【20】ゲームの駒

 外気に変化を感じたのと同時に目を開けると、倉庫の床が見えた。周囲には浜辺で待機している一同が立っており、理沙も鏡に両手をついて三人を待っていた。


 類は一同に謝った。

 「みんな遅れてごめん」


 綾香が言った。

 「心配したんだよ」


 「このとおり俺たちは元気だから大丈夫」と綾香に返事してから、浜辺で待機している全員に言った。「それより、話さなきゃいけないことがあるんだ。でも、その前にちょっと待って」


 進むべき道を逸れてしまうという大問題が起きた。それを説明する前に、類は理沙に到着を知らせた。

 《おまたせ》


 理沙は安堵の表情を浮かべた。

 「類! よかった。大丈夫なの?」


 現実世界に戻ったらすべてを打ち明けよう。理沙に心配かけたくないので、明るく振る舞った。

 《ちょっと遅れただけ》


 「それならいいけど」


 《ミーティングする》


 「うん。アプリでもして待ってる」


 本当に愛しくて可愛いと思った。いつでも逢いたいと思ったときに逢えたし、触れたいと思ったときに触れられた。でもいまはそれができない。目の前にいるのに抱きしめてあげることができない。

 《ごめんね》


 「いいんだよ、気にしないで」


 理沙の笑顔に癒された。

 《ありがとう》


 類は、浜辺で待機している一同に真剣な面持ちを向けた。大事なことを言おうとしているのだろうと察した一同は、三人の周囲を囲んで腰を下ろした。


 「問題発生って顔してる」斗真が訊く。「ジャングルで何かあったの?」


 ジャングルを歩く類たちの身に起きたできごとは、ひとことで言えるほど単純ではない。しかし、ひとことで事の重大さが伝わると考えた類は前置きを省いた。

 「道をまちがえた」


 類の言葉を理解した一同は動揺した。眠りに落ちれば簡単に校内で会える。だが、肉体は異なる場所だ。広大なジャングルでの遭難は深刻。


 斗真が類に訊いた。

 「どうするんだよ?」


 「墜落現場からわずかに道を逸れただけかもしれないし、とりあえず前に進んでる」


 「とりあえずって……引き返せないのか?」


 「少し歩いてみて無理だと思ったら引き返そうと思う」


 「大丈夫なのか?」


 「みんなが待っている場所に出られるかは微妙だけど、浜辺にさえ辿りつければ、時間がかかっても合流できるから心配しないで」


 「無茶するなよ」


 「うん」


 綾香が言った。

 「本当に大丈夫なの? むやみにうろうろするのはむしろ危険なんじゃない?」


 明彦が綾香に言った。

 「俺も余計に迷うんじゃないかって不安を感じた。でも、現実世界とちがって救助は望めないんだ。自分たちでやれるだけやってみないとね」


 不安げな綾香。

 「だからって強引に進んでも……」


 結菜も心配した。

 「そうだよ。浜辺に引き返したほうがいいって」


 「そんな顔しなくても大丈夫」明彦は結菜に微笑んだ。「三人で話し合って決めたんだ。墜落現場に答えがあるかぎり、またジャングルを歩くことになる。食べ物がないのに、これ以上の体力の消耗はかなりつらいから」


 結菜は、これほどまでに明彦の考えに不安を感じたことはなかった。

 「でも……」


 類が結菜に言った。

 「俺たちも馬鹿じゃない。駄目だと思ったら諦めるよ。だから心配しないで」


 結菜は言った。

 「心配するなって言われても心配しちゃうよ。あたしたちは浜辺で待つことしかできないんだから」


 光流が類に真剣に言った。

 「絶対に無茶はするなよ。ジャングルでの遭難はガチでヤバいんだからな」


 綾香も言う。

 「光流の言うとおりだよ」


 鬱蒼とした樹木に囲まれたジャングルで迷えば “ヤバい” ことくらいわかる。それでも進む理由は、たとえ浜辺に引き返したとしても、ふたたび旅客機の墜落現場を目指さなければならないからだ。


 それこそ純希が言った冗談のように、ジャングルナビでもあれば話は別だが、そんな便宜的なアイテムはここに存在しない。だからこそ浜辺に引き返すのも容易ではない。それなら行けるところまで行って駄目なら諦めようと考えていた。


 「わかってるよ」と光流と綾香に返事した類は続けた。「いまのは悪い知らせだ。それからもうひとつ、知らせなきゃいけないことがある」


 類が言った、 ‟知らせなきゃいけないこと” とは、生存者と死者とのちがいのことだ。明彦が類に目をやった。

 「あれか……」


 類は明彦と目を合わせた。

 「そう、あれだ」


 「あれって何?」由香里が笑みを浮かべた。「ひょっとしていい知らせでも?」


 類は言った。

 「そういうわけじゃないけど……」

 

 類の返事に由香里の笑顔が曇る。

 「なんだ、がっかり」


 「そのうちいい知らせができるよう頑張るよ」と由香里に言った類は、翔太に顔を向けた。「お前の話を真面目に聞かなくてごめんな」


 急に謝られても意味がわからないので、翔太は首を傾げた。

 「なんの話?」


 類は言った。

 「飛行機が墜落したのに、どうして俺たちだけが助かったのかって話だよ。それについてなんだけど」


 「ちょっと待って」と、道子が類の話を遮った。


 「何?」類は訊く。「どうしたの?」


 道子は話を中断させた理由を言う。

 「類たちと学校で会ったら話そうって言い合ってたんだけど、あたしたち十三人は単純にゲームの駒だった、それを言いたいんでしょ? ちがう?」


 そのとおりだ。なぜ閃いたのか……。驚いた類と明彦と純希は、目を見開いた。


 類は訊く。

 「そうだけど……でも、どうして?」


 翔太が答えた。

 「みんなで考えてやっと答えが出せたんだ。ずっと、十三人がゲームの駒としか思えなかった。でも、あのときは俺もうまく説明できなかったんだ」


 明彦が訊いた。

 「駒だった理由を納得できるように整理したのは誰?」


 翔太は綾香を指さした。

 「お前二号」


 明彦は苦笑いする。

 「俺二号ね」


 「その呼びかたやめてよね」綾香は翔太に言ってから、類たち三人に顔を向けた。「あたしたちにゲームを仕掛けたのは死神。それに注目して考えてみたの。死神なら、誰が何時何分に死ぬのか把握できていて当たり前。乗客はあの時間に死ぬ運命のひとたちだった。けど、あたしたちはちがう」


 道子は言った。

 「ゲームをさせる目的で飛行機に乗せられたあたしたちは、墜落時のみ不思議な力で守られていたのよ。だから大破した機体の中でも生きていられた」


 翔太は結論を言った。

 「でもいまはその不思議な力に守られていない。食糧と安全さえ確保できれば俺たちは不老かもしれないけど、決して不死身じゃない」


 綾香は真剣な想いを伝えた。

 「浜辺で日光浴しているわけじゃない。あたしたちもカラクリを解くために努力しているの」


 翔太は明彦に言った。

 「張り切って報告しようとしたのに、すでに解いていたなんて、さすが明彦だな」


 明彦は類に目をやった。

 「俺じゃないよ」


 類を見て翔太は驚く。

 「マジか、珍しい」


 類は言い返す。

 「珍しくてわるかったな」


 浜辺で知恵を絞る一同と、類たちの考えが一致した。旅客機の墜落時とは異なり、自分たちは不死身ではない。いまはもう不思議な力に守られていない。


 慎重に行動しなければ、乗客と同じ運命になる。だが、不死身ではないとわかったからといってゲートが見えるわけではない。


 どうすればカラクリの答えに結びつくのか。何もかもがカラクリと繋がっているはずなのに……答えは一向に見えてこない。


 一同が考え込んでいたとき、理沙が笑みを浮かべて、スマートフォンの画面をこちら側に向けてきた。可愛らしいコーギーの画像の上部に表示された本来の日付に目がいく。


 <8月4日 金曜日 16:38>


 難しい表情を浮かべている一同とは対照的に笑みを浮かべている理沙も、内心は不安でいっぱいだった。類が、理沙に心配をかけまいと明るく振る舞うのと同じように、理沙もまた明るく振る舞おうと努力していた。


 「見て、親戚のうちで飼ってるコータちゃんだよ」


 互いにすべてを受け入れ合っている。すぐに悩んでしまう性格の理沙が、この状況で明るいはずがない。理沙の気持ちを察した類は、鏡に息を吐きかけてすぐに返事を書いた。


 《かわいい》


 「コーギーだからコータって安易な名前つけられちゃって」微笑む。「少しは癒されたかな?」


 《うん》


 寂しそうな表情は微塵も浮かべず、気丈に振る舞う。現実世界から鏡の世界を覗けなくても、大事な話をしているということはわかっている。

 「よかった。まだミーティング続けるんだよね?」


 《もう少しだけ》

 

 「ゲームでもして待ってる」


 《ごめんね》


 「うん」


 類は呟いた。

 「現実世界は八月四日か……」


 当然のことながら、現実世界では時間が経過している。だけれど、自分たちのスマートフォンの画面は、旅客機が墜落した惨劇の日付で止まっている。そして、自分たちの年齢も十七歳で止まっている。


 「なぁ……」類は、ぽつりと言った。「どうして俺たちは十七歳のままなんだろう?」


 一同は、類の問いかけにうつむいた。


 純希が言った。

 「そんなこと訊かれたってわからないよ……」


 綾香が言う。

 「なんか……それについてはあまり考えたくないの……」


 明彦も綾香と同じ意見。

 「俺も……」


 いつもなら疑問はとことん考える性格の明彦も、日付と年齢については無視した。誰ひとりとして追究しよとうとしない理由は、それについて考えるのが怖かったからだ。


 疑問を口にした類も、それ以上、追究せずに話を進めた。

 「乗客が全員死んだ理由と、自分たちが不死身じゃないってことだけはわかった。けど……どっちにしろ謎だらけだ」

 

 ジャングルを歩く三人を心配する健が、類に言った。

 「だけどいまの俺たちにとって最も大きな謎は、お前ら三人がどこを歩いてるかってことだよ」


 類は言った。

 「心配するな。なんとかなるから」


 健は言った。

 「こんなときまでなんとかなるって、お前らしいよ」


 「みんなに言われる」と、軽く笑った類。


 光流が言った。

 「なんとかなるためにも、暗くならないうちにジャングルに戻ったほうがいいんじゃない? 進む方向がわからないのに暗闇を歩くのは危険だよ」


 光流の言うとおりだ。できれば明るいうちに先に進みたいので、明彦が類に言った。

 「戻ろう。歩けるところまで歩かないと」


 類は鏡に息を吐きかけて、手のひらを押し当てた。


 理沙もその手形に自分の手のひらを押し当てた。

 「ミーティングは終わったの?」


 類は明彦に訊く。

 「少しだけ理沙とのやりとりしてもいいかな」

 

 明彦はうなずく。

 「俺らは先にジャングルに戻ってるよ。いま言ったように暗くならないうちに進みたいから早めに済ませるんだぞ」


 類は微笑んだ。

 「うん、すぐに行くよ」


 斗真も浜辺で待機している一同に言った。

 「俺らも浜辺に戻ろうぜ」


 「そうだね」と返事した綾香は鏡に歩み寄り、息を吐きかけて文字を書いた。


 《またね 綾香》


 鏡に向かって笑みを浮かべた理沙は、小さく手を振った。

 「またね」


 結菜が、明彦と純希に言った。

 「気をつけてね。無茶はしないでよ」


 不安げな表情の結菜に、明彦は微笑んだ。

 「大丈夫。無茶はしないよ」


 「そっちも気をつけろよ」と結菜に言った純希は、類に声をかけた。「じゃあ、戻るから」


 類は純希に返事した。

 「俺もすぐにそっちに戻るよ」


 一同は、倉庫から島へ意識を移動させた。その後、誰もいなくなった倉庫に座る類は、鏡に息を吐きかけて手を押し当てた。理沙も類の手形に自分の手を押し当て、笑みを浮かべた。

 

 《ふたりきり》


 「みんなは?」


 《島に戻った》


 「類は戻らなくてもいいの?」


 《少しだけ一緒にいたい》


 理沙は、室内の背景と自分の姿だけが映っている鏡をまじまじと見つめた。

 「本当にあたしが見えてるの?」


 《かわいいよ》


 「可愛くてよかった」嬉しそうに微笑んだ理沙は、真剣な想いで訊いた。「本当になんとかなりそう? あたし、心配で。どんなときも類となら乗り越えていける。でも……」


 俺も理沙とならどんなときも乗り越えていける―――


 《いつも言ってるじゃん なんとかなる》


 「そうだね、なんとかなるよね。絶対になんとかなる」微笑む。「あたし、ここでずっと待ってるから」


 瞼を閉じた理沙は鏡に唇を押し当てると、類も鏡に唇を寄せた。そのとき、突然、明彦と純希が現れたので、驚いた類は、慌てて鏡から唇を離した。


 「どうしたんだよ?」


 純希が言った。

 「ジャングルは土砂降りだ。歩かないとヤバい」


 島の天気はつねに不安定だ。明彦は類の肩に手を乗せた。

 「約束したよな? 現実世界に戻ったら思う存分に逢える。つらいのはいまだけだ」


 「わかってる」


 明彦に返事した類は、鏡に息を吐きかけて文字を書いた。

 《そろそろ戻るよ》


 理沙は、もっと一緒にいたい気持ちを抑えた。近いうちに類は帰ってくるんだ、もう少しの辛抱だ、と自分に言い聞かせた。

 「いつでもここにいるからね」


 《ありがとう》


 「気をつけて」


 《また来る》


 腰を上げた類は、ふたりに顔を向けた。

 「よし、戻るか」

 

 目を瞑って意識を集中させた三人は、すぐに豪雨に打ちつけられた。学校の窓越しから見える空は晴天だった。そして、学校に意識を移動させたときは、島も明るい空だった。いまは、太陽が鈍色の雲に覆われている。百年滞在しても島の天気を把握できそうにない。


 百年滞在……絶対にしたくない。


 歩こう。


 「行くか」類は足を踏み出した。「雨水で滑りやすくなってるから注意しろよ」


 不死身ではないと確定した。だからこそ明彦は注意深くなる。

 「ここはまだいいよ。そのうちまた足場が悪くなるだろうし、捻挫しないように気をつけような」


 類は言った。

 「言われなくても気をつけるよ。先は長いんだ」


 純希も言った。

 「そうだ……先は長い」


 三人は顎を上げて、口を開けた。乾いた口腔内に雨が降り注ぐ。ついでに顔を洗ってみると、心なしか気分がすっきりした。


 正面に顔を戻した三人は前方を眺めた。周囲は高木に囲まれている。そしてその先は、歩行の邪魔をする低木などの植物が茂っている。旅客機の墜落現場からみんなと歩いた浜辺へ続く大地もこのようなかんじだった。もしかしたら、このまま進めば望む方向へ出られるかもしれない。


 だが、けっきょくはどこを歩いても緑一色だ。


 謎を含めたすべてのことにおいて、まるで堂々巡り。


 ぐるぐると同じ場所を歩き続けたくない……と、思う気持ちから、自分たちが進んでいる道は正しい、と心理的にそう思い込みたいだけなのかもしれない。この道を進むことに不安を感じていた純希でさえ、類と明彦とともに無言で歩を進め続けた。

 

 徐々に頭上を覆う樹木の葉も減ってきた。雨除けにはならないが、日除けには最適だった。雨が上がり次第、太陽が顔を出せば、ふたたび直射日光に照りつけられる。しばらくのあいだは、天然の日除けに頼れそうにない。


 だが、葉を茂らせた植物が頭上にあろうとなかろうと炎天は嫌いだ。この雨が上がった瞬間、自分たちにとって最適な天気だと嬉しいのに……そして何より、無事に旅客機の墜落現場に辿り着ければ最高だ、と思う三人は、生い茂った植物を掻き分けて前進する。


 疲労が蓄積した体にこたえる足場の悪さだ。こんな場所で捻挫しては大変だ、と注意を払って歩く足元に変化を感じた。全員で浜辺を目指して歩いた大地は平地だった。それなのに上向きに傾斜している。


 (なんかへんだ……)


 訝し気な表情を浮かべて行く手に目をやった。遠目から見ると植物が邪魔をしてわからなかったのだが、坂道が続いていた。じっさいは旅客機の墜落現場に近づいているどころか遠ざかっていたのだ。


 「なぁ……」立ち止まった類がふたりに訊く。「どうする?」


 目的地に近づいているかもしれない、そんな考えは甘かった。純希は、不安げな表情を浮かべた。


 「俺も、ひょっとしたら墜落現場に行けるかもって、少し期待していた。でも、やっぱり……無理だよ。このまま進んだらマジでヤバいことになる。引き返そうぜ」


 明彦は言った。

 「わずかに道を逸れたっていうより、大幅に道を逸れていたんだな……」


 類は、もう少しだけ進んでみたい。

 「このまま進んだら小高い丘みたいな場所に出られる可能性もあるんじゃない? ジャングル一帯を見渡せるかもしれない」


 明彦は首を傾げる。

 「そんなにうまくいくだろうか」


 類は言った。

 「行ってみないとわからないじゃん」


 明彦は考える。

 (どうすればいいのか……)


 類は試しに歩いてみたい。

 「このさい、突き進んでみたいんだ」


 純希は拒否する。

 「冗談だろ? ひらきなおってとことん行こうってか? 俺は絶対に反対だ」


 類は真剣な意見を言ったつもりだ。

 「冗談は言ってない。マジで進みたい」


 「正気かよ」純希は、類の考えは無謀すぎると思った。「ありえない」


 明彦は、眼鏡が雨に濡れて視界が悪くなっていたので、じっと目を凝らし、その先を見た。

 「もしかしたら最悪の場合、浜辺に出られない可能性も……」


 純希は浜辺に戻りたい。

 「やっぱり引き返そうぜ」


 「俺たちが歩いてきたのはこっちの方向だ」明彦は後方を指さした。「だけど大幅に道を逸れてしまった」こんどは左右を指さした。「どっちが浜辺なんだろう? 方向をまちがえただけで延々とジャングルが続く」


 純希は真剣だ。

 「歩いてきた道を辿れば浜辺に戻れるはずだ。奥地に行けば行くほどマジでヤバいことになる。こんな場所でガチで遭難したらそれこそ大変だぞ」


 類は訊く。

 「じゃあ、どうすればいいんだよ?」


 明彦は言った。

 「賭けてみたいんだ」


 類は訊き返す。

 「何に?」


 明彦は真面目に類に言った。

 「お前の考えに」


 まさか自分の意見が通るとは思っていなかったので驚いた。

 「進むってこと?」


 純希は予想外の明彦の言葉に動揺する。

 「ちょっと待て、本気かよ?」


 明彦は説明した。

 「ひょっとしたら墜落現場を見下ろせる場所に出られるかもしれない。むやみに歩くのもどうかと思ったけど、立ち止まったところで救助隊はこないんだし、けっきょくは自分たちでなんとかしないといけないんだ」


 純希は拒否する。

 「だけど、無理っぽかったら引き返すって、俺にもみんなにも言ったじゃん。明らかに無理っぽい、てゆうか無理」


 明彦は、真剣な眼差しを純希に向けた。

 「よく聞いてほしい。墜落現場へと向かう道からこんなにも逸れているとは思わなかった。はっきり言って俺たちは、窮地に立たされている。だったら一か八か類の考えに賭けてみたいんだ」


 「慎重に進んでいたはずなのに最悪だ」重苦しいため息をついた純希は前方に目をやった。「もしかしたら、周囲を見渡せる場所に出られるかもしれないけど、さすがの俺も超不安だよ」


 類が純希に確認する。

 「進んでみるけどいいよな?」


 純希は自棄で返事した。

 「訊くなよ、しかたない。お前らが進むなら行くしかないじゃん」


 類は気合を入れた。

 「よし、決まり」


 気が進まない純希は、嫌々ながら言った。

 「ガチな運試しだ……」


 「そうかもな」純希に返事した類は前進した。「行くぞ」


 運試し―――もし運が良ければ周囲を見渡せる場所に出られるはずだ。もし運が悪ければこの先もずっと傾斜面が続く。


 死神がいるなら、生命を司る神もいる。けれどもここは死神の島。ほかの神が立ち入ることのできない領域だとしたら、困ったときの神頼みは通じない。自分たちの運に賭けるしかない。


 覚悟を決めて歩き始めると、向かい風が吹いてきた。だが、負けじと歩を進め続けた。傾斜面を流れる泥水が足元を通過していくと、土汚れで茶色くなったスニーカーがさらに色濃く染まっていった。


 類は足元に視線を下ろした。

 (どうせ日本に帰ったら捨てるんだ。もうこのスニーカーには二度と足をとおしたくない)


 そうだ……スニーカーはどうでもよい。それよりも、血液と鉛が入れ替わってしまったかのような脚の怠さ、なんとかならないだろうか。泥水を吸収した中敷きのせいで余計に重たく感じてしまう。疲労が蓄積した脚を癒したい。生温い雨よりも、温かなお湯が欲しい。


 (風呂に入りたい。ベッドに横になりたい)


 類は、理沙と一緒に入浴した幸せな時間を回想した。


 両親が旅行で家を空けた日の夜、理沙を呼んでふたりきりで過ごした。ロマンチックな雰囲気を出すために、浴室の電気は点けずにアロマキャンドルに火を灯した。


 小さな炎に灯された浴室が、いい香りに包まれたのを覚えている。少女趣味の理沙につきあっただけだったが、いま思えば悪くない思い出だ。


 あのときは、まさかこんなことになるとは考えもしなかった。


 アロマキャンドルの小さな炎とは対照的なすさまじい稲光が頭上を駆け巡る。聞こえるのは理沙の甘い声ではなく、激しい轟音だ。稲妻が光るたびに薄紫色に染まる空と鈍色の雲……まるで魔界だ。


 いつになったら雨は上がるのだろうか。歩を進めるたびに傾斜の角度が増していく。疲れたな……と思いながらため息をついたとき、突然、雨が止んだ。それと同時に青々とした空と、燦々と輝く太陽が顔を出した。曇りを願っていたのに、こんどは灼熱地獄の始まりだ。類は額の上に手をかざして空を見上げた。


 (くそ暑くなりそうだ)


 太陽光を遮ってくれる樹木の葉は頭上にない。この気温が続けば、ずぶ濡れのジーンズもいずれ乾くだろう。ただし、物干し竿にかけていたら、の場合だ。


 大量の汗が吹き出す体にまとっているかぎり、ずっと濡れたままだ。雨が降ろうが降るまいが湿ったジーンズで夜を迎えることになる。そのうち、この気持ち悪履き心地にも慣れるはず。


 しかし本音を言えば、浜辺で待機している一同のようにトランクス一枚になりたい。浜辺はジャングルとはまたちがった暑さだ。どんな恰好をしてるにせよ、お互い熱中症に気をつけなくてはならない。


 類は浜辺で待機している一同を心配した。

 「みんなも暑いだろうなぁ。体がついていかないよ」


 明彦も同じ思いだ。

 「結菜のやつ、大丈夫かな?」


 純希が言う。

 「みんなのことも心配だけど、まずは自分たちのことを考えようぜ。リアルに結菜に逢うためにもそれが一番」


 純希の言うとおりなので、明彦はうなずいた。

 「そうだな。みんなはみんなでうまくやってるよな」


 類はポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認した。


 <8月1日 火曜日 17:40>


 校内集合までまだ時間はある。類は足を止めて、「ちょっと、向こう側も見てくる」と、背丈ほどの植物が茂った場所を指さした。


 意味がわからなかったので明彦は類に訊く。

 「何を見るの?」


 類は答える。

 「周囲を見渡すのに適した道があるかもしれないじゃん」


 「うろちょろしないほうがいいと思うけど」


 「少し見てくるだけだよ。すぐ戻るから大丈夫」


 「一緒に行かなくていいのか?」


 「ちらっと見るだけだからひとりで平気だよ」


 「わかった。俺たちはここで待ってる。気をつけてな」


 「うん」と返事した類は、指さした方向へと駆けていった。

 

 類は木陰からふたりの様子を窺う。こちら側に背を向けて会話しているふたりを確認したあと、類は屈んだ。目を閉じて、学校の倉庫に意識を集中させた。


 瞬時に外気の変化を感じた。もうジャングルではない。倉庫だ。こちら側を見つめている理沙の姿が鏡に映っている。


 ふたりに嘘をついて倉庫に来た理由は、一緒に入浴した夜を思い出し、理沙が恋しくなってしまったからだ。


 明彦や純希との約束を破ってこの場に来てしまったというのに、罪悪感は微塵もなかった。いま頭にあるのは、理沙への想いだけ。


 鏡に映る理沙の顔をそっと撫でた。

 (夜の集合まで時間があるのに、こんなにも真剣な表情をして俺を待っている。もしかしたら集合時間を知らされていないのだろうか? )


 類は鏡に息を吐きかけて文字を書いた。

 《来ちゃった》


 理沙は満面の笑みを浮かべた。

 「類!」


 《集合時間を知らないの?》


 「知ってるよ。正午、四時、いつもどおり九時でしょ? 類がいつ来てもいいように、ずっと待ってるの」


 いつも理沙のことを考えている。理沙も同じなんだと思い嬉しくなった。

 《愛してるよ》


 「あたしも愛してる。類が早くこっちの世界に帰ってこれるように、どんなことでも協力するからね」


 《ありがとう》


 類は息を吐きかけた鏡に手のひらを押し当てた。現実世界の鏡に類の手形が映し出される。理沙も手のひらを類の手形に押し当てた。


 「冷たい鏡……類の体温を感じたい。いつも逢いたいときに逢えたから、余計に類が恋しくなっちゃう」微笑んだ。「だからこそ、あたしにとって類がどれだけ大切だったのかを実感してる」


 類も同じ思いだった。離ればなれになってしまったからこそ、ふたりの絆が強くなっていくのを実感していた。

 《キスして》


 理沙は鏡にキスした。類は鏡に映る理沙にキスした。明彦と純希に邪魔をされたので、ゆっくりキスができなかった。


 ふたりきりの空間は特別なもの。誰にも邪魔されたくない。もっと一緒にいたい。この場を離れたくない。だが、そろそろ島に戻らないと明彦と純希に怒られてしまう。


 ふたりは鏡から唇を離した。


 類は鏡に息を吐きかけて文字を書く。

 《みんなにバレたら怒られるから戻るよ》

 

 「黙ってここに来たの?」


 《イチャつきは禁止されてる》


 「わかったよ。内緒にしておく」


 《また来るよ》


 微笑みを浮かべて、可愛らしく手を振った。

 「待ってる」


 類は目を瞑ってジャングルへ意識を集中させた。その後、すぐに外気の変化を感じて瞼を開けた。こちらに背を向けて立つ明彦と純希の様子をふたたび木陰から窺う。倉庫に意識を移動させる直前と同じように会話していた。


 類は、怪しまれないうちにふたりに駆け寄った。

 「ごめん、待った?」


 ふたりは振り向いた。明彦が訊く。

 「いや、ぜんぜん。で、どうだった?」


 「どうだったって何が?」


 「何って、見渡せる場所を確認したかったんだろ?」


 そうだった。自分で言った嘘を忘れていた。

 「み、道ね。なかった。ここより歩きづらいし、見るだけ無駄ったよ」


 「そうか。じゃあ行こう」


 類はふたたび歩を進めた。

 「おう、出発進行!」

 (つぎもこの手段で理沙に逢いに行こう)

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