ミカ。シークレット
ミカ・レアンは、うっとうしい気分を抱えて
「うち、勉強したいわけじゃないんだからね。お勉強おわったら、さっさとAIタクシーで帰るから」
うっとうしい理由はサリ、横でずっとうるさくしてる小学5年生の妹だ。
「うちがいじめられてるのは、あんたのせいなんだから。変な耳した女の妹~って、男の子がからかってくるの。どんだけツラいかわかる? 成績が悪いのもそのせい。勉強なんか集中できないよ。ぜーんぶぜんぶ、あんたのせい。めいわくよ。家庭災害だわ」
彼女を連れてきたのは、母親からのいいつけだ。自宅運転手の送り迎えを断り、バスに乗り、地下鉄に乗り継いで、目的地に来るまでの道すがら、サリはずっとぼやいていた。
「ママの連れてくる家庭教師は、へたっぴばっかで、なんもわかんないし。ミカが責任とってうちに教えるのは、あたりまえ。えらいなんて思わないでよね。謝罪を返済してもらってる?だけなんから。なんだから!」
ミカは、自分の家を窮屈だと感じている。帰宅地がここしかないから”帰宅”しているが、安らげる居場所でない。よく言えば休憩所。寝て食べて、学校へ行くまでの待機場所と割り切ることにしていた。
そういう環境の反動のせいもあり、親友あろまと過ごす時間をとても大切にしていた。約束のある休日はいつも、見つからない早朝にささっと家を飛びだしてる。今朝は、帰りが朝となってしまい、出かける準備をしているうち、家族が起きてしまったのだ。
放任されて育った。べつにネグレクトというわけではない。食事も衣服も教育も十二分に与えられていた。ただ無関心なのだった。幼いころは、親らしく接してくれていた。小学生にあがったあたりから徐々に希薄になっていき、中学に入ったころには、最低限の言葉もかけられなくなった。
学校の連絡事項を伝えるときも、面倒そうな態度で眼を合わせない。ある日、母親が学校の教員室に押しかけてきた。何事かとミカは聞き耳を立てていたが、親の言い分に驚いた。家庭への連絡はすべてメールにしろと、規定変更を迫ったのだ。そこまでして自分と話したくないのか。ミカは悲しくなった。
能天気に、いつかは、昔のように優しい両親に戻ってくれることを期待していた。心が繋がることをあきらめてしまった。
街を見下ろす円山の高台の家――世間は屋敷と呼ぶ――は、自宅と呼ぶには冷たい空間。片言でも、声をかけられることは、年に数度もない。今朝だけは、それが違った。
「
ミカはいつも、あろまの住まうマンションまで迎えに行く。通学もだ。特殊な体質のあろまを一人で行動させるには、大きな不安があるというのが理由。一種、依存する側面があった。誰かが自分の保護下にあるという感覚。それがミカの精神バランスを保っていた。
学校にいかせない、とは。親の発言とも思えない。ミカの将来がどこへ転ぼうと、痛痒を感じない父母だった。ミカには。失敗作には、とうの昔に興味を失っていたのだ。
ボロの制服を抱え、覚えがない社会人服を着ての帰宅。これにはさすがの親も顔色を無くした。昨日の事件との関係を多少なりとも察した様子はある。だが貴重な時間を詰問に浪費しなし。言い分だけを告げた母親は、買い替え間近な中古家電でも見下ろす視線をミカから離すと、愛情あふれる瞳で妹を抱きしめる。
「どうする?」の応えをミカが伝える前に。答えなど求めてないのだ。
「サリはいい子ね。平凡がいちばんよ。でもお勉強ができるほうがだんぜん楽なのはたしかね。大人になったとき、道がいっぱい開けるって、ママが保証するわ」
「うん、お勉強がんばる」
ミカは、181センチの身をすくめ
「歩くのめんど。しょっちゅうひっくり返るくせして送迎を断るなんて。バカなの?」
「はぁ……サリ。少しは歩いたほうがいいよ。それと図書館は遊び場じゃないから。静かにしないと怒られるよ」
くどくど、しつこい妹。ミカは姉らしく注意するが、サリはすぐさま真上を向いて反発する。二人の身長差は大きく、40センチもある。遠目には親子に見えなくもない。
「わかってるわよそれくらい。私、子供じゃなんだからね。それよりミカ。中では話しかけないで。知り合いだなんて思われたら恥ずかしくて、二度とここに来れなくなる」
「それでどうやって勉強するの」
「決まってるじゃない。本に付箋を貼ってもってくるの。もちろん付箋にはメモね。わからないところはメールするからすぐに答えること。近くにいるのよ。いつでも答えらるようにね」
「ええ?それじゃ私の調べものができないよ」
「知ったことじゃないわ。ママに言いつけるわよ。バカ」
「ぐっ……サリは初めだよね。まず、図書カードを作らないと」
「それくらい、できますぅ~。てか近所の図書室で作ってあるわよ。
バカバカ。バカの連発。温厚なミカだが頭に血が上る。
「怒るよサリっ」
相手は5歳下の小学生。こちらは大人。高校2年が大人かどうか置いとくとして、目上に対する心構えは知らしめる必要がある。精神的で、じゃっかん体罰的に。ミカは懲らしめるべく、きゃしゃな手首を捕まえに動くが、サリはその手をなんなくすり抜けた。
「あ……」
バランスを崩し自爆転倒するミカ。この日8回目。一日の最高記録を更新した。
「へんっだ! ハンパな猫人間なんかに捕まりませんっ」
玄関の回転ドアにくるりと収まると、一足先に建物へ入っていった。置いてかれた形になったミカ。しばらくそこでたたずんで、肘に付いた傷を撫でながら立ち上がる。
「はははは……はは」
情けない。小学生さえもて遊ばれてしまうくらい、圧倒的な運動神経不足を顔をゆがめて笑う。こんな風に生んだ両親を。なにより、なすすべのない自分の姿を呪った。
「おお獣人の人! 初めてみた!」
口笛がヒューと鳴った。通りかかった散歩の男性だった。えっ、と頭に手をやる。被ってない。
「キミ、あれでしょ。昔流行った遺伝子プロジェクト。動物の遺伝子を取り込んで進化した人類を生み出すとかなんとか。どこに住んでんの?学生とか?普通に生活してんだね」
男性は腕にホールドしてたスマホを握りとると、カメラアプリを立ち上げ、ミカにレンズを向けた。ミカは、
「はぁ、はぁ」
停めたドアの中で、荒い息を整えようとした。男性の入ってくる気配はない。たまたま、そこにいて、興味本位で質問したという感じなのだろう。悩ましいことだが、よくあることだ。頭をすっぽり覆った帽子ごしに、自分の耳を撫でる。
遺伝子操作の獣人は珍しかった。遺伝子組技術の発達した
獣人の生き方は、それぞれだ。貴重を逆手にタレントとして活躍するツワモノがいる一方で、あまり気にしない人も多い。気にしても仕方ないと諦めてるのだろうか。ミカのように正体を知られたくない人は、むしろ少数。
イヌ、ネコ、狼、熊……。動物のゲノムが計画通りに、ヒトゲノムと適合すれば、運動神経抜群の新人類が誕生していたのだろう。だがDNAはいまだ解明の道半ば。解析率ほぼ100%であっても、未解決部分は多い。筋肉が成長しやすいなど、多少の向上はあったものの、冗談のようなパワーやスピードを得られた者は、一人としていなかった。
絵に描いたような姿をしてるが、幼少期を過ぎても期待された向上は発現しなかった。経過はいまも継続調査中で、ミカも月に1度、お決まりの検査を受けていた。1期、5人から10人を5年。つぎ込まれた資金に見合う成果は得られないまま、プロジェクトは5期で終了。今世紀中の6期はないだろうと、専門家は口をそろえる。
人類の新たな可能性。その方針に賛同したレアン家は、莫大な資金をプロジェクトに投入した。しかし誕生したミカは、平均的な運動性能すら持ち合わせてなかった。たしかに形はかわいい獣人だ。しかし、筋力、反射神経、視力、聴力……これといった優位性は認められず、むしろ普通の人より運動機能が劣っていた。知力は発達してるものの、天才といえるほどのものではなく、100人に1人はいる”頭のいい子”程度。
”我が子こそ人類を背負って立つ初代””歴史に名を残す人間”。誇大妄想レベルまで期待を膨らませてしまっただけに、両親の落胆は激しかった。親類の反対を押し切った投資も裏目となった。プロジェクトの失敗が明らかとなった時期、幼少期を過ぎたころから、両親の態度は冷淡になっていった。
ミカは、自分が嫌いだった。背が高い以外に特徴がなく、いや人の目を引き付ける背の高さが何より嫌いだった。男性はあっさりあきらめたが、しつこく詰め寄られたり、質問攻めにさらされることがある。もふらせてと寄ってくるのはマシなほう。どこまでも迫ってこられたり、家にストーカーされたり、いきなり耳をつかまれたりお尻を触られることもあった。
期待され、期待を裏切ってしまった罪悪感。気象変動に耐えきれなくなった人類は、いつ滅んでもおかしくない時代。獣人という新たな人類を生み出す未来への可能性に賭けて負けた、両親の諦めの視線。勝手に産んで、勝手に期待して、勝手に見放される。その象徴と言える耳と、尻尾。せめてなにかしら能力があればよかったのだが何もない。なのに、人目を引き付ける背の高さ。目立つのが嫌いだった。
でも自分からは逃げられない。どんなに嫌いであっても。
「警報警報、8秒後に地震が来ます。震源は三陸沖。深さは58キロメートル。マグニチュード7.8。予想される震度は5です。市民の皆さんはお近くの固定物におつかまり頂くか、テーブルに下に身を隠す、屋外に逃げるなど、避難行動をしてください。など繰り返します。警報警報、8秒後に地震が来ます――」
また地震。二度目のアナウンスの途中で揺れがやってきた。今日はこれで3回目。あまりに多いから、誰もが慣れきっており、アナウンスを聞き流すクセがついてる始末だ。曇りガラスの重いドア。その押しノブをつかんで地震をやり過ごす。
サリはもう、受付カウンターに並んでいるのだろう。自分もとっとと入館受付を済まそう。それからあろまをみつけ、個室にこもるのだ。楽しい時間。二人きりの、他人にしばれらない時間を、思い切りすごそう。彼女といれば、自分を忘れていられる。ミカは、ドアを押して建物の中に入った。
「サリ……」
サリはすぐそこにおり、両手で顔を抑えていた。目をぎゅっとつむったままで動かないでいた。何をしてるの、と言いかけようとしたが、口を開こうとしたとたん、ものスゴイ何かが呼吸を圧迫した。
「むはっ」
眼にしみたのだ。何が。臭いがだ。
なんのニオイだ。種類は一つでない。ひとつは、あろまの母親と同じ、夜の女をまとったような香水。あとは、ごちゃごちゃ、ひどすぎて判別できない。あろまと付き合っていれば、自ずと香りにくわしくなる。いわゆるアロマの香りには、大きく7つの系統に分けられるそうだ。
花や葉の清涼感ある”ハーブ”
みずみずしん柑橘果実の”シトラス”
甘く華やかな”フローラル”
エキゾチックな香りの”オリエンタル”
樹脂のほのかや渋み”バルサム”
香辛料の刺激”スパイス”
樹木でも森林浴イメージの”グリーン”
これらはプラスの匂いであり、気持ちを高ぶらせたり落ち着かせたりする効果がある。
プラスがあればマイナスがある。アンモニアなどの窒素化学物が代表格で、刺すような臭いは、心身を活動を萎えさせるには十分すぎる負の臭いだ。
「これはっ」
ツンとした汗のホルムアルデヒドを先兵に、悪臭の兵団が突撃してきた。腐りかけた熊肉を、油と塩をまぶし3種類のミントで下味をつけ、カーコロンで煮詰めてから、オリーブオイルで炒め、タンス消臭剤で仕上げたとすれば、近い臭いができあがる、かもしれない。
こんなの、あろまが嗅いだら一撃だな。などと苦笑いし、そのあろまと落ち合う場所だなと思いなおす。そして遅ればせながら、ミカの背中にいやな予感が走る。
館内は人でいっぱいで、カウンターの混雑は特売スーパーのようだった。そこに列をなすお客だが、彼らは一様に、困ったような表情で、自分たちのほうを眺めていた。ミカはハッとして頭に手をやったが、今度は帽子を落としてない。よくみれば、視線が集中してるのは、微妙に左のほう。穏やかな外光が差し込んむ一面のガラス壁のベンチ。
そこに親友がいた。
「ごめーんあろま、遅くなっちゃって。……あろま?」
身体を壁にもたれさせたあろま。いつもなら、何かしら合図を送ってくる彼女だが、生気というものを感じない。どこにでも持ち歩いて暇さえあれば弄ってる小型PCは床の上。手の平を上に腕をだらりと垂らして、顔は上向きどこを見てるのか視点があってない。口はわずかに開いていた。
「ど、どうしたの嬢ちゃん? どこか悪いの? 救急車!」
傍にいた女性。おかみさん的なマダムという表現が似合いそうな、でっぷりした女性が、あろまをゆすっていた。これが臭いの元だ。
「彼女から離れてください! 早くっ」
「い、痛い痛い!離して! なんて力なのよ」
女性の腕を引っ張って、ドアの反対側まで遠ざけると急いで戻り、あろまの症状をみやった。焦点が合わず半眼になった瞼。奥では瞳孔が開いたまま。意識が完全に跳んでる。かなり危険な状態だ。彼女のリュックをがばっと開いて、ガスマスクを取り出し、あろまの頭にすっぽり被せた。
一度だけ、こうなったあろまを前にもみたことがあった。
あれはミカが中学生になったばかりで、あろまが小学6年生のとき。探検と称して、ふたりで、複合ビルの設備フロアに忍び込んだ。そこで、ビルの排気をまともに食らったのだ。
50階建のうち上はマンション、5階から下には100を超える雑多なテナントが間借りしていた。レストラン、洋服、和服、スポーツジム、保育所、貧困者への給食ボランティア、ペットショップ、があり、総合病院や焼却発電炉も備える。件の設備フロアには、建造物のあらゆるゴミや排泄物があつめられていた。そこでは再利用できるものは資材として活用、残りは燃やして発電に活用する。
設備フロアでは空気さえもリサイクルされていた。熱を循環させての冷暖房の省エネ化であるが、空気にあるのは熱ばかりでない。客と住人の臭い、食材の香り、廃棄物の臭い、医療に伴う薬品。あろまは意識を失った。ミカはパニックになるながらも、
医者は首をひねる。ミカがいうところの臭いと感情との因果関係が、医療マニュアルになく途方にくれるばかりだ。解決したのは、同マンションに居住するあろまの父親。彼は、そこにあったビニル袋をかぶせすと、2分ほど待ってから、無臭の酸素スプレーを吸気させた。あろまは、ほどなく意識を取り戻した。
「あろま。まってて!」
ミカは、脳内に在する
ページトップの”あろま、きんきゅうマニュアル”をクリック。
「1.匂いをゼロにし侵入した嫌臭を排気する手順。1-1.外気をシャットアウト……まではOK。つぎっ」
取り急ぎのガスマスクで、外気はシャットアウトできてる。その次にくるのは排気だ。一時的に酸素供給を絶つやり方は、あろま父のやったtとおりだが、あくまでも非常手段だ。本命は、常時あろまがさげてる
どちらも、あろまの父親が開発したもので、前述の事故の反省が織り込まれたオリジナルデバイスだ。この世にあふれるたいていの匂いに対処できる最高の香り対策機器。目薬をさすような気軽さで、あらゆる臭いを中和し、最善の香り提供する。はずなのだが、親友は何年もみたことがないダメージを受けている。つまり、あの女性が発生させた匂いは、最新の体害臭科学技術をも凌駕していることになる。
「急がないとっ!」
思い切り息を吸いこんでガスマスクの吸排口に口をつけ吐き出す。マスクで中和された臭みのない空気が、強制的に内部に送り込まれていく。これを3回、繰り返して次のステップへ移行。「1の3、2の1」――手順をひとつ塗りつぶしては、独り言ちる。まるで学校の避難マニュアルみたいだなと、頭のどこかがつぶやいた。
ミカは素早く、真剣に、それでいて一字一句漏らさないよう読み、ガイドの項目を消化していった。といっても、空気さえ清浄化させてしまえば大方は終了。感情の底が毒されていないことを祈って、回復を願う。それくらいしかできないが、まだ気は抜けない。
「この人、あろまっていったっけ? ミカはなにやってんの?」
きょとんとしたサリが、あろまの足元に体育座りしている。いたのかと思ったが、何も答えず、ひたすらあろまの容体を観察する。アプリには、彼女が吸い込んだ匂いによる影響がフィードバックされてる。レッド、パープル、イエロー、ブルー、グリーン。
ふぅ。
重いため息を吐きだした。刻々と、雨雲レーダーのように点々と可視化された脳機能の変化を示すイメージが、清浄化していく。一安心。あとは時間が解決してくれる。
「あなたねっ!力任せに突っ飛ばすなんて、どんだけ失礼なのよ? せっかく楽しくおしゃべりしていたのに、ふつう邪魔する? 嫉妬?ユリ嫉妬?」
ドテドテと、女が騒がしく近づいてきた。身体にみなぎらせる嫌悪感。不快すぎる悪臭は、目にも見えそうな濃厚なオーラようで、そこそこ離れているのに鼻孔を刺激してくる。
女はミカをにらみつけ、何か言葉を続けようとしたが、ミカのほうが早かった。回転扉を示しててこう言った。
「高齢なるお姉さま。この子の相手をしてくれていたんですね。ありがとうございました」
ロビーに静寂が訪れた。客はみな雑談を止め、事の成り行きに耳を澄ませる。受付女性も受け答えの音量を絞る。広めの閉鎖空間に緊張が走る。
「ここからは、私が話し相手になります。あなたの用はなくなりました。どうぞお引き取りください。お出口はわかりますね?」
女は、ミカのセリフが理解できなかった、が数秒おいて、「高齢のお姉さま」の意味を咀嚼する。それから、ミカが柔らかく放った言い分の奥に、退場勧告がくっついていることにも気づいて、顔を真っ赤に膨らませた。
「ここから出て行けってことかい? この図書館から退場しろと。図書館は公共施設って知ってた? あとからやってきて、人を邪魔者扱いとか。どこの偉いさんっていうより常識っていうものがないみたいね。どこの学校? 抗議に行ってやる!」
マダムは、胸をドラミングしそうな勢いで憤怒する。ミルキーを被った少女が肩を震わせているのを見て、困って謝罪してくると見込んだ。少女は、ひとこと、指をさしてこう言った。
「あたなは、汚臭テロです」
「え?」
思いもかけなかった。
「気が付いてないんですか? 自分の臭いを。汗臭、年齢臭、女性臭、それにケトン臭」
「し、しつれいね。体臭はしかたないでしょ。あなたも私くらいの歳になれば」
「香水スプレーを空にするのはやり過ぎです!」
「臭いを消すためには、しかたないっしょ」
「後ろをみても言えますか?」
言われるままに、マダムはふり返った。居並ぶ観衆、いや読書目当ての客が、こっちをみている。見覚えある顔もちらほらあるが、みんな、誰一人として、歓迎している風でない。
「ここは本を読んだり、資料を調べ、学問や見識を深めるところです。運動でかいた汗を引っ込める暇つぶしなら、外の公園のほうでやってください。似たようなぴちぴちノウェアの豊満マダムたちのストレッチに混ぜてくれることでしょう」
「わたしは、涼しいここが気に入ってるの。あんたから指図は」
「いいからあっち行け、デブばばぁ!」
「な、なにをするの?!」
ミカは無理やり右回りさせると、背中を押して、回転ドアの中へネジこんだ。ドアの持ち手をつかむと、次の扉の縁を引き寄せ、ドアを回転させる。マダムはぎゃあぎゃあと、4分の1に仕切られた狭い空間の中で騒いだが、外に到達すると、あきらめた様子で散歩道ほほうへ去っていった。
ほっとした空気と、キシリとした緊張。相反する感情が館内を硬直させ時間が止まったようになったが、「次の方ぁ」と受付の声がいたのを、きっかけに、再び館内が動きはじめた。
「……ミカ?」
ガスマスクの、陽光を反射する眼鏡ごしに、まばたき。高校生にしては幼い手が、友人のぬくもりを求めた。目覚めた! 極度の緊張から解放されたミカは、友人をハグしようと踏み出すが、その一歩目。何もない繊維織カーペットに、つま先をひっかけ、膝から転んだ。
「あろま。よかった!……立てる?」
「ふふふ。転んだヤツのセリフじゃない」
二人は笑い合った。
それから、サリと受付を済ませたミカは、あろまとともに借りた個室へ向かう。受付係の女性は、いつもより優しかった。
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