第35話 朝、差し込む光の中で
――精神の死って、なに?
――存在する意義を見出せなくなった状態、かしら。
――『神』も、そんな状態になるんだ。
――アタシたちにとって、それは人間以上に深刻よ。
――生き残った十三人には、それがあったんだな。
――それが『プラヴァシー』ね。プラヴァシーはアタシたちにとっての『
――あれ、でも、フィスにはプラヴァシーがいないんじゃ。
――いるわよ、ちゃんと。
――どこに?
――ここ。アタシのお腹の中にいる。
――こども!?
――ええ。数百年もの間、アタシの子宮で眠り続けてるわ。生まれ出てくることも、成長することもない、アタシのベビー。『レクァル』よ。
――父親は、誰?
――ふふふ、そんなの決まってるじゃない。ねえ、『コノエ』。
※ ※
エイジア軍閥の総裁、トゥールン・ツェリンの朝は季節を問わず、午前六時から始まる。
トゥールンを起こすのはメイドたちの役割であるはずなのだが、しかしその役割が果たされたことは、少なくともここ数年の間は一度もなかった。
メイドが寝室に入ると、決まってトゥールンは上半身を起こした状態でベッドにいるのだ。
「よく、眠れましたか、ご主人さま」
トゥールンの寝室に入ってきたメイドは、それが当然であるように驚きもせず、主人たるトゥールンに声をかける。小柄な体に、黒いリボンで結んだ下向きのツインテールが映えている。
「おはよう、フジカ。そうだね、よく眠れたよ」
「それはようございました」
フジカと呼ばれたメイドは、目覚ましの飲み物――カレヤクという動物の生乳の入ったグラスを寝台の横の小さなテーブルに置きながら、ほほえみをトゥールンに向けた。
しかし次の瞬間、フジカのその微笑が消える。
「どうか、なさいましたか」
トゥールンは硬い表情で、フジカの目をじっと見ている。メイドたちの前ではいつも柔らかい表情でいるのに、である。
「今日は、フジカ一人なのだね」
起床のお世話は通常二人、もしくは三人のメイドが担当する。トゥールンはそれを不思議に思ったのだろう――
フジカにとってその反応自体は想定内であった。しかし、だ。
彼女には今、自分の主人に『あること』を伝えるべきかどうか迷いがある。アイランズで起こっている独立戦線によるクーデター行動は、厳しい情報統制のせいだろう、全くメディアでは報じられていない。軍上層部だけがその情報を有していて、トゥールンはまだそのことを知らされていないはずだ。
これから起こるかもしれないことを想定し、フジカは他のメイドをトゥールンに近づけないようにした。だから一人で来ているのだ。
しかしトゥールンの表情には「不思議さ」や「訝しさ」とは別の、どこか「硬さ」が見える。『異変』に気づいている様子はない。
ただ、そのトゥールンの硬さが何に起因しているのか、フジカは測りかねた。
「私一人ではお嫌でございますか」
少しの警戒感に、それを覆い隠すには十分すぎるほどの意地悪気な微笑を乗せてフジカが聞き返す。
それを聞いたトゥールンは、しかし、想定をはるかに超える程の狼狽を見せた。
「い、いや、そうじゃない。そうじゃなくて……いや、そうではないよ」
取り繕うように素に戻ったトゥールンを見て、フジカは軽く笑い声をあげた。
「何だか変でございますね、御館様。さあ、ガウンをお召しに」
まだベッドに上半身を起こしたままの状態であるトゥールンに、フジカは持ってきたガウンを着せようとベッドに近寄る。その手を、トゥールンがそっと握った。
「お館、様?」
寝室の大きな窓は、外から差し込む光の量を自動で調整するようにできている。しかし中の光は遮断され、外からは中を見ることができないようになっていた。
その窓を通って来た僅かな光が、トゥールンの、さらに増した緊張感を照らし出している。
「フジカ、聞いてほしいことがある」
「はい、何でございましょう」
さすがにこの状況はフジカの想定にはなかった。フジカは戸惑いと焦りを同時に感じた――トゥールンを安全な場所に避難させる必要があるのだ。
手を握ったまま、トゥールンがフジカの瞳をじっと覗き込む。自分の焦りを気取られまいと、フジカはポーカーフェイスを装った。
「その、私には、本当のことを話して、欲しい」
「はい、そのようにしております」
にっこりとほほ笑むフジカ。トゥールンは意を決したように言葉をつづけた。
「私に、何か隠し事はしていないかい」
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