香に訊く。

 「スマートフォンの画面表示は、あいつら死者からのメッセージって本当だと思う?」


 綾香は否定する。

 「訊いたあたしが馬鹿だった。死者からのメッセージだなんて、意味がわからない。だいたいにそんなことできるわけないじゃん。それにあいつらの目を見たでしょ? 殺意しか感じなかった」


 光流は周囲を見回した。

 「早くあの世に逝けばいいのに……どうして俺たちを見張っているんだろう?」


 綾香は言った。

 「あたしたちを道連れにしたいから、あいつらを見ているとそれしか考えられない」


 光流が言った。

 「道連れ……。やっぱり、そうだよな」


 恵が言った。

 「この世に未練があるから、生存者のあたしたちを妬んでる。あいつら、あたしたちを連れて逝くまでは、意地でも成仏しないつもりだよ」


 綾香は重苦しいため息をついた。

 「由香里……どこにいるの? こんなに心配してるのに……」

 

 腕時計を確認した斗真が言った。

 「あと五分で時間だ」


 綾香は背後が気になった。

 「ここは気分的によくないかな……。ベンチに戻って学校に行こう」


 場所を離れた一同は流木に腰を下ろし、倉庫に意識を移動させた。すぐに外気の変化を感じて目を開けた。類たちはまだ来ていない。

 

 (明彦と純希は、囁きと心の不安を類に説明できたのだろうか? あたしと健は、その機会を窺ったけどけっきょく言えずじまい。ここでのミーティングが終わったら、みんなに説明しないと、いつまでたっても先に進めない)


 綾香は、理沙に到着を知らせるために鏡に顔を向けた。その瞬間、信じ難い光景が双眸に映った。正午にここに訪れたときは、いつもどおりの理沙だった。それなのに、いまにも倒れそうなくらいに衰弱して見えたのだ。室内も異様に暑い。これでは熱中症になってしまう。だが、まばたきをすると、いつもの理沙に戻っていた。


 驚いた綾香は、ゆっくりと屈んだ。そして理沙を顔をまじまじと見つめた。

 「何? いまの……」


 健が綾香の耳元で小声で訊いた。

 「ひょっとして、見えた?」


 綾香は動揺しながら返事した。

 「う……うん」

 (これは幻覚じゃない。ガチだ……)


 健は息を吐きかけ、鏡に文字を書いた。

 《おまたせ》


 理沙は笑みを浮かべた。

 「その字は健。正午に見たからもう覚えたの。類よりは上手だけど、特徴的だったから。悪いことはできないね」


 健は微笑みながら鏡に息を吐きかけて、返事を書く。

 《いい子だから大丈夫》


 そのとき、類たち三人が現れた。類はすぐに鏡に息を吐きかけて《来たよ》と到着を知らせた。だが、類の笑顔とは対照的に、明彦と純希の顔に笑みはなかった。


 健が、綾香にも衰弱した理沙が見えた、ということを間接的にふたりに伝えた。

 「おつかれ。仲間がひとり増えた」


 健の言いたいことがわかったふたりはうなずいた。

 (ついに綾香にも……)


 結菜が明彦に訊く。

 「おつかれ、明彦。なんの仲間が増えたの?」


 こちら側に来てほしい。だが、いまの結菜は、囁きと恐怖心に負けてしまっている。

 「疲労困憊の仲間」


 結菜は苦笑いする。

 「そんなのあたしだって同じだよ」


 「ところで……」浜辺で待機している一同の中に由香里の姿が見えないので、明彦は訊いた。「まだ見つからないんだ」


 一同の表情は暗い。結菜は首を横に振る。

 「どれだけ捜してもいないの」

 

 明彦は深刻な表情を浮かべた。

 「本当にどこに行ったんだろう……」


 「三十分ほど前に由香里を捜しにジャングルに入ったときのことなんだけど……」翔太が話の途中で、理沙と楽しそうにやりとりしている類に目をやった。「真剣な話なんだ。集中してほしいかな」


 「あ、ごめん」類は、翔太に顔を向けた。「つい」


 綾香と健は、翔太に目を向けた。


 いつもどおりの翔太だ……。自分たちの体に起きた異変を確かめるために、海に飛び込んで無茶をした。いまもカラクリに真剣だ。 


 それなのに、囁きが原因でカラクリに恐怖心をいだくようになり、本来やるべきことではなく、真逆の言動をとるようになる。囁き声が聞こえる理由はわからないが、早くいつものみんなに戻ってもらわないと先に進めない。


 中断した話の続きを聞きたい明彦は、翔太に訊く。

 「で……ジャングルでどうかしたのか? また幽霊が出たとか言わないよな?」


 「そのとおり」翔太は、類を注意するために中断した話の続きをする。「俺たちを助けたいって言ってきたわりに、目の中は殺意に満ちていた」


 「そっちもか……」

 (俺たちも幽霊に同じことを言われた。翔太が言うように殺意に満ちた目をしていた。人助けをするような目つきじゃなった。やっぱり、俺たちを道連れにしようとしているだけなのだろうか?)


 綾香が言った。

 「なんでもお見通しってかんじだったから、試しにあたしたちの年齢についても訊いてみたの」


 明彦は訊く。

 「どうして俺たちが十七歳のままなのかはっきりしたのか?」


 綾香は首を横に振る。

 「死者からのメッセージだって言ってたけど……訊いたあたしが馬鹿だった」


 明彦は訝し気な表情を浮かべた。

 「死者からのメッセージ? どういう意味?」


 綾香にもわからない。

 「さぁ?」


 健が言った。

 「俺たちを連れて逝こうとしているのは確かだ。だけど……あいつらの言っていることのすべてが、本当にでたらめなのかなって思うんだ」


 同じ意見の明彦は、健に言った。

 「俺もそれは考えた。でも、追及しても具体的なことは何も教えてくれない」


 健はうつむいた。

 「由香里もそうだったな、何も教えてくれなかった……」


 綾香は真剣な面持ちで言った。

 「由香里は本当にカラクリを解いたのか、それともちがうのか……。ずっとそればかり考えてる……」


 明彦は綾香に訊く。

 「由香里の行方は見当もつかないんだろ?」


 綾香は明彦に言う。

 「うん。だから困ってる」


 「そうだよな」


 「明彦たちは浜辺に引き返しているんだよね?」


 「あすの夕方には浜辺に到着すると思う。だけど、みんなが待機している場所に辿り着けるわけじゃないから、合流するのに少し時間がかかる」


 「わかったよ」


 心配そうな表情を浮かべた結菜が、明彦に言った。

 「また迷わないように慎重にね」


 「大丈夫、わかってるよ」結菜に微笑んだ明彦は、一同に言った。「みんな、今夜のミーティングは別々にしよう」


 類が明彦に理由を訊いた。

 「どうして?」


 理沙が衰弱して見える自分たちとみんなは明らかにちがう。みんなには囁き声が聞こえているはず―――


 囁き声に関して類に伝えたあと、強引に進む方向を変えた。それは二対一だったからできたのだ。囁き声に打ち勝つには、強い精神力が必要。綾香と健は、七人を相手にどのようにして伝えるのか……。


 「理沙が衰弱して見える俺たちと、いつもの理沙にしか見えない類たちのあいだには、なんらかのちがいがあるはずなんだ。いまみんなと一緒に話し合っても、意見がくいちがうだけだと思から」


 「なるほどね、わかったよ」類は返事した。「俺らも由香里を捜すために知恵を出し合うよ」


 「ありがとう」明彦は反対されなくてよかったと安心する。「じゃあ、またあとで」


 綾香、健、純希は、明彦に歩み寄った。意識を集中させて自分たちの教室にワープした。


 四人は整然と並んだ机の上に腰を下ろした。そのとき、引き戸がひとりでに閉じた。現実世界の生徒が教室から出ていったのだろう。


 四人は窓の外に広がる景色に目をやった。見慣れた東京都の光景が広がる。眺めても虚しくなるだけだ、とため息をついたそのとき、わずかに開いた窓に気づいた。


 綾香は窓に歩み寄り、外の世界に手を出そうとした。だが、昇降口のドアと同じように弾き返されてしまう。指一本たりとも校外に出せない。ここは学校と鏡に閉じ込められた世界だ。諦めた綾香は、ふたたび机に腰を下ろした。


 「倉庫で見てわかったと思うけど、囁きのことをみんなに伝えられなかった。タイミングを見計らって打ち明けないとね。でもなんだか怖くて……」苦笑いする。「友達に怖いって言うのもへんだけどね」


 健が言った。

 「大袈裟かもしれないけど、俺と綾香を殴れって命令を囁かれたら、みんなはどうするんだろう……とか、そんなことを考えたら不安で言えなかった」


 純希はふたりの気持ちを考える。

 「逆の立場だったら俺でも躊躇ったよ」


 明彦は、健と綾香に真剣に言った。

 「ジャングルで類に打ち明けたとき、あいつ背中に何かを隠したんだ。もしかしたら俺たちを傷つけようとしたのかもしれない。わからないけど、いいかんじはしなかった」


 健と綾香は動揺した。綾香は信じたくない。

 「そんな……類にかぎって……」


 明彦は言った。

 「情に厚いあいつがって思いたいけど……類が一番重症のような気がする」


 純希は深刻な表情を浮かべた。

 「きな臭くなってきたよな」


 健が疑問を言った。

 「小夜子の頭の中にも、本来の自分と真逆の言動をとるもうひとりの自分の囁き声が聞こえていたのかな?」

 

 「さぁ……」明彦は首を傾げる。「類からは聞いてないけど」


 純希も健に言う。

 「俺も何も聞いてない。てゆうか、いま訊いたところでまともな返事はないと思うよ」


 質問の答えがわからずじまいの健。

 「絶対に嘘つくよな……」


 純希は疑問を口にする。

 「だけど、三十年前の展開とちがう点がいくつもあると、小夜子の時代とはちがうのかなって考えちゃうよな。たとえ結末が同じでも途中経過がちがいすぎる」


 綾香が言った。

 「漂流物や幽霊の出没も含めて三十年前と異なる。続編なんだと考えれば当たり前なのかもしれないけど、もしそうならゲームは別物だし、いままでしてきた推理のすべてが無駄になってしまう。そのことで頭を悩ませていたときに囁き声が聞こえたの。無駄にするべきだ、無駄にしたほうがいいって……」


 純希は言った。

 「ということは、無駄にするべきじゃないってことだよな」


 綾香も言う。

 「真逆に考えればね」


 明彦は胸の前で腕を組んで考える。

 「この島のすべての謎は、ひとつの共通点に繋がっている。それがカラクリの答えを解くために必要なキーワードだ。このキーワードに気づいた由香里は、ガチでカラクリを解いたんだ。そのあと、なぜか忽然と消えた」


 「由香里はキーワードにいつ気づいたんだろう……」と、ため息を綾香はぽつりと言った。


 島の謎の共通点を “キーワード” と言った明彦にに続いて、綾香も同じ言葉を使った。このときから島の共通点をキーワードと呼ぶようになった。


 明彦は真剣な表情で肝心な話を切り出した。

 「俺がミーティングを別にしたのにはわけがあるんだ。一番最初に理沙がゾンビみたいだと言ったのは由香里だ。そのあとカラクリの答えに気づいて姿を消した。

 もし、この中で誰かがカラクリの答えに気づいたときには、理解できないと勝手に判断しないでほしい。たとえ答えを理解できなくてもみんなで考えればいい。必ず教えてくれ。それを言いたかったんだ」


 三人はうなずいた。そして綾香が明彦に言った。

 「明彦もね」


 明彦も約束する。

 「もちろんだ。これから先、隠しごとはいっさいなしだ」

 

 純希が不安を口にした。

 「あのさ……カラクリの答えが解けた瞬間、体が消えちゃうとか、超怖いオチじゃないよな?」


 明彦が否定した。

 「ゲートを通り抜けて現実世界に帰ることがゴールなんだ。それはないだろ?」


 「だよな、それならいいんだ」純希は、綾香と健に言った。「由香里も心配だけど、お前らも心配だ。囁きや心の不安をいまみんなに打ち明けたほうがいいと思う。浜辺で話すとなれば七対二になっちゃうじゃん。心配だよ」


 だが、明彦は純希の意見に反対する。

 「俺はやめたほうがいいと思う。襲ってきた場合、校内だとワープが可能だから逃げ場がたくさんある。だけど、肝心な肉体は浜辺なんだ。それも眠りに落ちた無防備な肉体だ。誰かが浜辺に意識を移動させたらって考えると怖くないか?」


 顔を強張らせた純希。

 「考えすぎじゃね?」


 綾香も明彦に言った。

 「そうだよ。だって、それって……ガチであたしたちを殺そうとしてることじゃん」


 明彦は真剣だ。

 「いや……殺さなくても傷つけることならできる」


 明彦には大袈裟なところがある。それでも自分たちが置かれている状況を考えれば慎重に行動するべきだ。綾香は不安を感じた。

 「友達なのに……どうして……」


 「とにかく、いまは油断大敵だ」明彦は机から腰を上げた。「そろそろ戻ろう。怪しまれる」


 綾香も腰を上げた。

 「そうだね」


 目を瞑って倉庫に意識を集中させると、一同の話し声が聞こえた。四人は、同じタイミングで理沙に目をやった。辛うじて受け答えする理沙の姿が痛々しく思えた。


 時間ごとに衰弱しているように見える。室温も異様に高い。だが、まばたきをするといつもどおりの理沙に戻っていた。室温も適温だ。


 純希がぽつりと呟く。

 「理沙は大丈夫なんだろうか……」


 類が純希の呟きに返事した。

 「見てのとおりずっと元気だよ。またゾンビにでも見えた?」


 いまの類に何を言っても無駄なので、純希は返事しなかった。

 

 綾香が理沙に訊いてみる。

 《体調は?》


 理沙は、笑みを浮かべた。

 「体調? 元気だよ。この字は綾香ね」


 《そうだよ》


 「体調を気遣ってくれるのは嬉しいけど、あたしは綾香たちが心配だよ」


 理沙が衰弱して見えるのにも理由がある。鏡の向こう側にいるのは現実世界の理沙だ。その理沙が笑顔で元気だと言えば大丈夫なのだろう。現に体調がよさそうなので、たわいない会話をした。


 《あたしたちも元気 でもジャングルは暑いから かき氷がたべたいな》


 「あたしも。苺味がいい。綾香はメロンでしょ?」


 《うん》


 「子供のころからメロンが大好きだもんね」


 類も食べたいかき氷の味を書いた。

 《おれはブルーハワイ》


 理沙は微笑んだ。

 「去年の海水浴場を思い出すね」


 類はうつむいた。

 (胡散臭い無料ツアーなんかに登録しなきゃよかったんだ。今年も都内の海水浴場にしておけば、こんな目に遭わなかったのに……。みんなにも迷惑をかけたな)


 綾香は、類の表情から気持ちを察した。

 「現実世界に戻ったら理沙も一緒にキャンプしよ」

 (いまはいつもの類なのに……)


 「そうだな。現実世界の安全なキャンプだ」と綾香に言った類は、息を吐きかけて文字を書く。《今年も海に行くぞ!》


 理沙は目を輝かせた。

 「うん、行く! 楽しみにしてるね」


 類は綾香に言った。

 「現実世界にさっさと帰りたいよ。俺はカラクリの答えに恐怖なんて感じない。これ以上、理沙に心配かけたくないんだ。だから早くカラクリの答えが知りたいんだよ」


 囁きに支配されていたときは、早く答えが知りたいと思う自分と、不安や恐怖に駆られる自分がいた。そして、囁きには抵抗できなかった。囁きが聞こえている類の言葉を信じるわけにはいかない。明彦にも言われているように油断大敵だ。


 「あたしも早く答えが知りたい」と綾香は軽くあしらった。


 明彦は、壁にもたれて座っている結菜のところへ歩を進めた。

 「元気?」と話しかけてから、床に腰を下ろした。


 結菜は微笑みを返す。

 「正直、腹ペコ」

 (あたしは空腹なのに、あの幽霊は “本当に空腹なのか?” と訊いてきた。何が言いたかったのだろうか?)


 「俺もだよ」明彦は、真剣な眼差しで結菜の髪を撫でた。「結菜……」


 結菜は髪を撫でてきた明彦を見上げた。

 「どうしたの?」


 明彦は言った。

 「囁きに負けるなよ。不安に打ち勝つんだ。じゃないとこの島から脱出できない」


 結菜の顔から笑みが消えた。

 「ごめん……意味がわからない」


 「そっか……」

 (やっぱり、いつもの結菜とちがう。囁きが聞こえているんだろうな……)


 「そろそろ島に戻らなきゃ。ジャングルはすぐに暗くなるから、明るいうちに距離を稼いだほうがいいよ」


 「うん、そうだね」と結菜に返事した明彦は、純希と類に声をかけた。「戻ろう」


 純希が返事した。

 「そうするか」


 類は鏡に息を吐きかけて《また来る》と書いた。


 「待ってるね」理沙は笑みを浮かべた。「ずっと、待ってるからね」


 《あいしてるよ》


 理沙は嬉しそうな表情を浮かべた。

 「あたしも愛してる」


 明彦は、綾香と健に「気をつけろ」と小声で言ってから、結菜の顔を見た。

 

 いましがた冷たい表情を浮かべた結菜は、明彦と目が合うと「またあとでね」と、いつもどおり穏やかな様子で手を振ってきた。


 「うん」と、返事した明彦も手を振り返し、島に意識を移動させた。



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