木漏れ日のあろま



 2059年10月03日の朝。9時20分。

 香焚かおりびは、中央図書資料館センターライブラリーに来ていた。昨日の、あの騒動の起点となった、警察本部から歩くこと5分。原始の森を残した冬都長プレジデント公館の小路を通れば、木造デザインの建造物が現れる。


 道すがら、実況検分が続く警察の駐車場を盗み見た。黄色のKEEPOUTと、赤い三角コーンを置いた入口前に警官が3人。市民全員が容疑者であるかのように、眉間にしわをよせる。レーザーで焼かれた車はブルーシートで覆われ、見たことのない機器を携えた鑑識と思われる人物が指示をだすと、警官たちは地面に這いつくばり、1ミリのひび割れも逃がすまいとカメラ付き拡大鏡を路面にあてがう。その上空、空中ドローンが一列に並び、レーザーが照射された方向へと飛行していく。空中通行は禁止、地上の制限はないのだが、通りかかる人車はアンドロイドによって強制停止。警官がよってたかって職務質問をしていた。


 余計な職質を嫌った通行人は、警察署の前を通らぬよう、他の道路を遠回りする。とはいえ、署を中心に向こう3ブロック、および火災現場までが検問の対象。戒厳令並みの体制の中央区セントラルで、警官のみあたらない場所をみつけるほうが難しかった。


 商業地域の大型スクリーンでは、報道が繰り返されていた。街中を危険なレーザー銃が走った一連の騒動。こういうときだけ駆り出される犯罪コメンテーターは、拳をふり上げ、許せないを連発する。


 あろまが、素知らぬ顔でとことこ歩いたのは、反対側の歩道。キビキビした女性警官に、用事と所属と、昨日の居場所を聞かれた。正直に、昨日は警察署にいたと答えると、警官の目がスッと細くなったが、手持ちのバインダーにちょいとメモしただけで、通してもらえた。制服ではないから子供に見えたのだろう。親は一緒じゃないのかと聞かれた。とくに注意を向けられるでもなく、中央図書資料館センターライブラリーに到着する。


 玄関を前に、過ごしやすくなった秋の空気を吸いこむ。予想したとおり、ドアをくぐったとたん気怠い臭気が鼻をついてきた。今日の香炉はペンダントタイプ。吸った息を、ゆっくりと吐きだしながらアロマ香炉インセンスバナーの送風度をMAXにする。あろまにとって、ニオイはすべて騒音。香りで感情がコントロールされるから、雑多なニオイは混乱を呼んで、まとも思考ができなくなるのだ。


 幼いときはパニックのあまり気絶を何度も繰り返した。12歳の誕生日。父親がプレゼントしくてれたのがアロマ香炉インセンスバナー。匂いと行動の欲求を、細かく記録し、記憶と感情のタイプのバランスを、香気パラメータとしてのデータが出来上がっていった。遺伝上の娘のことを不憫に感じたのか、遺伝科学者の臨床実験なのか。理由はどちらでもよかった。いまだ不安はあるとはいえ、あろまは自分で自分をコントロールできるようになったのだから。


 本を嗜好する年齢層は中年から高齢者。つまり”ここでの主たる臭いは加齢臭”と決めて臭気中和シェントキャンセルをリセット。ノイズキャンセルのごとく、フロントロビーに漂うニオイが自分の回りからシャットアウトされた。たばこ臭のように、内装にこびりつく強い臭気だと完全払拭は困難だが、ここのロビー程度なら十分だった。


 中央図書資料館センターライブラリーは、外部の喧騒から遮断され、本を求める人にあふれていた。暦は休日だが、警察近辺に漂う物々しさと比べれば、ウソのように静かだった。受付では3人の女性が対応。並ぶこと3分。あろまの順番となった。ぎりぎり肘が届く高さのカウンターに背伸びして、両手で懸垂をするように寄った。


「閲覧室をレンタルしたい」

「閲覧室ですか有料ですよ。勉強なら3階の学習ロビーのほうがおすすめです」


 受付の女性は、少女首にある時代遅れなペンダントを目を送ってから、事務的に告げる。

 個室に固執する連中はたいてい、部屋代を浮かして良からぬことを目論むカップルだ。目の前の、ともすると小学生にみえる少女はそういう手合でないだろう。友人同士で騒がしくされるケースもあるので、有料であることを報せて引きさがらせる。それが受付応対のセオリーだった。


 中高生の勉強ならパーテーションで仕切られたコーナーが便利だし、どうせ必要な書籍はデスクのスクリーンから選べる。読むのもデータコピーも無料で使い放題なのだ。


「公務員の公務以外での用途は有料となってるわ。半時間で750円になるけど」


 カラオケでいうなら、ドリンク付きで半日歌えるフリータイム料金に近い。ここでは30分で、水のサービスもなく浪費する。本を読みふける時間につぎ込むには、大人でもためらう出費。だが。


「それでいい。2時間レンタル」


 雑音なニオイが嫌いなあろまにとって、大きな価値があった。個室がいい。お金を払ってでも。受付は不思議そうな顔で承諾した。


「3000円になります。目を近づけるか指を触れてください。支払いが完了します」


 受付はシートタブレットを取り出し、レンタルルームの取り決めを掲載したページを表示。あろまはそれをのぞき込み、アイデバイスで虹彩サインする。お小遣いから、電子マネーのペイを払いだす。


「本日は利用者が多くなっており、時間の延長はできないと思ってください。お時間5分前に部屋のアラームが鳴るので速やかな退室をお願いします」

「了解」


 大きな付箋シールみたいなドアキーを受け取ると、微笑ましそうな笑顔をむけてくる女性と入れ替わった。木漏れ日のあたる、人がまばらな、窓際のソファをみつけて座る。降ろしたバックパックからミネラルウォーターを引っ張り出し、ごくりと飲んだ。ミカとの約束まで12分。淡く揺れる秋の光を楽しむ時間はありそうだ。


 ロビーに流れる静かな音楽。カウンターのミニ黒板に”本日は大人っぽいジャズDESU~♪”。USAとかいう国の50年以上も昔のナンバー。初めて聞く曲ばかりだが、気だるいテンポは、崩壊進行中の北の都会に妙にマッチしていた。


 ミネラルウォーターをもうひと口。少し甘めの匂いゼロの水だ。アロマ香炉インセンスバナーをグリーン系にした。外の景色に合わせて森林の、スギのエキスだ。バチっと強めに瞬き、つぶやいた。


「昨日の動画」


 収録された動画ファイルがアイデバイスの中央に現れた。制作された映画やアニメでなく、個人的な記録。昨日の行動を撮影した生データだ。あろまは日頃から起きている全てをカメラリングし、睡眠前にチェックの習慣がある。昨夜は、ミカ・アレンとともに、紅葉山農園に泊まったため整理のタイミングつくれなかったのだ。


 直近36時間のアーカイブから、記憶にとどめておきたい映像をピックアップしていく。具体的には、昨日午後に警察署に到着してから、紅葉山農園に到着直後まで。退屈ないつものピックアップは、10分残せば長いほう。だが、これはおよそ6時間という加工無しの長尺ボリューム。これほどまでの体験は、おそらく二度と、これから死ぬまで、出くわすことは叶わないだろう。それほど危険で濃厚で、いつでも見たい芳醇な時間だ。


「1300から1915までをコピー」


 B5サイズのシート型デバイスを膝の上に広げ、アイデバイスと通信同期させ動画を分割する一連のワークを準備。だがその前にコピーだ。オリジナルはクラウドサーバーに残さなければいけない。近いうち、警察に呼び出される可能性がなくもない。いや警察が間抜けでなければ明日にでも、自宅に押しかけ、任意同行を求めるだろう。


 最悪、犯人扱いされる想定も考えられる。そう、あろまは決めつける。あれだけ派手に街を荒らしたミミズク。二つ名で呼ぶくせに正体どころか名前さえつかめてない間抜けな警察なのだ。行き詰った捜査陣が、誰でもいいから犯人に仕立て上げないと誰がいえよう。強面なのと優し気な警官のコンビで、映画で使い古されたパターンで、犯人扱いしてくる場面がありありと想像できる。


 だとすれば、何かしら、こちらも疑いを晴らせる証拠が必要。犯人は高城精矢だ。そう教えたところで、理由を問われればこっちがヤバい「幽体がおしえてくれた」なんて、いえるはずもない。昨日あのとき、警察に引き渡しておけばこんな面倒はいらなかったのに。紅葉山ごうの行動は不可解だった。

 とにかく動画ファイルは、あろま達が襲われた実録。無罪の証拠という保険となる。


「ふぅぅー」


 吸い込んだ森林の息をゆっくり吐き出す。慎重を期すためには、気負わないこと。笑顔でリラックスが一番だ。作り笑顔でもいい。笑顔は副交感神経に作用し緊張はほぐす効果がある。


 つまらない凡ミスで容疑者リストに連なるのはつまらない。”画像に手を加えた”なんて1ピクセルでも疑われれたら証拠隠ぺいの罪を問われてしまう。ファイルを移動しただけでも隠ぺい工作の準備とうけ取られる……かもしれない。たかがコピーされどコピー。オリジナルには手をつけないのは一片たりとも疑いをもたせない鍵だ。


 オリジナルには一切手をつけず、コピー側を圧縮しDL。クリックするとファイルはクラウドからデバイスへ、5秒とかからずダウンロードされる。完了した圧縮ファイルをただちに解凍し、次に5分ピッチに分割した。


 最後の仕上げはタグ付け。サムネイル化の固定画像をみつめながら、巻き込まれた逃走劇の記憶をファイル名にしていく。これだというものにはマークをつけた。


「駐車場でミカ転ぶ~1階ロビー、紅葉山ごうと遭遇、再び駐車場~チンピラ車、逃走1……」


 あろまの目にだけ映るキーボード。叩くというより触れて、視点でカーソルを合わせ瞬きでファイルを選ぶ。一連の処理は高速。水が流れるようによどみがない。大人ジャズに合わせてフンフン鼻歌を鳴らす姿は、エア指揮とエアピアノに興じるユカイな少女だった。


 ほんの数分でファイリングを終える。水で喉を潤しながら、テキストツールと相関作成ツールを展開する。そうして、頭に浮かんだ事柄を、浮かんだ順にキーインする。


「紅葉山ごう、ミミズクこと高城精矢、海藤ソレイユ、ゴーストライターの陽一、幽体……」


 名前と現象。それから、奪ったという身体の部位。


「右足、目、大腸、甲状腺」


 キーを打つ指がとまる。部位は、ほかにもあったのだろう。あったはずだ。陽一が命を落とし、幽体陽一で漂っていた月日のぶんだけ、臓器も奪われていったはず。どれほどの年月で、数のユニットなのか。見当もつかない。まだ、今は。


 ミカには見えない幽体が、郷と自分にはなぜかみえて話せる。死亡したソレイユにも見えたというし、それは高城とかいうレーザー犯にも当てはまったようだ。


「依り代といった。わたしにも、か」


 知らず、胸に手をあてていた。共通する何かとは、いったい何……なんて、考えるまでもない。部位身体のパーツしかありえなかった。紅葉山ごうが右脚。あろまは……。


「時間は?」


 アイデバイスの右隅で小さく控えていた現在時間が、ビューで大写しされた。待ち合わせ時間ちょうど。ミカはまだ来ない。いつものことだが、性格がずぼらというわけではないことは、あろまは知っている。


 結論を考えるのは次の時にとっておこう。空き時間にできることはわずか。今は、思考を文字に置き換えただけでも十分だ。雲のように、ふわふわと浮いて流れ去る思いつきが、文字情報として固定。人間の文化に順位をつけ、もっとも意義の深い発明をあげるとすれば、”記録”という行為かもしれない。文字を生み出した名も知らぬ歴史の偉人に感謝黙とうをささげた。しめくくりの単語を叩くべく、中指をキー上にすべらせた。

 JAZのピアノが聞こえなくなった。


「……気持ち悪い。なんだ」


 そしてすぐ、妙なニオイが鼻に刺ささる。アロマ香炉インセンスバナー臭気中和シェントキャンセル突き破って、少女の香りの感覚を凍結させた。

 なにがどうしたのか、どうなったのか、認識も回復もできないジレンマに、あろまは落ちいった。


 私は。

 なんでこんなことやってるのか。

 いや、そもそもなぜここにいるの。

 そうだ。

 勉強しなきゃ。

 いけないんだ。

 なんで勉強?

 試験が近いんだったかな。

 試験?


 試験ってなんだっけ。


 ああ。クラスでいっせいに受けるペーパーテストのことか。

 デバイスでなくいまどきペーパーだって。

 本当なら1年生なのに、2年に編入した優秀な私が試験とな。

 編入?


 編入ってなんだっけ。

 勉強?


 なんの勉強だっけ。


 そういや今朝、目覚めた家は臭い農場だったな。

 農場になんか、なんでいたんだ。

 制服は?

 誰かの服を着たんだっけ。

 ミカといっしょに。

 ミカの服だっけ。

 ううん。


 ミカ?

 ミカって……?


「あらまぁ。音楽に合わせてフリフリダンスなんて、かわいい嬢ちゃんね。どこの子? 図書館でおべんきょうなんて。お父さんに連れてきてもらったのかしらぁ」


 見上げると女性が立っていた。真紅のマラソンスーツを着こんだ、硬質な髪を束ねた女性。ジッパーが半分降ろされた上半身は大きくはだけ、そこからはみ出た豊満な――というよりぶくぶくの脂肪で垂れた――胸がたぷんと存在を主張していた。50代か。控えめにいっても、打ち首を覚悟して世辞をいうにしても、40台前半より若とはいえない。息がやや荒い。ジョギングでもしたのだろうか。25℃に保たれた館内にいながら、肩からは湯気が昇っていた。唇がとめどなく動いて、奥の声帯が空気を振動させる。


「暑っついわよねぇ」


 胸元を暑苦しくはだける中年女性の動向は、ロビーにいる多くの客から注目されていた。近づく前に離れるつもりなのだ。ある常連が、ここで知り合った本の仲間にこう切り出す。


「現れたな、体臭マダムおばちゃん。今週の犠牲者は小学生か。かわいそうに」

「ほお。アノ人があの有名なご婦人か。って、どんな人なんだ?」

「知らないんかい。いやおれもよく人づてだけどな。近くのマンションに住んでる人で、毎週土曜に早朝ジョギングするんだよ。臭いを振りまいて、な」

「臭い……? ほわっ。香水、だけじゃないな、これは酷い」

「しーっ声が大きいって。アノ人、涼んで汗が引っ込むまで誰かれかまわず話しかけてくんだよ。時間つぶしに」

「時間つぶしぃ?本は?」

「読むのを見たことない。話しだけならいいが、あの臭いがな。これだけ離れて臭い。傍は地獄が見れるぞ。本好きじゃないから話も合わない。苦痛そのものっていうか忍耐の修業特訓だな。悪気あるわけじゃないから、始末がわるい」

「そだなー人はよさそうに見える。ま、人の話はほっといて、あんたは、何を読むんだ」

「サイトのおすすめ欄にあったのを読んでみたい。”第6の大絶滅は起こるのか(ピーター・ブラネン著)”」

「ナイスチョイスだな。オレも読んだが一種の預言書だなありゃ。くそ暑い日におすすめな科学ルポだ」

「え?怪談的な内容だっけ?」

「背筋が凍るってこと。化石から判明した過去の滅亡と、今の時代がそっくりすぎてな」

「そんなにか。ま現実、地上のほとんどは滅亡したけどな」

「だな。生き残った俺たちは運がいいっていえるのかね。あの小学生は不運だがな」

「まぁな。でもマダムが涼むまでの辛抱さ」



 体臭マダムおばちゃんは、手中に収めたスプレーを首元にプシュ~っとかける。香りはストラス。一般にはさわやか代表格のひとつで、スンと漂う清涼感を好む男性の化粧品に採用される。ひと吹きなら清涼感もあるだろうが、女性の指はノズルから離れない押しっぱなしだ。


 制汗とか清涼とか言われるスプレーの噴射が、女性の汗とまとわる臭いを首から飛ばす。体臭が混在した噴霧が、閉鎖空間の大気の中に浸みこんでいった。いましがたまで、ただの薄い加齢臭だった臭気は塗り替えられた。半径5メートルのエリアを息苦しいものに変えた。犯人はスプレー缶。たった30秒で中身はカラになった。


「あ、お嬢ちゃんの邪魔をしちゃったかしらねぇ。わたし、子供が大好きで大好きで、かわいい子をみるとかまいたくなっちゃうのよ。ああ、でもスラムあたりの子は……。わかるでしょう?汚くてみすぼらしいから。触りたくないわ。お嬢ちゃんみたく、気品のある子が好きなの。ごめんね汗だくで、ちょっとこの辺りを走ってきたもので、ここには涼みにはいったのよ。でもここ、それほど涼しくないわね。わたし、汗臭いかな。ごめんね」


 返事など期待などしてないのか、気まま勝手なしゃべりが止まらない。ごめんねと首の肉を揺らし、今度は紫色のスプレーを取り出した。右の首元にシュッ。左にシュッ。指先で胸元を開いてシュッと。紫色のスプレーの匂いはムスクだった。


 ムスク。元々は、オスのジャコウジカの香嚢から採取するが、ほとんどの動物性香料と同じく天然物はない。”ホワイトムスク”と呼ばれる合成ムスクである。甘い、石鹸の香りとして広く知られているが、香水としては異性を誘惑しつつ当人の気分をも高めるフェロモン効果が有名。このスプレーも使い切った。


 酸味あふれる汗臭に、シトラスがかぶさり、ムスクが添加された。下地に香水もつけていたのだろう。なんとも言えない臭いが熟成され、あろまを巻き込んでいた。

 臭気中和シェントキャンセルで対処できるのは12パターン。加齢臭、老人臭、子供の頭部臭、男性部室臭、中年女性臭、生理臭、油性臭、汚物臭、香水臭、粉塵臭、ペット獣臭、醸造臭どなど。そのほかオリジナルもあるが、この爆臭は、どのカテゴリーにも当てはまらなかった。たとえるなら、停電冷蔵庫をひと月ぶりに解放した汚臭を、消臭装置とカースプレーとで無理に抑え込もうとしたような混とん。


 こんなときにこそ活躍するのがガスマスク。だがこの臭テロは装着する時間的余裕どころか、あろまの記憶からマスクの存在ごと吹きとばしていた。


「あ……う……」


 ぎこちなくあろまの指が、動いた。動くというより震えて、仮想キーを捜した。文字を打つ。そんな積極的な意志ではない、ただ、すがっただけだ。指でもいい。体のどこか動かしておかなけば意識がとびそうだ。意識したわけではない。本能的な逃げ挙動だった。


 人の何かをしようとする意志のおおよそは、感情によって方向性が与えられている。これって楽しい。ランチが美味しい。がんばってバッグ買っちゃった。あいつ憎い。スタイルが決まらない。感情が強ければ強いほど記憶は鮮明になり、根を張ったシプナスが造られる。ブログの段落タグに例えるなら、<h6>より<h1>のほうが、検索エンジンの覚え目出度い。


 また感情は記憶の呼び戻しにも活用される。感情の混乱は、記憶の方向性をめちゃくちゃに壊し、思考の行き場を無くしてしまう。GPSを遮断されたカーナビのように、ぐるぐると回るだけ。自分の位置と行き先が定まらなくなるのだ。


 あろまは、自分が何者であるかを、まだわかっていた。わかっていたのだが、自分という存在が、薄くなっていって、だんだん足元がゆらいでいく。香焚かおりびあろま・・・は、遠く不確かな潮香の雲のようで、ひと吹きしただけで霧散しそうだ。

 文字は読めても意味がわからない。そんなもどかしい疲労感が浸食していく。点は点のまま、字のつながりが示ている事柄が、深淵がつかめなくなっていった。


 体臭マダムおばちゃんのターゲットの不運は、図書館ここのローカルゴシップ。先週は72歳の男性。その前は21歳の女性。新人の受付が犠牲になったこともあった。要は、恒例行事にすぎない。微笑ましく見つめる常連男性も同じ被害に遭っていた。ほかにも、順番待ちの時間つぶしとして体験談を披露する常連がいた。彼らは受付が終わると話題を本に戻して、次々に目的の大図書ロビーへ立ち去っていく。


 窓際のソファでひとり、少女が苦難に直面していた。


 ――――帆が、gmvldsもdぃvじゃgbんsmlvだkjfヴぃお;qtj834pれ9jヴぉdsfljkvめあおvめあslkヴぇdm;ヴぇおあfメア;ロ得rジオヴィ亜土;s氏ffrffjるさz。xdd居l;jヴぁszkmclzdvvfdv田尾lmk。、あj沿いpふぅんt89ン@p3q24t890ウvjヌ3qb93gqvwクjw9オpmcxk。mw@0乎p下WD時gdそっごじぇvdsヴぉj;絵ds字lヴぉ;dsヴぇlw;vmq0@宇井3t0m絵qgじぇぽjdヴぉdjvlsdjv徐栄亜dsvじぇ0@ヴぇパオ;k絵kだヴぉ家lだm絵おm;御gおdlkvbdsmb;sldbjんさじゅいlるrkdfっででええかいい器用乎いいkっけえおええおq4rんfqまぽいかmfj;slijgbav――――


 あろまの膝は、がたがたと震え、置いたシートデバイスが揺れていた。画面上のテキストビューを、あらゆる記号や文字が、恐ろしい勢いで左から右へ、CRされずに次行へ埋めていく。数字も記号も、それから中途半端なローマ字日本語も、まるで意味をなしてなかった。


「お嬢ちゃん。この辺の子じゃなさそうねぇ。地下鉄に乗ってきたのかなあ?」

「……あ、あう……」


―― たccめあ;おgヴぇふぃsvどし;mか;おヴぃえあf;おぎえ3059えjせおzvjsdjヴぁdjヴぁどあもlmヴぁvだbsmヴぉ絵smぼdszmヴぉ;s;乎三小田;ジョイgジオvじぇおs903円音エアpゴアpk毛jqpqkq@pじぇヴぁp目sdl;んsrふぇいおsfれmをげうぃヴィも;sl機4wのb0bwsジオpdslげ位sgjぽg徐sldszllkdsfgjが得御手5のいs;lのン;亜svんKDS@お@j OOLGESJEGOSl;svゲオ0qrじょてmんsdl;;dzsbds;ldsgm度;がgじぇあj越え追いjps;sckskksldskmげパgpk:エアd:lsふぃおぺんさlfれl;gじゃvなdls;だs;::;い;――


 それはどこまでも、どこまでも止まる気配がなく、デバイスの演算装置とクラウドサーバーを圧迫するだけの羅列だった。


 脳が、心が、無秩序なデフラグが記憶の継続を断片化していく中、押し切られそうなインデックスの片隅で、あろまの何かが願いをつぶやいた。


「たすけて…………ミカ…………」


 ミカ、みか?

 みかって誰だったっけ。

 そもそも人、だったっけ。

 ……人って


「え?なんだって嬢ちゃん? 助けて?ヘルプミーかい。はっはっはー、ネットゲームで負けそうなのかい?」


 バラの口臭を履き散らかして、マダムが笑う。ガムかサプリか。外から中まで、匂・臭を纏った女性は、あろまの対極にあった。少女の自我は、細い木綿糸のように、もろく千切れそうになっていた。


 目に映るロビーの色は灰色。思い思いにたたずむ人も灰色。差し込む日差しもまた灰色だった。声と視線で操作するアイデバイスから、カラー映像が送られる。脳に直結した有機基盤には、古来からのパターンに基づいたFFFF56536彩色数が振られているが脳側は認識してなかった。


 アイデバイスはデフォで、視界に動く物体にピントを合わせる。知り合いは青、警察サーバーから入手した危険人物は赤、他人は白。個人の付き合いの深さは濃度で表される。そして目の前の女性は白。400万人の冬都シティ住人にとっては、危険のない安全な人物だった。


 視界の後ろで変化がおこった。軽快で短いリズムが流れ、とある人物の急速な接近を顔写真で報せる。遠ざかり聞こえなくなったふざけたジャズに代わって、その声は、耳の奥まで心地よく響いた。


「ごめーんあろま、遅くなっちゃって。……あろま?」


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