第12話 ペトリコールの香り

「そっか」


 ルースの言葉を聞いて、ツバキが発した言葉はその一言だった。そして下に落ちたネグリジェを手に取り、胸のところまでたくし上げる。


「やっぱ、恥ずかしい」


 そう言うと、ルースの横に座り直した。


「ツバキ……」

「んー、何かして欲しいこと、ないか? でも、全部は答えてもらってないから、一つだけだぞ」

「……怒らないのかい?」


 上目遣いのままのルースに、ツバキは微笑みを見せた。


「正直、覚えていないことに怒りはわかない。まさかそうとは思わなかったけど、でも、正直に話してくれたから、それでいい。なぜそうなったのかも、今は聞きたいとは思わないな。ただ」


 そこで一旦言葉を切る。そう、その事実を聞いても、ツバキには本当に何の感情もわかなかった。隊長たちを殺されたことに比べれば……


 ルースの瞳に浮かぶ恐怖はまだ消えていない。自分が目の前の『超人』にとってなにかしらの恐怖の対象であるということに気付いたことのほうが、ツバキにとって有意義なことだった。


「オレがルースと『盟約』というものを結んだ時の話は、聞きたい。それも話せないのか?」

「全部は無理だけど……少し、時間をくれない、かな。話せることなら、いつかは……」

「それでいいぞ」


 ツバキのあっさりした答えに、ルースの瞳からようやく負の感情が消える。一体、何を言いたくないのか……ツバキには想像がつかないが、今は置いておくことにした。


「あ、そうだ、もう一つ」

「な、何?」

「ルナーでオレと一緒にいた女の子なんだけどさ」

「う、うん……」


 ツバキには、そう言った時のルースの反応を見ようという心の余裕が生まれていた。だからこそ口にしたのだが、ルースの反応はツバキの予想とは違い、不安、というものだった。


 怒ると思ったんだけどな……


「ほんとに、偶然会っただけだから」

「あ、ああ。分かってる」

「誰かに追われてたらしいんだけど……ルース、彼女のこと知ってるのか?」

「な、なぜ?」


 ルースが驚いた表情を見せる。


「いや、なんか、睨んでたから」

「そ、それは、ツバキの気のせいだよ」

「そうか?」

「う、うん、そうだよ」


 そう言って笑うルースの表情が、ツバキには作り笑いのように見えた。


「妬いたのか?」


 ツバキがそう訊くと、少し考えた後でルースは「うん」と素直に頷く。


「そっか……で、何して欲しいんだ?」

「えっ?」

「だからぁ。オレの質問に答えてくれたのと交換に、何でも一つしてやるって」

「あ、ああ……ほんと? なんでもいいの?」

「エッチはだめ」


 その時ルースがした表情が、素で『おあずけを食らった犬』のように見えたため、ツバキは少し可哀想に思ってしまう。


 ルースが言う様に、本当にもう元に戻れないのなら、いっそ抱かれた方が諦めがつくかもしれない。男に戻ることも、そして『仇討ち』のことも……

 そうすれば、あの女性のことも、何も思わなくなるのだろうか?


 しかしそう思った時、ツバキの心には「いや、まだだ」という声が響く。その心の声が聞こえるうちは、それに従おうとツバキは思った。


 シュンとして元気のないルースの顔を胸に抱くと、「『入れる』以外なら何してもいいぞ」と囁き、ツバキはベッドに身を横たえる。

 ルースの身体は、どこかすがすがしい、ペトリコールの匂いがした。


※ ※


 その翌日、ツバキはルースと共に一日ティシュトリアで過ごすことになった。アスクリス行政府の高官を乗せた航宙艦と随行する何隻か、そしてそれらを護衛するモーターカヴァリエ『フェンリル』がルナーに到着したのだが、ティシュトリアはその支援をルナー宙域で行うことになったのだ。

 夜にルースにされた……というよりかは『した』ことを思い出すと、恥ずかしくなってルースの顔をまともに見れなくなってしまうのだが、ルースも意識しているのか、随分とぎこちない時間が過ぎていく。

 身に着けたドレス――何を着ていいか分からず、結局ツバキはレースの装飾が施されたこのドレスを着て、コックピットに座っていた。


「いつまで、ここにいるんだ?」

「わからないな。会談が終わるまで、だからね」

「うげぇ」


 ルナーで行われるエイジアとアスクリスの高官同士の会談がいつ終わるのか、ツバキには想像つかなかったが、ルナーにいるのならまだしも、宇宙空間でしばらくいるのは、できるなら避けたいと思っていた。


――昔はこんなこと思わなかったのに。


 昨日のことで、ルースと少し心の距離が近くなったような気がしたが、広いとは言えないコックピットの中でルースと二人きりでいると、どうしてもツバキは自分の体臭が気になってしまう。それはどうも、変わりそうになかった。


「せっかくだし、ツバキもティシュトリアの操縦を少し練習しておこうか」


 突然ルースがそんなことを言い出した。ツバキがすることと言えば、重力制御と索敵モニターのチェックくらいなのだが、ルースが言うには、コントロールを切り替えれば、後部座席からでもティシュトリアを動かせるらしい。


「動かすだけなら、支援コンピュータが補助してくれるから、そんなに苦労はしないよ」

「そんなものか」

「そんなもの、かな」


 半信半疑なツバキを見てルースは笑ったのだが、実際やってみると、確かにルースの言う通りだった。かつてツバキが操縦していた空挺戦車と、根本的な操縦原理に変わりがないというのが大きいのだが。

 ただ困ったことに、地上とは異なり、操縦時に疾走感がまるでない。動いているのか止まっているのか、時々分からなくなった。


「これは想像以上に奇妙な感覚だな」

「地上と宇宙の慣性の差はAC支援コンピュータが計算して補正してくれるし、衝突の危険があれば自動制御も働くから、戦闘でもない限り大丈夫だよ」


 地上とはまったく進路変更の時の操作の感覚が違う。しかしティシュトリアは、暴れる様子もなくツバキの操縦通りに動いていた。


「なるほど、ACが壊れたら動かすのは難しいわけか」

「ナイトランダーは、ACの支援を受けずに操縦するよ」

「でも、ACが壊れたから飛べなくなったって言ってたじゃないか」


 地球ミドルスフィアでの出来事を振り返る。ただし、地上戦闘のことは、出来るだけ思い出さないように。


「重力制御がね。ボクにはその適性が無いから……」

「ああ、そんなこと言ってたな。それでも、ナイトランダーが務まるんだな」


 何気なく口にしただけなのだが、後部座席からでもルースの様子に変化があったことに気が付いた。


「あ、いや、嫌味とかそういう意味で言ったんじゃないぞ」

「うん、分かってるよ」


 言葉とは裏腹に、想像以上にルースのテンションが下がっているのが見て取れた。

 ツバキは、座席から少し立ち上がると、後ろからルースの頬にキスをする。


「……ツバキ?」

「お詫びになるかわからないけど。ごめん」

「いや、うれしいよ、ありがとう。さあ、操縦に戻って」


 ルースの声に明るさが戻ったのを確認して、ツバキは操縦桿を握り直した。


――そんなことされて、うれしいのかな。


「結局、ACの故障原因は何だったんだ?」

「回路の一部がショートして焼き切れていたらしい。多分、CDAを受けたんじゃないかって」


 CDAとは、コンピュータ破壊攻撃のことだ。強力な電磁波を発生させてコンピュータを破壊するのが一般的だが、指向性に乏しく、範囲内の対象ならば敵味方関係なく影響を及ぼすため、惑星上や軌道上で使われることはあまりない。


「そんなもの、どこで食らったんだ?」

「ミドルスフィアに降下中、だね。正直、まさか大気圏内で使ってくるとは思わなかったから、防御してなくて。油断してた」

「そりゃまあ、そうだろう」


 そう答えてから、ツバキは強烈な違和感を感じた。


「ちょっと待て。誰から攻撃を受けたんだ? オレたちはタミン基地からの要請で出撃したんだ。その状態でCDAを行えば、オレたちも巻き込まれるんだから、アイランズ軍がしたわけじゃないだろ」

「地上からだね……巻き込まれなかったのかい?」


 前部座席から後ろを振り向き、ツバキにそう尋ねるルース。その言葉は、疑問ではなく。確認だった。


「……降下中に、空挺戦車のコンピュータが壊れたから、手動で降りた」

「大気圏外にいたなら、影響はあまりなかっただろうね。やるにしても、CDAを行ってから降下要請をするはず、かな」

「それじゃあ、最初からオレたちも巻き込むつもりだったって言うのか?」

「一つの可能性、だよ」


 そう言ってルースは、ツバキを覗き込むように見つめる。


「どういうことだ? オレたちは味方から攻撃されたってことか?」

「……あの後のことを考えると、アイランズ軍じゃなくてエイジア軍かも」


 ツバキはタミン基地でのことを思い出してみた。エイジアに雇われた『後始末屋』が徘徊していた……


「理由が、分からない」

「それはボクにも分からないよ」


 ルースが肩をすくめる。

 それが『過失』であると考えるには、あのタミン基地の様子が説明付かない。そこに何かが――ハーディ隊を全滅に追い込んだ何かがある……


 考えに耽るツバキをルースがそっと抱きしめる。ルースの身体から匂うペトリコールの香りに、ツバキは「ずるい」と思った。

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