この街の半分は少女のやさしさでできてます

Kitabon

プロローグ

「3分前! 間に合って!」


 少女は、上昇するエレベータの中で、パネルのデジタル時計に哀願した。誰も乗ってこないでと、カウントアップしていく階数を数える。12、13、14……。細い小さな、雨でぬれた両手にかかえた買い物袋。何度も落としそうになるのを抱えなおす。


 25階に到着した。もどかしく開く扉をすり抜け、廊下へと身を転がす。あと1分ある。間に合った。抱えた荷物の隙間からみえる前方を確認しつつ、最大戦速で直進する。このマンションのフロアは18世帯。目的地は11番目。もう少しだと歩みを落としたとき、手前のドアが開いた。その部屋には、男の人と中学生が住んでるが、あいさつを交わしたことはない。


 スルーできると踏んだが、現れた人物にがっかり。それは、世間話を持ち掛けてくるおばさんだった。下階の人がなぜここに。と困惑する。おばさんは、当然のように声をかけてきた。


「リベルテちゃん買い出しかい。偉いねー。なんでいるのかって? 頼まれてね。工事のちらしを配ってるんだよ。あんたの部屋のおばあさん、いても返事しないのね。ポストにいれといたから、後で読んでおいてね」

「工事、ですか」

「ビル同士をワイヤーでつなぐ工事だって。ほら、前の地震じゃビルがたくさん倒れたでしょ。つなげることで倒壊を防ぐとかなんとか。あらま。びしょぬれだね。はやく着替えたほうがいいよ?」

「はい。じゃまた」


 おばさんは子供が好きだ。というより、地震で亡くした我が子の面影を、誰にともなく探そうとしている。12歳にしては幼さの残るリベルテも対象の一人。肌の色が、やや浅黒く、それが、この街の平均から逸脱してるのだとしても、子供は子供ということらしい。気にかけてくれるのはありがたいが、話が長い。今日も少女は急いでいた。一方的な感傷に付き合う時間はなく、気分でもない。通り過ぎようとしたが、それをおばさんが通せんぼする。


「……なんでしょう」

「あわてない、あわてない。これをあげるよ」


 おばさんは、よれたエプロンのポケットに手を入れ、チョコレートを出した。美味しいよ。と言いながら、抱えた買い物袋の中にぽんと入れる。有名な菓子メーカーの小袋は、スーパーなら120円。リベルテが行った闇市なら360円する。チョコの甘さを思い浮かべると、口の中にほんわりと苦みとまろやかさが広がった。

 完全な遅刻だが、その見返りとして価値は十分ある。荷物が邪魔で頭は下げられないかわり、精一杯のお礼を言ってありがたく頂戴した。


 おばさんを見送り、部屋までの8歩ほどを小走りで急ぐ。いったん買い物袋を置いて、異なる鍵が3つ付けたキーホルダーを取り出し、順番にロックを解除していく。回転式鍵の音がガチャリと響いたと同時に、怒りに満ちたわめき声が、浴びせられた。


「39秒の遅刻だ。どこをほっつき歩いてんだいリベルテ! あたしは腹が減ってんだ。鳴って鳴ってたいへんなんだよ!」

「すみません、ハニーラックおばさま、いますぐに」

「いつもより5分減らして20分。その時間で準備しな。1秒でも超過したら……わかってるな?」


 あわただしい夕市の買い物から帰ったカーキアッシュの少女リベルテは、ぬれた服の着替えさえ許されず、テーブルに置いたかごから、食材を取り出していく。夕食はハンバーグ。希望通りチキンとビーフの2種類を料理するのだ。メインの肉はどちらも十勝産。玉ねぎや付け合わせのジャガイモは美瑛産。どちらも断絶されたエリアから船で運ばれた高級品。ブロッコリーは河向うの豊平区産だ。料理は二人分。いつものように、食べるのは老婆だけだ。


 邪魔になる両サイドの髪をゴムで結わい、低い背を補うための台に乗って清潔に片付けたキッチンに立つ。すると、ガシュっという軽い金属音がして、鋭い痛みが背中に刺さった。体の反射が「いたっ!」と反応したがるのを、強固にねじふせる。なにごともなかった風に、そ知らぬふりで、まな板に肉を載せて荒めに挽いていく。次に使うステン製ボウルを、コンマ5秒で引き寄せる。


「おもしろくもないね。すこしは痛がれってんだ。浮浪児が」


 黒い銃口。目につくあちらこちらに狙いをつけては、片端から撃っていく。時間制限をつけた老婆だが、自分から協力するつもりはないらしい。いつも通りに。


 リベルテが寝起きする賃貸マンションの2511室。世話になってるというよりは、ヤングケアラーとして世話してる。間取りの内で繰り広げられるこれが日常だった。対面キッチンなどない、よくある2LDK。ハニーラックが鎮座するのは、10畳ある細長いリビングの窓際のベッド。その反対にあるキッチンのリベルテは、無防備な背中をさらしていた。


 標準的家族が住むのを想定した居室なのだ。部屋の一つは、老婆の私物を詰めた段ボール箱が入口までぎっしり。もう一部屋にも荷物が積み上がってるが、畳1畳ほどスペースが余されている。リベルテの寝床だ。


 部屋の主、老婆ハニーラックは、寝心地のいいベッドに体を起こし、ふかふかのクッションに身を預ける。本当につまらなそうに、老眼鏡の奥から右手で銃をにぎりながら、左手のテレビリモコンで、チャンネルを変えていく。50代前半のはずだが、鬼の角のように逆立つ白髪が、年齢より老けてみせる。


 午後のテレビ番組。時間枠を埋めるのは、どこかでみたような退屈な再放送。ゲストのつまらないジョークに司会者が大げさにツッコむたび、スタジオには爆笑がおこる。リベルテは重い息をははいた。効果音による耳障りな笑い声は、みすぼらしく凍えた自分を嘲笑してるようだ。


 強くなった風が窓をきしませる。笛のような風声に負けまいと、ハニーラックがボリュームを上げ、次次とチャンネルを変えていく。ネット放送を含めればチャンネル数は無限といっていい。映画、アニメ、歴史ドキュメント、誰でも造れる遺伝子講座。リベルテが興味をひく番組もあるのに、政治討論番組でリモコンを放した。テーマは、マシンと生物の融合についての倫理的問題。観る気がないなら、うるさい音を消してほしい。


「キャシーのヤツ。暇つぶしのオモチャをくれたはいいが、威力、弱いんじゃねーかよ。いんや。これはモデルガンの限界か。パチンコ玉だしな。次は、ショットガンに変えてもらおう」


 右手の銃に左手を添え、撃つ。そして痛みに耐えつつ手を動かすリベルテ。

 老婆は、一日中ベッドの上にいる。そこから抜け出る用事は少なく、トイレとシャワーだ。食事は、おおぶりなベッド用テーブルで食べる。リベルテの手を借りなければ、半歩だって立てず歩けないくせに、感謝の態度は髪の毛一本も探せない。


 痛がる様子のない少女にも飽きた、黒い銃も放り出した。しびれっ放しの足をきめ細かい毛布ごしに、丁寧にさする。動かなくなった足。歩くことすらままならくなった足をさする老婆。脳細胞が勝手に、ぬぐい去れない悔恨を思い出そうとする。足がこうなった原因であり、彼女最後の失態だ。

 こうときハニーラックの舌はよく滑る。リベルテにはうれしくないが、料理の邪魔にはならないだけマシになる。いつものぼやきが始まった。


「ったく……あれさえなきゃなぁ……」


 自称、最強ギャング団の頭目の彼女は、銀行の金塊を盗むプランを立てたが、それは警察が仕掛けた罠だったという。話はいつも、「隙だらけにみえた銀行を嗅ぎまわる」場面から始まった。首尾よく潜入したハニーラック達は、隠れていた100人もの警官に囲まれ危うくお縄にかかりそうになる。手下らの機転と犠牲のおかげで、ぎりぎり逃走できたのだが、その時、脚を撃ち抜かれてしまったという。

 ヤバイ警察ともっとヤバイ同業者から身をくらまし、転々とマンションを移り住む逃亡生活を強いられ、今にいたる。


「気がつきゃあ、このありさまだ。数年がみじめに過ぎる……」で、話はいつも終わる。


 幾度となく語ってきたせいか、余計な部分を削りとった洗練されたストーリーに仕立てられてる。講談に立てば客から喝采を浴びるかもしれないが、リベルテには耳タコ。相づちを適当にうちながら、料理に専念する。あと11分。中でも外でも時間に追われ、気が休まらない。


「グズグズすんじゃねー。料理と掃除がテメエの役割だろ。満足にできねえなら殺すぞ」


 くるくると気分の変わる老婆。指先が、また引き金をしぼった。6ミリをワザワザ改造した銃、いやモデルガンの、極限まで縮めたスプリングが鉄の球を押し出す。直径11mm、5.4g以上5.7g以下の鋼製玉。入手が容易な標準BB玉を発射するタイプ。キャシーの指示で希少な遊戯玉を発射できるよう改造した。職人技が無駄に輝くベレッタM9もどき。モデルガンなのに薬莢で、装弾数は10発。

 老婆は、空気抵抗の大きな真球の軌道を器用に読みきり、リベルテの左肩甲骨にヒットさせる。


 ズボンは丈夫さ優先のデニム、薄いインナーにグレイのトレーナーという服装のリベルテ。骨にうけた鈍い痛みに、今度も声をがまんした。痛がれば痛がるほど、あいつは喜ぶ。喜んで、モデルガンの引鉄を引く。連れてこられてから二ヶ月の間に、イヤというほど学習したリアルだ。

 声なんか出すものか。トレーナーの下、浅黒い肌はアザだらけ。だが、まだ生かされており、アザだけで済んでると言えなくもない。古いアザは時間がたてば回復する。好き好んで危険を増やすことはない。


 料理に邪魔になる髪は輪ゴムで縛ってある。おととい、ハサミでザンギリにした前髪の間から、ブロッコリーを睨む。早く終わらせ、自室に引きこもり、買ってきた自分用のゴハン、堅パンをかじりに行こうと。それだけを強く念じる。今日はチョコレートという楽しみもある。12歳の細い腕で包丁を動かしていく。


 リベルテは、ハニーラックが右腕と信じる中年女キャシーが見つけてきた孤児だった。それまでも何度となく、落ちぶれゆくリーダーのため、介護権ハウスキーパーとして、配下の者をつけてきた。だがいずれも、老婆の相手が勤まることなく、早い人だと1時間もたずに行方をくらましたという。このままでは部下が減るいっぽうだ。


 考えたキャシーは、子供なら従順だろうと、拾ってきた孤児を1カ所にあつめた。おとなしそうで、そこそこ機転が利きそうだと見定め選ばれたのがリベルテだった。妹分たちを食わせるため、盗んだ食べ物を料理していたことが決め手だったらしい。


 子供はうるさいから嫌いだと渋ったハニーラックだったが、キャシーは「これで……」とほほ笑んで、もうひとつの楽しみ、モデルガンというおもちゃを渡した。


 大きいがややキツイ黒目。身長148センチ。アバラが浮き出る痩せ型のリベルテは、ハニーラックの仕打ちに耐えに耐えた。キャシーの見込み通りに、それ以上に。毎日マメに訪ねてきていた中年女は、思いもかけない拾い物の成果に安心したらしく、訪問間隔が空くようになってきた。


 リベルテも喜んだ。それまで口に入るものと言えば、もらった堅パンと期限の切れた余りもので、盗みにも手を染めた。かき集めた食材を食べられるように調理するが、一日一回食べられればラッキーだった。住処はそれこそ瓦礫の下。残骸を集めてぼろ切れと板の破片で隙間風をふさぎ、いつ倒壊して下敷きなる恐怖に震えていた。


 ところがここでは一日3回ありつける。寝床だって、危険がなく雨風の吹きこまない暖かい部屋をあてがわれた。汚れたシーツにくるまって古着を詰めた布団に寝そべるだけとしても、雲泥の差。これまでの生活と比べ、まるで天国のようだと少女は喜んだ。最初だけは。


 ハニーラックはいつでも理由なく怒る。気に障ることがあれば、もっと怒る。料理は失敗が許されず、いつパチンコ玉が飛んでくるかわからない。一言一言に神経をとがらせ、ベッドのスプリングのきしみに耳を澄ませて関心の動きを予測、挙動を敏感に読まなければいけない。三日に一度ある食材のための外出も時間制限つき。気の休まる暇がない。


「あと10分か。腹へったなー」


 北の都も10月。老婆は、連日冷たい雨が止まない外を生気のない目で眺める。ベランダにかけた洗濯物やシーツは、定期航行する捜査ドローンからの目隠しだ。風のほしい真夏も、日光の恋しい真冬も、今日のような雨天でも、一度も仕舞われたことはない。端がほつれぱたつくシーツの隙間。くぐり抜けた雨粒が窓を叩く。


 30階建てビルの25階。くっつくほど窓に寄せたベッドからも、眼下の街が眺められた。小さく切り取られた風景には、疲れて肩を落としながら人々が行きかい、自動運転タクシーが信号で停車していた。ダイナミックさに欠けた街角に面白みなどない。それでもハニーラックにとって、隙間から見える景色は貴重であり、テレビに次ぐ娯楽だった。

 隣接したビルや空に浮かぶ雲は眼下より近いが、動きのなさは写真と変わらない。


「ああ?? ありゃなんだい? せっかくの眺望だってのに、うっとうしいね」


 景色の中に動きがおこった。ヘルメット着用の人間をのせたドローンが、こちらと隣の建物との間を行き来しているのだ。雨だというのに。どんよりした黒雲を背景に、消音器で軽減された大型ドローンのプロペラが、わずかにガラスを震わせる。どれもこれも自分よりも高い位置にある。見下ろされる感覚が、老婆には許せない。


 リベルテは料理の手を止めた。ベッドに近づきすぎないよう3歩手前で足を止め、窓の外を見上げる。空中を行き交う精密マシーンに、しばしみとれた。


「なんだっつってんだ、リベルテ!」


 呼ぶ声。声よりも早く命中した9ミリ球。わざと顔を外し、ごわごわなカーキアッシュを狙ったパチンコ鉄球は、髪毛を数本ひき千切り、キッチン壁へと衝突。大理石柄をした化粧板にひびを作ってそこに埋まった。キャシーへ送信する本日分の報告メールが一行増えたなと、少女の冷えた心臓が波打つ。


「はっはー! おしいおしい。で? お前、なんか聞いてんだろ?」

「……はい、ハニーラックおばさま。ビル同士をワイヤー、ケーブル、なんかそんなもので繋ぐんだとか」


 おばさんから聞いたうろ覚えの話をする。黒い瞳を半眼にする。


「はぁ? なんでそんなこと」

「地震対策の、なんとかって、その……」


 適当に端折らないといけない。料理に与えられた時間が減る。


「……料理にもどります」


 リベルテはハニーラックに一礼すると、くるりとキッチンへと舞い戻った。背をさらしたが、パチンコ玉な飛んでこなかった。

 力任せに包丁をつかむと、玉ネギは5mm角の粗みじん切りにする。それからサラダ油を熱したフライパンで炒め、つまんだ塩を加えさらに炒める。バットに取り出し、冷ます間に、肉、塩を入れ、ボウル粘りがでるまでしっかり手で練る。付け合わせはできている。メインが焼きあがってお皿に盛りつければ完成だ。ワインセラーを開け、3段ある棚から肉に合うという赤ワインを選ぶ。


「ははーん? この前の地震のせいか? 老朽化したビルがぶっ倒れた。ドミノだおしに区画ひとつ、廃墟になったっけな」


 地震。世界中どこでも、毎日、絶え間なく数時間おきに地面が揺れている。リベルテはニュースでみた。体に感じない震度0を含めれば揺れていない時間がない。そう環境局が言い切ったのを。数週間に一度の震度3。数受け月に一度おこる震度5。数年おきに陸の形状を変える災害。

 震度5以下のゆれなど、もはや地震だと呼べない。この地は、世界は、地の揺れに慣れきってしまった。原因は温暖化ともいわれたが、巨大な群生工場が失われた現代では、すでに無意味な議論だった。


 この前の地震とは、7カ月前に起こった最新の”冬都シティ認定震災”のことを指した。


「……はい」


 創面。無表情となったリベルテ。感情とらいうのをしまい込んで、常日頃から表情を見せようとしない少女は、能面のように、いつもよりもいっそう無表情となる。


「ありゃあ――愉快だった!」

「……!」


 無表情が深まり、より無機質へと落ちていく。

 リベルテの変容に気づいた老婆の口角がもちあがる。ネコナデ声を作り、この話題を掘り下げようとした。


「リぃベルぅテちゃ~んや? そういや聞くところによると、オマエはそんときに……なに?」

「また……」


 テレビの警報が鳴り、社会に知らしめるべき非常事態の発生を告げた。警報は事故、政治異変、気象情報、偉業などを報せる。可能性は平等であったが、実際は76%が気象異常、うち8割以上は地震だった。情報は早い。画面最上部を単なる警告が行き、立て続けに予測情報が流れた。テロップが告げる。震源は倶知安。深さ53キロメートル。マグニチュード6.3。


 時間をおかず、がたがたと床がうなる。リベルテはしゃがんでテーブルの下に、ハニーラックもベッドにしがみつく。天井には何も吊下げていない。照明は壁からの間接照明が常識だ。たとえ天井式でも、固定か埋め込み式とするのが常識。少女も老婆も、部屋の何かが倒れてきたり落下する心配はしてない。マンションが歪んで亀裂が入ること、最悪、倒壊する可能性を危険視しているだけだ。


「くそ、腹ぁがたつね!」


 縦に横にと、25階のフロアが劇的に揺らされる。反対のビルでは、作業員がドローンに飛び乗る。強くなった雨脚をきらい建物で雨宿りしてした大人たちは、安全な空中へと避難していった。


 棚にあったあらゆるものが、倒れたり床に落ちていく。写真立てや、似合わない猫――ぬいぐるみに真鍮の置物――なども。テーブルの食材袋が横倒しに、転がって、いくつかは落ちてリベルテのふくらはぎに当たった。おばさんのチョコが目の前を滑る。老婆の目に止まらぬうち、ポケットに突っ込んだ。台所のボウルがコマのように大きく揺れて、塩コショウを効かせたミートが散乱した。幸いにも卵は落ちなかった。


 30秒ほど。3分かもしれない。体験時間に意味はないが、ともかくやっと長い地揺れが終息へ向かう。再びテロップが流れ暫定震度を告げた。風でガラスの微震が止まらないが、部屋にはそれなりの静寂がもどった。


 ベッドから手を放し、安定を確かめるように、上半身を軽くゆするハニーラック。テーブルからもぞもぞと出たリベルテは、散らかった食材を片付け、猫のあれこれを戻し、写真立てを拾う。セピア色の写真にあったのは、雪のような白肌のロシア風少女と、陽気そうなアメリカ人風の男性。いつも気になるのだが誰だろうか。


「なあ。ワイヤーは、あの地震のせいだよな?」


 ホコリで薄く白じんだ棚に並べ直しながら、リベルテはほぞをかんだ。話は、今の地震ではなく触れてほしくない7カ月前の件であると。

 ふふん、と。ハニーラックが意地悪に口をひんまげる。


「ビルが倒れてスラムになったあそこみたいにしないためだな? お前の親が潰されたっていう」


 より所のない孤児たちが集まり、わずかな糧を求めた日々。スラムと化した都市のゴミダメで、肩を寄せて生きていくことになった始まりの時。

 父と母を亡くしたあの日がよみがえる。豊平区とかいう、河の向こうの地面が揺れさえしなければ、いまも幸せに暮らせていた。





 幸せに暮らしていたマンションが、突然の巨大地震によって、あっけなく瓦礫と化した。腰から下を挟まれて身動きのとれない母を助けようと、父が奮闘する。だが、折り重なった鉄筋コンクリの壁は、容易に動かない。破裂した水道管から大量の水、千切れが電気線が放つスパーク。どこからか、ガスの臭いが漂ってきた。


『逃げて、リベルテ! あなただけでも!』

『いくんだリーブ!』

『父さん。母さん! いやだよ!』

『…………なら、助けを呼んできてくれ。そうだな。”しこんさん”がいいな。慌てないでゆっくり』

『しこん?助け?』

『……そうよ。ゴホ。でも、あなたがもどるころには、私たちはいないかも。ゴホっ、抜け出してね』

『助かるの?母さん?ホントに?』

『ああそうだ。だけど助けを一応、な?』

『うん。わかったよ』

『リベルテ、父さんも母さんも、キミを愛してる……』

『わたしも。だから待ってて!』


 もうもうと煙りだしたマンションの残骸からリベルテが駆け出した。爆発が起こるの、はその直後。いまならわかる。いや、わかっていたはずだ。二人の言ったあれはウソ。自分を逃すための口実、方便だってことが。


 父と母が死んだこと。それは、肉親がいなくなっただけのことではなかった。近所にあった小学校も、高層ビルの下敷きになり廃校になった。間に合わせで用意された避難所はすぐに定員オーバー。


 避難希望者はリストアップされた被災者に限られていたのだが、衣食住にありつけるとあって、住所不定の難民たちが偽名をかたって押し寄せた。本人確認の指紋や顔を照合するサーバーはキャパオーバーでパンク。混乱に拍車をかけた。

 両親と同じ名氏を乗るものも現れた。夫婦らしき二人は、どこからか手に入れた住民リストを先回りして、リベルテという娘も用意していた。

 知り合いと呼べる真面目な人々は、みんな行方知れず。または、似たような状況におかれていた。

 自分自身を証明するのは難しい。子どものリベルテが身分を証明するものを持ち歩くはずもない。受付の大人は信じてもらえず、それどころか、日本人っぽくない浅黒い肌のせいで、ウソつきよばわり。名前不詳の子供、他国からの流れ者扱いとされ、リベルテの居所はたちまちなくなった。


 悲しむゆとりもなく放り出された。季節は春。積み重なったがれきの下で雨風をしのぎ、ごみ箱を漁ったり、いらないものを恵んでももらったり、時に盗みを働いたり。そこで出会った年下の子供たちを守りながら、ドブネズミのような生きざまを余儀なくされた。キャシーに拾われるまで。




 自動停止したIH調理器を再点火。フライパンを温めてラードを敷く。ぱちぱち焦げる脂のにおいが香ばしい。指定の時間は過ぎたが、満面のハニーラックは別のことに夢中になっていた。


「生きてて楽しいかい?」


 白髪は、転げ落ちた鉄球をもてあそび、そう言った。どう答えたらいいものか。モデルガンに撃たれない正解はなにか。笑いながら楽しいです、なんて芸でもできればいいのだが。リベルテは沈黙したまま、手を動かす。


「楽しいわけないわな……。そう、顔にかいてある。年寄りの世話がつまんねーーてな」


 背中で球を警戒しながら、中身が漏れてしまったボウルの肉をこねて叩く。形になったのを、熱したフライパンに置いた。引鉄は、まだ引かれない。


「人間てなぁ、何か楽しみがないと生きていけない生き物なんだぜ。無理にでも生きがいを見つけるのが大事だ、じゃねーと…………死んでるのと同じだ」


 意外な言葉に目を丸くするリベルテ。しんみり人生を語るのは老婆の柄じゃない。つんと、心が緩んだ。


「みてりゃあわかる」

「ハニーラックおば様……」

「で、オマエの親も、どうせロクデナシなんだろ? 子供は親の背中をみて育つって言うからな。盗みをキャッシーに見つかったんだっけ? 瓦礫につぶされて死ぬようなモブキャラってな! はっはっはっ!!!」

「――!」


 リベルテの何かが切れた。


「あ、あ、あ、あんたなんかに、言われたくない! 」


 握ったのは、ハンバーグが入ったフライパンの柄。ふり向きながら投げつける。

 熱されたフライパンは、老婆の頭上を越えて硬質ガラスに、ぶつかる。調理途中だった肉片がちぎれ、床やベッド、あたり一面を肉と油まみれにした。


「おおおっ、年寄りに暴力かい。このあたしにモノを投げるたあ、殺して欲しいのかい?」


 ハニーラックは、薄笑いを浮かべた。銃を持ち構え、ノーモーションで撃った。

 リベルテはつかんだ皿で顔をかばう。球があたって皿が半分に割れた。破片が落ちるが、割れた半分をつかみ直して、老婆めがけて投げつけた。


「逆切れかい!」


ハニーラックは毛布をたくし上げ、割れ皿をガード。ベッドサイドのテーブルを引き寄せると、突っ込んでくるリベルテのほうへ押し出した。が、機敏な12歳の少女にとって、たいした障害じゃない。さっと体をかわすと、動けない老婆の身体に馬乗りとなった。


ハニーラックも黙ってない。モデルガンの残弾を、パンパン撃ち込んでいく。だが、補給のない球は数発で品切れ。リベルテの、ほほ、腕、頭に当たったが、キレた少女を止められない。


「マガジンをーー」


 枕の下に手をやり、交換カートリッジを取ろうとしたが、両手をがっちりと押さえ込まれ、少女の頭突きが落ちてきた。


「アガッ」

「知らないくせに! 知らないくせに! 父さんは仕事が終わると、いつもお菓子を買ってくるんだ。私がそれ飽きたと言うと、笑って、次から別のお菓子になる。喜んで食べると、飽きたって言うまで、同じものばっかり続く。困るんだ! 太って困るんだけど! 痩せっぽちよりかわいいって言ってくれる!」


 腕を振り上げては振り下ろす。振り上げて振り下ろす。リベルテは、頭をかばうハニーラックを、めちゃくちゃに叩く。何度も、何度も何度も。


「くそっ、がきが、うぐっ」

「母さんは、料理をおしえてくれた。ハンバーグ、パスタ、ギョーザ、カレー、魚の煮付け、ポテトサラダ、なんでもだ! わたしが失敗しても、おいしいって食べてくれた、ああああああああぁぁあぁあーーー!!」


 ガードする老婆の腕を、幼さが残る拳がたたく。わめきちらし、つばと涙でぐしゃぐしゃな顔は、何も見てない。別れの最後のとき、両親のやさしい気づかいが、ただ、思い出された。なぜわたしは、離れたんだろう。あのとき、なぜ、人を呼びに行ったんだろう。背を向けた背中に父が言った言葉。しこんさんとは、誰のことなんだろう。


 いつか老婆は抵抗をやめていた。目がつぶれ、鼻は曲がり、晴れ上がっていた。肌が切れ紫に晴れ上がった顔は、人のモノとは思えなかった。息をしているのかもわからない。


 リベルテは力なく、ベッドから降りる。血液が散らかった空間を無表情で一瞥すると、何も持たずに部屋を後にした。廊下で、誰かから声をかけられたような気がした。


 数カ月暮らしたマンションから、雨けむる街へ歩み出る。灰色の夕方に小さな身体を埋めていく。


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