第3話 わがまま九尾
あるところに、人の手が入らぬ、深い深い森があった。
その森には九尾の狐が住んでいて、百年もの間、雨を降らせているという。
人間たちが森の実りを手に入れようと足を踏み入れても、その不思議な雨のせいで前に進むことはできず、必ず元の場所へ帰ってきてしまうのだという。
森の空は泣き止むことを知らない。
そのせいで森には人が立ち入ることができず、人間は森の資源を手に入れられずにいた。
人々は九尾を恐れると同時に、敬っていた。
けれど時が経つにつれ、なぜ九尾の狐を敬っていたのかを、いつしか人間は忘れてしまった。
枯れかけた大樹のそばで森を守り続けている九尾には、理由があったのに。
*
サァアア、と雨粒が森の木々から滑り落ちてくる音が聞こえてきた。
私はその美しい雨音を聞きながら、ぼうっと煙管をくわえていた。
ふう、と息を吐いて煙をくゆらせる。
白く淡いその煙は、木々の涼やかな香りの中へ、霞むようにして消えていった。
──森の奥深くにある朱色の社。
私が『前世』の記憶を頼りに神社と呼ばれる建物に似せて作った住処だ。私はドライアドが消えてから、もう、かれこれ百年近くここで暮らしている。
「クウ様、クウ様!」
パタパタと騒がしい足音を当てて、襖を突き破らんばかりの勢いで、赤い着物を着た童女が部屋に飛び込んできた。
「んぁ?」
間抜けな声で出迎えれば、童女──私が幻術で変化させた森の精霊は、必死な顔で私の元へかけてくる。
そこへ、私は少し悪戯心が湧いて、着崩した着物の裾から、真っ白なしっぽをそうっと童女の足元へ伸ばしてみた。
「へぶぅっ!?」
童女は私のしっぽに引っかかり、見事にすっ転んでしまった。
私は思わず吹き出した。
「あっは! あんたほんと、マヌケよねぇ」
何回やってもひっかかるんだから、面白い。
「クウ様、やめてくださいまし!」
私がケラケラと笑い転げていれば、精霊はほっぺたを膨らまし、膝をぱんぱんとはらって、警戒しながらこちらに近づいてきた。
私の前に座り、ちょこんと正座をすると、真剣な顔で話し始める。
「クウさま。我々の『領域』にまた人間共が侵入してきたようです」
「はぁ〜? あんたまた、そんなしょうもないことを伝えにきたの?」
「ですが、なんだか様子がおかしくて……」
「だからぁ、人間なんてどうでもいいの! 適当に追い返しておしまいよ。あいつらろくなことしないんだから」
私はブツクサ文句を言いながら、イノシシの毛で作ったブラシで、もふもふのしっぽをブラッシングし始めた。九本もあると、結構ブラッシングも大変だ。
雨の日はなんだか、こう、シケシケしちゃうのよね。
せっかくの美しい毛並みが台無しだわ。
「クウ様、貸してくださいまし」
「クウ様、わたしが」
「クウ様〜」
しっぽを梳かしていると、わらわらと童女たちが寄ってきて、私の世話を焼き始める。
「あ〜はいはい。じゃあみんなで私を世話しなさいね」
私は適当にブラシを渡すと、目をつぶってしっぽを振るった。
すると私の体はあっという間に、美しい一匹の狐になる。
私は普通の狐とは異なり、その体はえも言われぬほどにもふもふで、真っ白で、そして大きい。
幼い頃、一本しかなかったしっぽは、九本にまで増えた。
もちろん、それぞれの先っぽには、色とりどりのキラキラと輝く宝石がひっついている。
私はすっかり成体になったそのしなやかな体を横にして、召使たちの献身を存分に受けた。
◆
私の名前は九尾のクウという。この世界の意志によって〝発生〟した特別な生き物、幻獣だ。多くの人間たちが私を九尾様と呼び、崇め讃え、森の守護者として尊んでいる。
あれから百年の時が流れ、私は立派な成体へと進化していた。
私は生まれたての赤ちゃん狐の頃から森の精霊たちに傅かれ、大切に大切にここまで育てられてきた。私の仕事は多くの精霊が宿るこの森を守護し、魔素に侵されぬよう、この土地を浄化し続けることだ。
ここまで聞けば、私はずいぶんと立派な生き物のように思えるかもしれない。
だがしかし。
その実態は、『前世』の記憶のせいで、怠惰で捻くれ、そしてイタズラ大好きになってしまった、性格の悪い女狐なのであった。
もう百年以上も前の話になるが、私は前世、地球という星の日本という国で暮らす、普通の女の子だった。
お父さん、お母さん、マキちゃん、私の、四人家族。私は死んだ時、確か十代だったと思う。
正直、死んだときのことは苦しすぎて、あまり思い出したくない。
いい死に方じゃなかったのは確かだ。
とてもとても怖かった。今世にまで、心にその傷が残ってしまうくらいに。
無駄に前世で苦しい死に方をした分、なんというか、幸せにありたいという気持ちが強すぎて、ものすごいワガママに育った。
まず、今世の私は大層美しかった。
美しいと、着飾ることがさらに楽しくなる。
私は自分を美しく見せるために、多くの時間を割いていた。
人型時は、真っ白な髪に、空を切り取ったかのように青い瞳。
すっとした鼻梁に、紅牡丹の花びらを連想させる、柔らかな唇。
顔立ちはこれ以上ないほどに整っていたし、プロポーションも抜群だ。
私は世界に二人といない(おそらく)美女に成長した。
美人は三日で飽きるっていうけれど、いやいやいや、ふざけんな、こちとら百年自分の顔を見てるが、まったく飽きないわよ。暇があれば自分の姿を見てうっとりしているくらいだもん。
そして、九本の尾が生えた狐の姿も、これ以上なく美しい。
たまに水辺に映った自分を見て、惚れ惚れしすぎて動けなくなるくらいだ。
こんなにふわふわでサラサラな毛を持つ獣など、この世界のどこを探してもいないだろう。
自分で言うのもなんだが、私は女帝だった。
わがままし放題、やりたい放題。
精霊たちに身の廻りの世話を全て任せ、自分は優雅で豪勢な生活を送る。
森に引きこもり、毎日寝るか、酒を飲むかする日々。
たまに川へ出かけては魚取りをし、人間の里へ降りてはうまいものを食べ散らかして帰って来る。人間たちは私にどんなものでもくれた。この神々しい美しさをもってすれば、私のいうことを聞かない人間など、いなかった。
野を駆け回って遊び、幻でいくつも服を作っては、精霊たちと着せ替えをして楽しむ。この世界はどちらかというと、前世でいう西洋ファンタジーっぽい世界なのだが、私は幻覚で前世で見た神社をアレンジし、豪奢な建物になるよう幻覚を見せている。私の幻覚は、もう本物と変わらない。人の頭を極限まで騙しているからだ。
世界に与えられた仕事もロクにせず、私は遊びまわっている。
まあ、私が存在しているだけで、空気は浄化されているのだから、さぼっているわけではないのだけれど。
◆
「はふぅ。ほんっと、人間なんてだいっきらい」
童女たちにブラッシングしてもらいながら、私はため息を吐いた。
今、私には九本のしっぽがある。
その先っぽにはそれぞれ一つづつ、九色の宝石が嵌められており、私はその宝石を媒介にして、不思議な力を使うことができる。
幼い頃、私のしっぽは青い宝石がはまった一つだけで、できることもそんなになかったが、今ではこのようにして、最高練度の幻覚まで作れるようになった。
しかし愚かな人間どもは、私のこのしっぽの宝石を狙って、ときたまこの森へやってくるのである。
私は人間が嫌いだ。
大っ嫌いだ。
私利私欲で自然を破壊し、獣を殺す。
そのたびに森の精霊たちは減っていき、私は暮らしずらくなる。
そのくせ何かあれば幻獣様、幻獣様とすがってくるのである。
あまりにちんけな供物などを持って。
だから私は、この森に雨を降らせ続けている。
できるだけ、この森に人が近づかないように。
これは幻覚の雨だ。
人間には百年間、この森に雨が降っているように見えているのだろう。
実際、私自身も、ドライアドが消えてからたった一度も晴れた空を見たことがない。
それくらい強烈な幻覚だった。
しかし私たちこの森に住む生物は、これが偽物の雨であることを知っているから、決して濡れはしない。
まあ、今日の雨は本物なんだけどさ。
「クウ様、どうされますか?」
ドラが眉を寄せて言った。
私は優雅に前足を顎に置いて、目を瞑る。
「……今日の雨は、本物よ」
サァアア、と冷たい雨音が、私たちを包み込んでいた。
◆
七日目。ゆめのはこ、すぐそば。
もう時間がない。
早く、お願いだから。
迎えに来て──。
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