【2】墜落の恐怖

 無料でサイパンに行けるモニターツアーに登録してから半年が経過した八月一日火曜日のきょう、類たち十三人を含めた乗客を乗せた旅客機が青天を飛ぶ―――


 類と綾香は、エコノミークラスが配置されている機体後方部分の翼の後ろ側から少し離れた窓際の座席に座っている。だが、ふたり以外の友達全員の座席がずいぶんと離れている。事前に交渉しても意にそぐわない座席が大半だ、と格安ツアーをよく利用する叔父から聞いていたのでしかたがない。


 ましてや抽選で当たった無料モニターツアーだ。座席に関しては、端(はな)から期待していなかった。ただ教室にいるときのように、自由に会話ができないので思ったより不便だ。それに少しばかり退屈。それならサイパンに到着するまでのあいだ景色を眺めることにしよう。人生初の海外。座席の位置よりも、中身の濃い時間を過ごすほうが大切だ。


 類は、硝子窓に両手をついて壮大な自然を楽しむ。眼下に広がる紺碧の海は最高に美しく、その眺望に満足する。

 「すげぇ澄み切った青だな! 同じ窓際の座席でも、翼の上にある中間部分だと景色が楽しめなかったよな」


 涼し気なロングスカートを穿いてお洒落した綾香も、身を乗り出して窓越しの景色を望む。

 「うん! 超綺麗! この席は海が見えるから最高。うちらって本当にラッキーだよね」


 「無料ツアーなのにな」


 女子は男子以上に “お得” が好き。思わず笑ってしまう。

 「ほんと、無料なのにね。景色はいいし、エコノミークラス最高じゃん」


 「だけどやっぱり、正直言うと、ファーストクラスに憧れるかなぁ。そのうちファーストクラスに乗れる無料モニターツアーとかやらないのかなぁ、なんて」


 「もしあったら教えて。つぎはニューヨークに行ってみたい」


 「ニューヨーク、いいねそれ」と笑いながら返事した類は、綾香の隣席のスーツ姿の男に目をやった。バカンス向けの格好ではないので、仕事の関係でサイパンに降り立つように見えた。


 アメリカ合衆国の自治領である北マリアナ諸島自治連邦区、通称北マリアナ諸島に属するサイパン島は、熱帯海洋性気候で平均気温は二十七度。いつでも海水浴が楽しめる常夏の島で、八月のいまはちょうど雨季。突風や豪雨被害などスコールが多発する季節で高温湿潤。


 クーラーが効いている機内は涼しいが、東京でさえ蒸し暑い時期だ。当然、男のスーツは夏物だろう。理沙がプレゼントしてくれた快適なTシャツを着ている類は、現地に到着して晴天だったら暑いだろうな、と同情した。

 

 男から窓の外へ視線を転じた類は、機内モード中のスマートフォンを海に向けた。燦々と降り注ぐ陽光を反射した煌めく大海原を画面に収め、満足気な表情を浮かべた。


 「よし! うまく撮れた」


 「いいかんじじゃん」類のスマートフォンの画面を覗いた綾香は、対抗意識を燃やす。「あたしも最高の海が撮りたい」


 「みんな何してるのかな?」友達の様子が気になる。「ネットは有料だから学生にとってはつらいよな。余計な出費を出すくらいならサイパンで美味しいものが食べたいもん」


 「言えてる」スマートフォンの画面で時間を確かめる。「まだ掛かるけど適当に暇潰ししてるんじゃない?」


 「人間ウォッチングしてみようかな」

 

 「ガキね」


 「ほっとけ」


 前方に友達は座っていないので、座席から腰を上げ、綾香の前を通過して、「失礼します」と男に声をかけた。


 「どうぞ」と男は返事した。


 ちらりと類を見た綾香は小声で呟く。

 「超はた迷惑なやつ」


 男は綾香に言った。

 「そんなことないよ」


 「うるさくて、すいません……」

 (類ってば、こっちが恥かしいじゃん)


 「楽しそうで羨ましいよ」


 通路に出た類は、離れた座席に座る友達の顔が見えたので笑み浮かべた。まずは視線を戻して、一番近くに座る友達に目をやった。


 通路を挟んだ窓際の座席に腰を下ろす神沢光流(かんざわ・ひかる)は、スマートフォンで景色を撮っていた。彼は将来、新聞記者を目指しているので、インスタグラムに画像と文章をアップロードするさい、かなりのこだわりがあるらしい。満足気な表情を浮かべていたので、納得のいく画像が撮れたようだ。


 「見せて」と声をかけると、光流はスマートフォンの画面をこちらに向けてきた。


 「超最高」


 想像していた以上に綺麗に撮れていたので感心する。

 「俺のよりイケてる」

 

 光流の様子を見てから、後方の席へと歩を進めた。


 高校卒業後は社会人になる加藤純希(かとう・じゅんき)は、まったく人目を気にしない明るい性格。ヘッドフォンを装着してひっきりなしに頭を振っていた。個人モニターで好きなバンドのライブ映像をみているらしく、このまま話しかけないほうがよさそうなので、素通りした。


 暇となれば誰とでも会話してしまう人見知りしない気さくな山木健(やまき・たける)は、隣に座る美人と会話を楽しんでいた。というより…… “ナンパ” したようだ。見た目は “チャライ” が ‟いいやつ” だ。将来に関しては大学生になってから考えようと思っている。いまの望みは彼女をつくることなので、隣の美人とアドレスの交換を済ませたはず。いつも長続きしないので、今回はうまくいくことを願っているので、邪魔しないように歩を進めた。


 お気に入りのデニムのショートパンツを穿いた宮田美紅(みやたみく)は、隣席の子供の相手をしてあげていた。さすが将来は保育士志望。その隣に座る若い母親は、ブランケットを羽織って気持ちよさそうに眠っていた。美紅が ‟いい子” なので、安心して子守を任せたのだろう。


 「やっぱ、おまえ、保育士が本職だね」


 「親戚の子守とかもしてるからね。もう慣れてるよ」


 ワンピースを着た富永結菜(とみながゆいな)は、化粧直しをしていた。学校にいても休憩時間は鏡を見ていることが多い。いつでもどこでも、身だしなみが整っている。美容師を目指す結菜と比べるべきではないかもしれないが、寝ぐせをつけたまま登校するめんどくさがり屋の綾香も見習ったほうがよいと思った。


 「そんなに鏡ばかり見なくてもかわいいぞ」


 照れ笑いをしながらこちらに視線を向けた。

 「ありがとう」


 リゾート地を意識したロングワンピースを着た松本恵(まつもとけい)は、退屈そうな表情を浮かべながら、鮮やかな色のリップグロスを塗り直していた。アナウンサー志望で喋ることが大好きな恵にとって、会話する相手が近くにいないのは暇。サイパンに到着するまで辛抱だ。


 「暇人」


 「見てのとおり、暇人だよ。こんなにグロスを塗り直したのは初めて」


 「サイパンに到着する前に厚化粧にならないように気をつけないとな」


 類の冗句に笑った。

 「気をつけるよ」


 視線を前方に向けると、気持ちよさそうに眠っている奴がいた。いまのところやりたいことはとくにない居眠りが得意な江口翔太(えぐち・しょうた)は、口を開けて眠っていた。せっかく窓際の座席なのに、もったいないと思った。“時差ボケ対策かな?” とも考えたが、時差はサイパンのほうが日本よりも一時間早いだけ。眠たいから寝ているだけのようだ。爆睡中なので純希と同様に素通りした。


 続いて、仕切りの通りを抜けて、最後尾付近の座席へと歩を進めた。


 綾香と同じく弁護士を目指している井上斗真(いのうえ・とうま)は、ヘッドフォンをつけて個人モニターを見ながら、お菓子を食べていた。きょうのために歳の離れた姉がプレゼントしてくれた防水腕時計が左手首で時を刻んでいる。


 「時計ばかり眺めていても時間短縮にはならないよ」

 

 「わかってるけど、さっさとサイパンに着かないかなって思って」


 「俺、黙って座ってるのに苦手だから同感」


 須藤明彦(すどう・あきひこ)は、うつむいて何か書いていた。おそらく問題集だ。旅行を楽しむと言っていたのに医学部受験も大変だな、と思わず苦笑いしてしまった。


 「おまえ、こんなところで勉強?」


 「暇だし、やることないから」


 「俺的には、問題集を持参していること自体があり得ない」


 「なんか、癖になってて、ないと落ち着かないんだ」


 「おまえらしいよ」


 乗客に挟まれている相川道子(あいかわみちこ)は、おしゃれが大好き。ここでもファッション雑誌を読んでいた。将来の夢は、ファッション雑誌の編集部で働くこと。きょうの装いは、シンプルなTシャツに可愛いミニスカート。足元はウェッジソールのサンダル。コーディネートのアクセントには、存在感のあるネックレス。気合じゅうぶんだ。

 

 類が話しかけるよりも先に話しかけてきた。

 「何してるの?」


 「見てわかるだろ? 人間ウォッチングだよ」


 「ガキだよね。中二じゃないんだから黙って座ってなよ。そのうち着くじゃん」


 「綾香と同じこと言うなよ」


 「やっぱり、綾香にも言われたんだ」


 「どうせ俺は永遠の中二だ」


 一番後方の席に座る十代らしいサロペットスカートを穿いた小野由香里(おのゆかり)は、恍惚とした笑みを浮かべながらジュースやスイーツを楽しんでいた。甘い食べ物が大好きな由香里の将来の夢は、スイーツ食い倒れ世界旅行をすること。そのときが来たらお土産が楽しみだ。


 「うまい?」


 「超おいしい。ここエンジン音がうるさいけど、食べていれば気にならない」


 「おまえらしいね」


 「サイパンでいろいろ食べるの超楽しみ」


 「それは俺もだよ。それじゃあ、席に戻るよ」


 「そうしたほうがいい。うろうろしていたら、子供みたいだもん」


 「わかってる」


 “人間ウォッチング” を終えた類は、通路を歩いて、自分の席へと戻った。


 「前、通ります」とふたたび男に声をかけた。


 「どうぞ」と男は返事し、尋ねた。「友達は楽しそうだった?」


 座席に腰を下ろして答えた。

 「まぁ、暇そうな奴もいたけど、独りで楽しんでるかんじでした」


 笑いながら言った。

 「いいね、若いって」


 「やっぱり仕事でサイパンに?」


 スーツを強調するように言った。

 「うん、そうだよ」


 思ったとおりだった。

 「大変ですね、社会人は」


 「君も社会人になる前に学生を満喫したほうがいい」


 「はい、そうします」


 男との会話を終えた類は、綾香に話しかけた。

 「男子は動きやすさ重視のカジュアルだけど、女子は頑張ってるよな。それにしても、俺らの友達ってキャラ濃すぎ。個性的っていうか」


 ロングスカートの飾りポケットにスマートフォンを収めた。

 「いまさらじゃない? そんなことより、あたしじゃなくて理沙を誘えばよかったじゃん」


 「俺としてはお前らとも思い出をつくりたいんだよね。それにみんな独り者なのに俺たちだけラブラブってわるいじゃん?」


 「意外と気を使ってくれてたんだ。だけど、遠回しにのろけられてるみたいでイラッとするのは気のせい?」


 「そう言うなよ。てゆうか、理沙とは結婚するからいつでも行けるし」


 突拍子もない類の言葉を聞いて声が裏返る。

 「結婚!」


 自慢気に言った。

 「きのうの誕生日に婚約指輪プレゼントしたんだ」


 眼鏡を上げてまた驚く。

 「こ、こ、婚約指輪!」


 「いちいちリアクションがデカすぎ」


 「だって、マジでびっくり。どんな指輪をあげたの?」


 「スタージュエリーだよ」


 「あのブランド可愛いよね。理沙が好きそう」Tシャツに触れた。「これは理沙からのプレゼントなわけ?」


 「まぁね」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。

 「背中にあたしのサイン入れておこうか? DIESELと綾香様のコラボ。超レアだよ」


 「いらねぇ……ただでもいらねぇ」苦笑いして断った。「お前もそこそこ美人なんだし、前髪なんとかしたらイケてるんだから、髪型変えて男つくれよ」


 「余計なお世話だよ!」 “カチン”  ときた。「この髪型はあたしのトレードマークなんだけど! それに気に入ってるの! 超むかつく!」


 ゲームマニアな類らしい比喩を言う。

 「だって、ビビるくらいまっすぐな前髪だぜ。『スーパーマリオ』のアイテム、スーパーキノコに似てる女と言えば、はい、お前!」


 天然パーマの類に「誰がスーパーキノコよ! わかめみたいな頭してるくせに!」と言い返した。


 「ワックスつけるだけでおしゃれだし、むしろ気に入ってる」と自慢げに言った、そのとき、光流とその周囲の乗客が、突然、悲鳴を上げた。


 類や綾香を含めた乗客がそちらへ顔を向けると、窓越しに赤い光が見えた。


 それは紛れもなく炎―――エンジンが発火している―――


 驚愕の光景を見た乗客全員の顔から血の気が引いていく。恐ろしい爆発音とともに、エンジンから勢いよく火柱が上がった。機体が大きく揺れ動き、振動が座席に伝う。その直後、乗客たちの混乱する声と悲鳴が機内に響いた。


 「シートベルトを着用して下さい! 落ち着いて下さい!」


 客室乗務員が乗客にシートベルトの着用を指示して、懸命に何度も声を張った。しかし、燃え盛る炎が恐怖に拍車をかける。自分には無縁だと思っていた航空事故。楽しい雰囲気から状況が一変した。


 慌てた類は、シートベルトを締めながら言った。

 「大変だ! 綾香もシートベルトを締めて!」


 綾香は、指先を震わせながらシートベルトを締めた。

 「わ、わかってる! いまやってる!」


 ヘッドフォンをはずした純希も、窓越しの光景に驚愕する。

 「どうなってんだよ……マジで墜落とか無理だって……」


 結菜が慄然とする。

 「うそでしょ……」


 無事に着陸できるだろうか……と不安になり、気が動転した光流は恐怖に駆られた。立ち上がって炎を指さし、客室乗務員に声を張った。

 「火が噴いてる! 大丈夫なのかよ!」


 慌ただしく動いていた客室乗務員が足を止めた。

 「落ち着いて下さい!」

 

 「落ち着いていられるわけないじゃん! 俺は大丈夫なのかって訊いてるんだよ!」


 マニュアどおりに動く客室乗務員は、光流を宥めようとした。機体の状態を含めた事情が機長から確認できていないのだ。感情を顔に出さないが、心の中は恐怖と不安でいっぱいだ。


 「お客様、座席に着いてシートベルトを着用してください!」


 エンジンの不具合により、どちらか片方を停止させる場合もある。片方のエンジンが破損したとしても巡航可能だ。テレビ番組で放送された飛行機事故ドキュメンタリーを観て、それを知っていた類は、座席に腰を下ろしたまま光流に顔を向けた。


 「大丈夫だ! いまはシートベルトを締めて座席に座るんだ! 片方のエンジンが壊れたくらいじゃ飛行機は墜落しない!」


 類の言葉を聞いた光流は、動揺しながらも座席に腰を下ろした。だが、不安が払拭されたわけではない。シートベルトを締める指先が小刻みに震える。

 「ありえないだろ! こんなの絶対にありえない!」


 機内が騒がしくなる直前まで眠っていた翔太も、信じ難い光景に驚愕した。恐怖を感じているのはみんな同じ。動揺する仲間も乗客も、客室乗務員の指示に従いシートベルトを着用した。

 

 「大丈夫だよ」類は隣で怯えている綾香の手を握った。「片方のエンジンが駄目になっても、この近くの空港に緊急着陸するとか、絶対に方法があるはずだ」


 時間の経過とともに炎の勢いが増している。恐怖に駆られた綾香は、声を震わせながらも語気を強めて言った。


 「どこにも陸地なんかないじゃない! それにどこの空港に緊急着陸するのよ! ここから海に墜落したらコンクリートと同じ強度なの! みんな揃って海の藻屑よ! 気休めはやめて!」


 平常心を保とうとした。こんなときこそ冷静にならなくてはいけない。

 「心配いらないから。大丈夫だ」

 (絶対に落ちない! 俺たちは助かるんだ!) 


 綾香を宥める類は、大丈夫だ、と心の中で自分にも言い聞かせた。だが、不安に打ち勝とうとする気持ちを嘲笑うかのように、こちら側のエンジンまでもが木端微塵に粉砕した。


 つぎからつぎへと災難が襲う機内に絶望の悲鳴が飛び交う。一瞬にして吹き飛んだエンジンの残骸が窓越しを通過すると、真っ白だった周囲の雲が鈍色に染まっていった。


 嗚咽をかいて泣く綾香の手を握る類も震えていた。エンジンの機能が完全に失われた機体に乗っているのだ。これ以上の恐怖はない。


 「みんな死ぬの!?」号泣する綾香。「いや! 死にたくない! どうなっちゃうの! ねぇ! 類!」


 みんな死ぬの!?―――綾香の問いかけに、類の顔が青褪めた。大丈夫だ、と呪文のように唱えていた心の声が恐怖心によって止まった。その直後、心拍数が上がり、激しい鼓動が胸を支配した。


 (怖い! こんな場所で魚の餌になんかなりたくない!)


 そのとき、コックピットから機長による機内アナウンスが流れた。

 「両方のメインエンジンが破損したため、不時着します。衝撃に備えて下さい。乗務員は訓練を受けているので、慌てずに指示に従うようにお願いします」


 目の前でメインエンジンが吹き飛んだのだ。最悪な状況なのは誰の目にも明らかだ。機長は、乗客がパニックに陥らないように多くを語らないのだとしても、落ち着て座ってなんかいられない。


 このまま墜落するのか? それとも希望はあるのか? 詳しい説明が欲しい。機長のアナウンスに憤りを感じた類は、コックピットがある前方に向かって声を張り上げた。

 「緊急着水じゃないのか! ここは海の上だぞ! どういうことなのかちゃんと説明しろよ! こんなの無責任すぎるじゃん!」


 光流も大声で捲し立てる。

 「たったそれだけかよ! どこに不時着するんだよ! 陸地なんか見えない! 答えろよ!」


 健と会話していた女が、自分が置かれている状況を悲観して泣く。

 「きっと海に墜落する! 怖いよ!」


 健は女の手を握る。

 「きっとこの先に島があるんだよ! 大丈夫だ、俺たちは絶対に大丈夫!」


 「大丈夫とは思えないよ! みんな死んじゃう!」


 「…………」

 (このままだとマジで墜落する! パイロットの腕次第だろう。くっそ、死にたくない! 俺だって怖い!)


 明彦も窓越しの光景に慄然としていた。

 「片方だけならまだしも……両方のメインエンジンって……」

 (絶望的だ……何度も死にたいと思ったときはあった。けど……それは……過去であっていまじゃない)


 泣きじゃくる道子が、大声で叫ぶように言った。

 「海のど真ん中のどこに陸地があるのよ! どうやって不時着するの!」


 恵と由香里も、泣きながら悲鳴を上げた。

 「助けて! 死にたくない!」


 いましがた子供の相手をしていた美紅も恐怖に震えていた。

 「墜落なんて嫌だ……」


 美紅が遊んであげていた子供が、母親にしがみつき泣き叫ぶ。

 「ママ! 怖いよ!」


 絶望感に打ちのめされる母親。どうにもならないと悟り、力強く我が子を抱きしめた。せめて苦しまずに天国に逝けますように……。

 「大丈夫、どんなときも、どんな場所でもずっとママと一緒……」


 パニック状態の機内に乗客の悲鳴が響く。客室乗務員も負けじと声を張り上げた。

 「落ち着いてください! 衝撃に備えるために、私たち乗務員の指示に従ってください!」

 

 落ち着いてください、と何度も繰り返す客室乗務員の声がくぐもって聞こえた。それは……恐怖心ゆえ。


 窓から島の有無を確認しようとするも、燃え盛る炎とすさまじい煙で何も見えない。最悪の事態が頭をよぎった。


 (死ぬ―――俺はここでは死ねない! 理沙を幸せにするって約束したんだ!)


 「皆さん!」と客室乗務員が声を張り上げた直後、機体が揺れ、降下し始めた。座席にしがみついて姿勢を保とうとする。だが、足元がぐらついてしまう。悲鳴だけは上げてはならない。胸中とは裏腹に平静を装う。


 両方のメインエンジンが停止している機体は、もはや制御不能の状態だった。このとき乗客の頭上に酸素マスクが下りてきた。客室乗務員は、恐怖心を抑えて命懸けの責務を遂行する。


 「酸素マスクを装着してください! 前に屈んで頭を下げてください!」何度も繰り返す。「前に屈んで頭を下げてください!」


 乗客が不時着に備えて、酸素マスクを装着し始めた。指先の震えが止まらない綾香は、類に酸素マスクを装着させてもらう。その後、乗客全員を確認した客室乗務員も座席に着いた。


 「どうしよう、ねぇ! 嫌だよ!」綾香は動揺する。「落ちたらどうしよう! 怖いよ!」


 類は強引に綾香の後頭部を押さえつけた。そうしなければ、綾香が姿勢を低くしそうになかったからだ。


 「頭を下げて! 俺だって、怖いよ!」


 思わず本音を漏らしたその瞬間―――数席隔てた前方の壁が大破して、機体が大きく傾いた。金属製の壁が剥がれ落ち、部品もはずれて飛んでいく。


 乗客数名が座席もろとも空に放り出された。窓越しから見える落下した人間が小さな人形に見えた。大破した機体の一部もプラモデルの部品のようだった。


 悲鳴を上げる人間も、部品も、海に呑み込まれていく―――


 つい数分前まではしゃぎながらスマートフォンに収めた海。いまは恐ろしいのひとことに尽きる。機体の外に放り出された乗客の恐怖を考えると身の毛もよだつ思い。


 類たち乗客の衣服が風を孕んだ。髪の毛が強風になびく。シートベルトを着用しているとはいえ、足に力を入れなければ、機内に流れ込むすさまじい風に吹き飛ばされそうだ。


 泣き喚く綾香の頭を押さえ続ける類は、光流に目をやった。姿勢を低くして、前方の座席に頭をつけて、不時着の衝撃に備えるも、人生で初め味わう恐怖に肩を震わせていた。


 そのとき、十字を切ってお祈りしている女の姿が視界に映った。神に助けを乞うその女は、キリスト教の信者だろう。


 だが、たとえ神の存在を信じていなくても最悪の状況に陥れば、神様! と、心の中で強く祈ってしまうものなのかもしれない。現にいまの自分がそうだ。


 (助けてくれ! 俺たちを救ってくれたら、お前の存在を信じるから!)


 無宗教の類なりに命懸けの神頼みをするやいなや、機体が一気に急降下した。そのとき、窓越しに鬱蒼とした緑が迫ったため、ここが陸地の上空なのだと理解する。機体は高速のまま木々の中に突入した。このままでは墜落してしまう。失禁しそうなくらい怖い。それでも綾香を離そうとしなかった。


 「俺は死なない! なあ、綾香そうだろ! 俺たちは死なない! 絶対に助かるんだ!」類は愛する人の名前を叫んだ。「理沙! 俺は理沙を幸せにするって、必ず幸せにするって約束したんだ! 死んでたまるかよ!」


 ついに機体の底が大地に衝突した。機内全体に激震が襲う。滑るように突き進む機体が、周囲の木々を薙ぎ倒していった。


 想像を絶する衝撃の強さに全身が揺さぶられ、意識が朦朧としていく中、前方から順に機内が雪崩のように崩れ落ちてくる凄まじい光景が見えた。


 とぐろを巻いた大蛇のような炎がこちらに迫ってくる―――それはまるで地獄の猛火―――なぜ悪いことなど何もしていない自分たちがこんな目に―――


 あまりの恐ろしさに悲鳴を上げた直後、いままで感じたことのない激痛が頭蓋を貫いた。そして、意識が暗闇の中に落ちていくのを感じた―――








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