【5】遺留品物色

 斗真が想像したとおり、三人は旅客機の墜落現場付近まで歩を進めていた。先頭を行く類の後方に、明彦と光流が続く。着ているTシャツを絞れば、汗が滴り落ちるほど汗だくだった。だが、疲労困憊のふたりは、汗に濡れたTシャツの不快感を口に出せるほど体力に余裕がなかった。


 類も体力があるとはいえ容易くはない。それでも休憩をとらなかった理由は、日没までに仲間が待つ場所に戻りたいからだ。ふだんは寡黙なタイプではないのだが、一時間以上も会話を交わさずに黙々と歩き続けていた。


 とめどなく流れる汗。渇ききった喉。体内から失われる水分を補給したい一心で足を動かす。椰子の実ひとつに約一リットルのココナツジュースが満たされている。一気に食道に流し込めば渇いた喉も潤う。そして体力も回復するはずだ。丸ごとひとつ飲み干したい。早く水分が欲しい。


 一歩踏み出すたびに、額を流れる汗が頬を伝い、顎先から地面に滴り落ちる。目の中に入った汗が刺激になり、薄っすら浮かんだ涙で視界がぼやけた。だが、ちょうどよかった。なぜなら、ここ一帯に広がる光景は仲間が待つ場所とは異なり、旅客機の墜落によって吹き飛ばされた無惨な死体が木々にぶら下がっている状態なので、なるべくなら見たくなかったからだ。それなのに、光流が恐ろしい言葉を口にする。


 「ジンジャーブレッドマンの代わりに死体をぶら下げた季節はずれのクリスマスツリーみたいだ。クリスマスソングじゃなくて悲鳴が聞こえてきそうだけどね」


 はっきり言って不快。類は、気分が悪くなる比喩に顔を強張らせた。

 「久々に喋ったかと思ったら、それかよ……」


 光流は質問する。

 「ここにいるサンタクロースの正体ってなんだと思う?」


 そっけなく返事した。

 「そんなの知るかよ」

 (なんなんだよ、またおかしくなったわけじゃないよな?)


 類に問いかけた質問の答えを言う。

 「お前がモニター登録したツアー会社『ネバーランド 海外』だよ」


 事故の原因をまた自分のせいにされると思った。もう責められたくない。

 「飛行機が墜落したのは俺が悪いわけじゃないって、さっき解決したはずだろ」


 明彦は光流に異常性を感じた。

 「光流、お前言ってることおかしいぞ。だからみんなと残ればよかったんだ」

 (やっぱりイカれてるよな……)


 だが光流は真剣だ。

 「俺はまともだ。もう取り乱さないって約束したじゃん。そうじゃない、そうじゃないんだ」


 “そうじゃない” を強調する。つまり、事故は類のせいではないし、いまの自分が狂っているわけでもないと言いたい。


 明彦は訊く。

 「そうじゃないって、何がそうじゃないんだよ?」


 光流は答える。

 「よく考えてみろよ。どうして俺たちだけが助かったんだろうって、不思議に思わないのか? 奇跡すぎて不自然だ。まるでツアー会社が仕組んだみたいだって、俺は言いたいんだよ」


 由香里、恵、道子と同じ考えを持つ光流。だが、類と明彦も確かな現実しか信じない主義。信憑性に欠ける話が嫌いな綾香たちと同様の明彦ははっきりと言った。


 「不自然だろうとなんだろうと、それが奇跡ってやつだろ? ツアー会社が飛行機を墜落させるなんてありえない。光流のほうこそよく考えてみろよ」


 ドキュメンタリー番組をよく観る類は、翔太たちと同じ説明をする。

 「九死に一生ってよく言うじゃん。俺たちは一席ずれただけで死んでいた」


 光流は否定する。

 「純希を思い出せ。あいつ、落下した天井の下にいたんだぜ」


 類は言った。

 「純希の隣に座っていた乗客は死んでいた。そいつの座席に純希が座っていたら、反対に純希が死んでいた。つまり、それが九死に一生、そして奇跡って言うんだ。わかった?」


 訝し気な表情を浮かべた光流は首を傾げた。

 「奇跡……何かがちがう……」


 明彦は言う。

 「精神的な問題は別として、俺たちは五体満足だ。これが奇跡以外のなんだっていうんだよ。何度も同じことを言わせるなよ。ただでさえ喉がカラカラで喋るのが辛いんだから勘弁してくれよな」


 ふたりとは対照的な意見の光流は、突飛な考えを口にする。

 「俺には嫌なゲームの始まりのような気がする……」


 明彦は声を大にして言った。

 「死人を出してまで、どこの誰が、こんな大掛かりなゲームを仕掛けるんだよ」


 「そのゲームこそが、『ネバーランド 海外』からの死のプレゼントだ」


 「あほくさい……」


 虚ろな目をして口ずさむ。

 「ジングルベール、ジングルベール、鈴が鳴る。きょうは楽しい血祭りだ、ヘイ……」


 「いますぐ不気味な替え歌をやめてくれ。死をプレゼントするサンタクロースなんていないから」

 (本当に頭がどうかしてるんじゃないのか?)


 類も呆れた。

 「マジで馬鹿げてる。いまごろ管制官もツアー会社も大騒ぎだと思うけど」


 明彦は光流に言った。

 「暑さで頭が茹ってるんだよ。ココナッツジュースでも飲んで涼まったら、その考えが全部馬鹿らしいと思えるはずだ」


 光流は疑う。

 「そうかな? だといいけど」


 光流の会話につきあいながら歩くこと数分後、旅客機の墜落現場の手前に辿り着いた。


 類は、立ち止まった。

 「あ、そうだ……」


 明彦は類に顔を向けた。

 「どうしたの?」


 類は、ふと思いついたことを言った。

 「椰子の実が入りそうな鞄を見つけたらそれに入れよう。手で持ち帰るよりもずっと楽になる」


 明彦も納得した。

 「それもそうだな。使えるものがあったら使わせてもらおう」


 「じゃあ、行くとするか」類は、挙動不審な光流を不安に思う。「大丈夫か?」


 落ち着きのない双眸の光流は返事する。

 「ああ……」


 類と明彦は、光流の言動に首を傾げた。

 

 (斗真が手を挙げたのに、なぜわざわざついてきたのだろう……。何か裏がありそうだ……)


 少しわがままなだけで、ふだんは “いいやつ” だ。だが、この状況のせいで人格が狂い始めているような気がしたのだ。それが自分たちの取り越し苦労であってほしいと願うふたり。


 いったい何を考えているのだろうか……と光流の顔を見ても、頭の中などわかるはずもないので、無言で歩を進ませた。その後、大破した機体と夥しい死体が横たわる旅客機の墜落現場に到着した。


 二度と見たくなった死体の山に視線を巡らせ、使用可能な荷物の有無を確かめる。荷物室から放り出されたキャリーケースはすべて破損しており、ほとんどが焼け焦げていたので役に立ちそうにない。


 類と明彦が周囲を確認していた、そのとき、自分が座っていた座席がある分離した機体へと光流が駆けていった。


 このとき、類がはっとした。


 (通路に乗客の荷物が落ちていた気がする)


 大地に放り出された荷物は、死体と同様に形も機能も失っている。しかし、機内に残された荷物はどうなのだろう? もしかしたら椰子の実以外にも、口にできるものが期待できるかもしれない。 


 「明彦、俺たちも行こう」


 明彦は、類たちが座っていた機内の状態を知らない。そのため、自分の座席の周囲の光景が頭に浮かんだ。


 (サバイバル生活に役立つ荷物が落ちていればありがたいけど……)


 光流のあとを追う類に続いて、明彦も分離した機体に駆け寄った。三人は、機内の通路に手と膝をついてにじり上がった。


 旅客機の墜落から目覚めた直後は、思考回路が混乱していたため、仲間の安否を確認するだけで精一杯だった。いま改めて機内を見回すと、扉がはずれたオーバーヘッドビンから投げ出された荷物がずいぶんと散乱していた。


 明彦は言った。

 「後方よりはまだマシだな。とはいえ、俺ら以外の乗客はみんな死んじゃったんだから、けっきょくは同じかもしれないけど……」


 「それにしても皮肉だよな……バッグの持ち主は死んで、バッグが無事だなんて」


 「俺たちは彼らの遺留品を使わせてもらうんだ。感謝しないとな」


 「そうだな」


 類が明彦の言葉にうなずいた直後、光流が通路に投げ出されたボストンバッグを目掛けて一目散に飛びついた。そして、ボストンバッグのチャックを素早く開けて、中身をあさった。トラベルポーチやガイドブックなど旅行に必要な荷物の中に、五百ミリリットルのミネラルウォーターが二本収まっていた。機内でもドリンクのサービスは充実している。だがあえて水を買う。二本とも同じメーカーだったことから、水へのこだわりを持つ者が、保安検査場を通過した先の売店で購入したのだろう。


 こんな場所で安全な水が手に入るとは思ってもみなかった明彦が言った。

 「みんなも喜ぶよ」


 そのとき、軟水だろうと硬水だろうと味の差などわからない光流がペットボトルを手にした。すぐさまキャップを開栓して、飲み口に唇を押し当て、勢いよく水を飲み干したのだ。息を切らしながら空になったペットボトルを力強く通路に置き、唖然としている類と明彦に鋭い視線を向けた。


 「これだよ! これを狙っていた! 俺は水が欲しくてお前らに同行した! 俺だって、みんなと同じように、心身ともに疲れてる! 当然、トラウマになりそうなのも同じだ! 一番に俺が水を飲む! ここまで頑張って歩いたやつの特権だろ! 本気で喉が渇いていたんだ!」捲し立てたあと、涙声で言った。「俺って……こういうやつなんだよ。駄目なやつなんだよ。情けないやつなんだよ。水が飲みたくてしかたなかったんだ。こんなにも自己中心的で気の小さい俺が、新聞記者になりたいだなんて笑えるよな………」


 光流に歩み寄った類は、ボストンバッグの中のペットボトルに目をやった。

 

 光流は、荷物の中に入っているかもしれない水を狙っていた。だが、確実に手に入る保証はない。それでもわずかな希望に賭けて、切羽詰まった精神状態でここまで歩いたはずだ。挙動不審に見えたのはそのせいだったのか、と類は理解した。


 見つけた水は、本来ならみんなと一緒に飲むために持ち帰るべきかもしれないが、いまは喉の渇きがとてもつらい。待機している仲間たちよりも、長距離を歩いてここまで戻ってきた自分たちのほうが体内の水分を失っている。類は、もう一本のペットボトルを手にして、キャップを開栓した。そして一気に半分飲んだ。


 「おいおい……」明彦は、光流と同じ行動をとった類に驚く。「貴重な水なのにみんなで飲まないのかよ」


 類は、光流を庇うかのように言った。

 「みんなには椰子の実がある。それに、そろそろ水分を摂取しないと危険だ。飛行機事故で助かったのに、脱水症状でピンチになったら意味がない。光流の言うとおり、頑張ってここまで歩いた俺たちの特権だ」


 自分勝手な行動をとった光流には罪悪感があった。仲間はずれにされるかもしれないと思っていた。だが、類は予想外の返事をくれた。その優しさのおかげで、光流は本来の自分を取り戻せた。


 光流は目に涙を浮かべた。

 「類、ありがとな」


 「礼なんかいらないよ。さっきも言っただろ、俺たちは友達だって」と光流に言ってから、類はペットボトルを明彦に渡した。「飲めよ。水分を補わないと俺たちがぶっ倒れる」


 明彦も本音を言えば水が飲みたかった。類からペットボトルを受け取り、豪快に飲み干した。ここが惨劇の場ではなく、草原だったら、大好きなコーラよりも甘露に思えただろう。それでも、渇いた喉を潤してくれたこの水に感謝しなければ罰が当たる。死者は、三人のために水を買ったわけではないのだ。明彦は空になったペットボトルを、そっと通路に置いた。


 「美味いな。こんなに美味い水は産まれて初めてだ」


 ミネラルウォーターが入っていたボストンバッグに目をやった類は、光流に言った。

 「それ、椰子の実を入れるのに使える」


 光流は、ボストンバッグの中身を確認する。

 「メンズのスニーカーが入ってる。荷物の持ち主は男だな」


 スニーカーを見た類は言った。

 「女子が履くには大きいかもしれないけど、ヒールが高いサンダルを履くよりも、スリッパみたいに踵を踏んで歩いたほうが楽だよな」


 「でも、死んだひとの靴を履くって嫌じゃない?」


 「新品みたいだし、それを判断するのは女子だ。いちおう持って帰ろう」


 「いちおうね」


 「使えそうな物あったら、ここに集めよう」


 光流と明彦は返事する。

 「わかった」


 自分たちが立つ位置に死体は横たわっていない。収集した乗客の荷物の置き場所はここにしよう。ただし……座席には無惨な死体が腰を下ろしている……。


 「死者の遺留品物色か……」光流は静かに言った。「夢にまで出てきそう」


 類は言った。

 「ここに一生いても死体を見慣れることはない。生き延びたいって思うから、やりたくなくてもやるしかないんだ。良心の呵責がないと言ったら嘘になるけどね」


 明彦は言う。

 「飛行機事故で奇跡的に助かったひとが救助されるまでのあいだ死者の肉を食べて生き延びたって話を聞いたことがある。

 けっきょく生きるって綺麗ごとじゃないんだ。俺だって遺留品を物色するなんて嫌だよ。けど……類じゃないけどやるしかないんだ」


 人肉を食すなど想像したくもないが、理沙のためにも絶対に生きたい。

 「じゃあ、始めようか」


 明彦は返事する。

 「そうだな」


 類は、扉が閉じたオーバーヘッドビンを見つけたのでふたりに言った。

 「なぁ、あれ見ろよ。開けて確かめてみたいくないか?」


 光流は言った。

 「扉が変形してる。簡単には開かないかもしれないけど、せっかくだから確かめてみよう」


 明彦はため息をついた。もう二度と空の旅はしたくない。しかし、将来は医者だ。必ずそのときがやってくるだろう。だが、心の底から座席には座りたくないと思う。

 「俺の人生で飛行機に乗らなきゃいけないときには、オーバーヘッドビンを指定席にしてもらうよ。なんだか座席に座るよりも安全そうだ」


 光流は皮肉交じりで言った。

 「それを言うなら、扉がはずれないように鍵をかけてもらわないとな」


 明彦は言った。

 「たしかに鍵は必要だな。目的地に到着したら適当に内側から扉を蹴り飛ばす。機内サービスもいらないからほっといてほしいよ」


 「俺は絶対に飛行機には乗らない」と言った類は、死体が座る座席のあいだに足を踏み入れ、オーバーヘッドビンの扉を開けようとした。だが、光流が言うように、事故の衝撃によって固く閉ざされていた。あの手この手で奮闘するも扉は開かない。荒っぽいほうがよいだろうか、と自棄を起こしておもいっきり拳で叩いてみた。すると、扉のあいだに隙間ができた。


 「やっとだ。何が入っているんだろう」類は強引に扉をこじ開けた。


 大きめの迷彩柄のリュックサックがひとつ。スポーツバッグがひとつ。ベージュのショルダーバッグがひとつ。


 それらを手にした類は、通路で待つふたりに渡した。ふたりは、渡されたバッグの中身を確認する。


 明彦がリュックサックを開けてみると、未開栓のオレンジジュースや手帳などが収められていた。見ず知らずの他人の私情まで持ち運びたくない。それも死者の私物だからなおさら。プライバシーに関わるものを不要と判断して通路に除けた。


 「胃袋に収まるアイテムだけでいいよな?」明彦は類に訊いた。


 類も死者の私物を見たいとは思わない。遺留品を物色している自分たちを咎めたくなるだろうから……。

 「余計なものはいらない」


 光流も不要な荷物を通路に除けた。

 「ミネラルウォーターが一本とハーフサイズのポテトチップスをゲット」


 続いてショルダーバッグを覗いた明彦が、口元に笑みを浮かべた。

 「俺が欲しかったものがあった」


 類と光流は、明彦が持つショルダーバッグを覗いた。そして類が訊いた。

 「欲しかったものって?」


 明彦は答える。

 「このバッグにキャラメルが一箱入っていたんだ。ダイエット中の女子以外、飴とかチョコレートとか持ち歩いてる子、けっこう多いじゃん。糖分を摂取できれば疲労と飢餓はどうにかなるはずだから欲しかったんだ」


 類は納得する。

 「なるほどね」


 光流が通路に落ちている鞄を拾い上げた。

 「とりあえず見れる鞄の中身は全部見てみようぜ。それこそ糖分が補給できるお菓子が入ってるかもしれないから」


 「女子の鞄は念入りに」明彦は ‟女子” を強調した。「だけど、うちらの女子の鞄を見つけたら、中身は見ずにここに置いておくよ」


 光流は苦笑いする。

 「どんな状況でも勝手に見たら怒られそうだもんな」


 類が言う。

 「とくに綾香は」


 三人は乗客の鞄を物色し始めた。苦労してここまで来たのだ。血染めの鞄以外は中を覗いた。糖分のほかにも何か役に立つものはないだろうかと確認してみたが、サバイバル生活に使えそうなものは入っていなかった。


 大半の荷物は残念ながらキャリーケースの中だ。それらはすべて貨物室に預けられていたので、乗客室にはこれといったものがないように思えた。それでも根気強く機内を見回った。その後、収集した遺留品を確認し合う。


 チョコレートやキャラメル、ポテトチップス、お茶とオレンジジュース、ストローが二本と割り箸が二膳。


 十三人で食すには少ないように思えたが、出発前は椰子の実だけが目的だったのだ。予想外のありがたい収穫を喜ぶべきだろう。

 

 「みんなで大事に食べよう」明彦が割り箸を持ちながら疑問を言った。「それにしても……割り箸って何に使うんだろう? いらなくない? 機内で貰えばいいのに」


 光流が言った。

 「日本の割り箸を外国人の友達にでも見せたかったんじゃないの?」


 「日本の割り箸も海外の割り箸も同じだと思うよ。まあいいや、理由はどうであれ、何かの役に立つかもしれないから、いちおう持っていこう」


 「そうだな」


 籠バッグとサマンサタバサのショルダーバッグを手に持った類がふたりに訊いた。

 「なぁ、これって……籠バッグは綾香のだと思う。こっちのは結菜が持っていたショルダーバッグに似てるような気もするけど……」


 光流が首を傾げた。

 「そのブランドのバッグが好きな女って多いからな。俺ら男からしてみれば、どれもこれも同じに見える」


 「確認してみようか。もし、うちの女子のバッグだったら、中身は見てないってことにしておこうぜ。怒られたくないから」


 と言った類は、ショルダーバッグを開けて中を覗いてみた。キティちゃんのキーホルダーにとおされた自転車の鍵が入っていた。


 そのキーホルダーを見た明彦が、結菜の自転車の鍵を思い出す。大のキティちゃん好きの結菜は、愛用している文房具もキティちゃん一色だ。


 「それは結菜のバッグだよ。キーホルダーに見覚えがあるんだ」


 ショルダーバッグの内部に施されたポケットを見てみるとスマートフォンが入っていた。

 「ありふれたキティちゃんのキーホルダーよりも、こっちを見たほうが早い」 


 スマートフォンの画面をタップした類は、待ち受け画面をふたりに向けた。結菜と綾香と美紅の ‟変顔”が映っていた。まちがいなく結菜のショルダーバッグだ。


 明彦は言った。

 「ほらな、やっぱり結菜のだ。言ったとおりだろ?」


 「本当だ。大正解。中を覗いたことは内緒にしておこう」類は、ふたりだけでも私物が見つかってよかったと思った。「このふたつのバッグは、椰子の実と一緒にボストンバッグの中にでも入れて持ち帰ろう」


 明彦は言う。

 「早く椰子の実を採りに行こう」


 類は返事した。

 「ああ」


 光流は言った。

 「あのさ、その椰子の実についてなんだけど、飲み口を作るのにナイフがあれば便利じゃない? 鋸とかナイフがないとココナッツジュースを飲むのは難しいって、女子が言ってたじゃん」


 明彦が答える。

 「刃物は受託手荷物。それなら、ここじゃなくて外だよな」


 光流はあっさりと諦める。

 「外……だったらいらないかな。わざわざ死体を跨いで探したくない。お前が言ったように石で叩き割ればすべて解決。椰子の実を採った俺たちはみんなのところに戻る。はい、任務終了」


 やはり、石で叩き割るのは難しいと判断した明彦。なるべくなら刃物が欲しい。

 「いや、ちょっと待って。この先のサバイバル生活を考えると、ナイフがあったほうが何かと便利だ。どうせ外を歩くんだから椰子の実を収穫するさいに、もう一度、周囲を確認したほうがいい」


 類と光流は顔を見合わせた。機体から放り出された死体の大半が原形を留めていない。もう見たくないのだ。作業を早く終わらせて、仲間が待つ場所に戻りたかった。


 「俺も石で叩き割る意見に賛成。飲み口だけを慎重に叩けばなんとかなりそうだし」嫌々ながらの類。「お前だって最初はそう言ってたじゃん」


 明彦は言う。

 「だけど……やっぱり刃物が欲しい」


 光流は訝し気な視線を明彦に向けた。

 「将来は医者……。まさかとは思うけど、異常者みたいな危ない思考に目覚めたわけじゃないよな? 死体に性的興奮を感じる危ない性癖とか……。お前、どこかオタクっぽいし」


 “オタク” と言われるのが大嫌いな明彦は、突拍子もない光流の言葉に憤然とした。

 「馬鹿なこと言うなよ! この機内だけで吐き気がしそうなのに! 苦労してここまで来たんだから、ナイフがあれば完璧だって、そう思っただけだよ!」


 光流は言う。

 「それならいいけど、椰子の実を収穫しながら軽く目視するだけだぞ。あとは無理」


 明彦は言う。

 「わかってるよ。俺だって死体は見たくないんだから、くまなく探そうとは言ってない」


 スマートフォンで時間を確認した類は、収集した遺留品をリュックサックに詰めて背負った。

 「早く椰子の実を集めよう。日没までに戻らないと」


 「そうだな」と返事した明彦も、手にしていたボストンバッグの中に、綾香と結菜のバッグを詰めて持った。


 光流が、空のボストンバッグをふたつ持ったあと、太陽に照らされた熱い大地へふたたび降り立った。


 口を開く者がいなくなった沈黙の機内―――その通路には三人が飲み干したミネラルウォーターのペットボトルが二本、放置されたままになっている。


 だが、なぜか……空っぽだった内部に開栓前と同量のミネラルウォーターが満たされていたのだ。ペットボトルの側面に日光が反射して、眩しいほどに輝いている。


 しかし、大地に立つ三人の位置から機内の通路は見えない。それに空っぽになったペットボトルの存在など、すでに忘れていた。喉の渇きが癒えたいま、三人の頭の中にあるのは、椰子の実と仲間を想う気持ちだけだ。その一心で死体が横たわる大地を歩いて、折れた椰子の木まで辿り着いた。


 さっそく作業に取りかかろうした類は、足元の大きな羽状複葉を手で除けた。するとそこに、幼い子供の前腕が落ちていた。懼然として、すぐさま羽状複葉から手を離した。


 墜落の衝撃で体が吹き飛ばされた幼い命。この子が存在していた証は、唯一残された体の一部だけ……。


 自分はここにいるよ……と、あまりにも哀れなその前腕から無言の哀訴を感じた。


 「俺の目に死体は映らない、何も映らない。もう、勘弁してくれよ」


 明彦が類に言った。

 「何が出てくるかわからないから葉を捲らないほうがいい」


 光流が言う。

 「出てくるのは死体と体の一部。早く済ませよう。もうナイフとかどうでもいいから」


 類も眩暈がしそうだった。

 「石でなんとかしよう……」


 気分が悪くなってきた明彦は、考えを改める。

 「やっぱり俺もそのほうがいいような気がしてきた。ナイフを探す作業よりも、石で叩き割る作業のほうが楽かもしれない」


 三人は、鮮やかな黄緑色の椰子の実に目をやった。光流は、肩に掛けたふたつのボストンバッグのうちひとつを類に渡した。

 「ほら、さっさと詰めようぜ」


 類はボストンバッグを受け取った。

 「おう」


 椰子の木には、いくつもの椰子の実が実っていた。しかし、旅客機の墜落の衝撃により割れているか、または、血痕などの不純物が付着しているため、食すには難しいものがほとんどだった。それでも七個の椰子の実を収獲することができた。だが、安堵するのはまだ早い。これから仲間が待つ場所へと戻らなくてはならないのだ。椰子の実を収めたボストンバッグは、疲れた体にこたえる重さだ。


 光流が訊いた。

 「もうひとつの機体はどうする?」


 明彦が答えた。

 「見る必要ないよ。バッグの代わりに体の一部が落ちてるだけだ」


 光流は顔を強張らせた。

 「だったら見なくていいや」


 汗を拭った類が言った。

 「戻ろう」


 三人は歩を進めた。背丈ほどある機体の残骸を横切り、死体から目を逸らして茂みに入っていった。そのとき、手のひらくらいの大きさの鉄の破片が類の目に留まった。先端が鋭利な刃物のように鋭く尖っており、ナイフの代わりになりそうだったので、足を止めて拾い上げた。


 「本物のナイフは見つけられなかったけど、これ使えそうだと思わないか?」


 明彦は鉄屑をまじまじと見る。

 「本当だ。よく見つけたな。ふつうにナイフの代わりになりそうだ」


 光流も言った。

 「それでいいじゃん」


 鉄屑をボストンバッグに放り込んだ類は、ふたたび歩き始めた。肉片や死体がぶら下がった木々が続いている。どこに目をやっても耐え難い光景だ。この悲惨な道を早く抜け出したい。しばらくのあいだは、焦げた荷物や肉片が散乱している道を歩かなくてはならない。しかし、ここを乗り越えれば、死体がない通常の道に出られると知っているので足早に進んだ。


 黙々と歩き続けたのち、最悪な場所を抜け出した。死体が見えない、それだけでずいぶんと気分がちがうものだ。血腥さを帯びた臭いが鼻孔から消えたいま、おもいっきり深呼吸ができる。三人は息を整えてから、周囲に目をやった。色鮮やかな一頭の蝶が、樹冠の木漏れ日の合間を縫うように飛んでいた。蝶の名前はわからないが、その美しさに思わず見入ってしまう。


 いままで景色を見る余裕はなかった。だけれど、目的の椰子の実を収獲して、糖分やドリンク、そしてスナック菓子まで手に入れることができたおかげで、心にゆとりが持てたような気がした。浜辺に辿り着いたら釣りでもして飢餓を凌げばよい。たとえ救助が難航したとしても自分たちは命を繋ぐことができる、そう思えた。


 「なんとかなる」類は独り言を言った。「そうだ、なんとかなる」


 光流と明彦も、同時に同じ言葉を言った。

 「なんとかなる」


 類は笑みを零す。

 「俺の口癖とるなよ」


 光流は言った。

 「これだけ苦労して、あした救助隊が来たら笑えるよな」


 いますぐ救われたい光流の胸中を察した明彦は、人生を振り返る。

 「俺って、ついてなかったから、いつも最悪の状況を考えてしまう癖が抜けないんだ。もしもあした救助隊が来たら、もっとポジティブに生きてみるよ」


 光流は言った。

 「でも、その癖があるからこそ、どんなときでも慎重に物事を考えられるじゃないの? それはきっと明彦の長所にもなっていると思うよ」


 光流に嬉しい言葉をかけてもらえた明彦は微笑んだ。

 「ありがとう」


 類は真剣な眼差しをふたりに向けた。

 「心配するな、大丈夫だ。遅かれ早かれ救助は来る。必ず!」


 明彦と光流も真剣な表情でうなずいた。そして明彦が言った。

 「それまで頑張らないとな」


 そうだ俺たちは必ず日本に帰る―――


 生きる意志が強い三人は、仲間が待つ場所へと一歩ずつ歩を進ませた。



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