此処は五分間で構成された世界
またたび
此処は五分間で構成された世界
「此処は五分間で構成された世界よ」
「はい?」
僕の目の前にいる彼女はそう呟いた。対して僕はつい、呆れた声を出してしまった。
「どういうこと?」
「バートランド・ラッセルはご存知?」
「……知らないなあ」
聞いたことがある気もするが。
「その人が提唱した説にこんなものがあるわ。その名も『世界五分前仮説』」
そのまんまのネーミングに思わず笑いそうになったが、真面目に彼女が話すので、そんな無礼なことはしない。
「——それって具体的にはどんな仮説?」
「ラッセルの著書『心の分析』から引用するならば……。世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである——こんな感じかな」
急な言葉の羅列に頭が置いてかれそうになったが、なんとなく理解できた。
「要するに……世界は五分前、このたった五分間で作り上げられた可能性を否定できないってこと?」
「そう」
なるほど——僕は少しそう思った。
仮に世界が五分間で構成されたとする。
ありえない、そう述べるのは簡単だが実は否定できない。
ずっと前の記憶がある。
一日前の記憶だってある。
だがそれでもありえない、とは言い切れないのだ。
もしこの五分間で偽物の記憶を植え付けられていたら?
その記憶が本物ではなかったら?
「確かにありえなくない話だ」
「でしょ?」
彼女は少し悲しそうな表情で、それでいて僕を納得させたことに安堵してるような表情で、こちらを見るのだった。
「……それで、君はその仮説を信じてるのかい?」
「いやまさか」
こちらこそ、いやまさか! である。
君はその説を唱え、僕を納得させて満足したんじゃなかったのか。にもかかわらず、自分は信じてないとおっしゃる。
彼女の意図が分からず少し困る。
「じゃあなぜ僕にこんな話をするわけ?」
「——別に意味はないけど」
「それはひどくないか? 僕だってこの貴重な五分間を、君の話を聞くために捧げたんだぞ」
「えっもう五分経つの?」
「ああ、そろそろ。あと二十秒くらいで」
「……そう」
カチ カチ
「じゃあもう少しだけ話してあげるよ、世界五分前仮説について」
「——世界五分前仮説? なにそれ?」
彼女も訳の分からぬことをおっしゃる。つい、呆れた声を出してしまった。
「……別になんでもない」
「そ、そうかい」
不思議と今日は機嫌が悪いのか。
彼女は僕と目を合わせようとしなかった。
§ § §
「此処は五分間で構成された世界よ」
そう。
ここは五分間でしか構成されてない世界。
私は世界五分前仮説なんて信じない。
あれは、過去の記憶が偽物だとかいう話で、まだ希望的観測な話だからだ。
「えっもう五分経つの?」
たった五分、されど五分。
あるときからこの世界は進むことをやめてしまった。
この五分間に時間が固定されてしまったのだ。
私以外は意識さえも五分過ぎると、五分前に戻ってしまう。まさに。
此処は五分間で構成された世界、なのだ。
「あーあ……よっぽどマシだわ」
「なにが?」
彼は、ため息をついてる私に心配そうに話しかけてきた。
たった五分で移動なんてできない。
毎日彼とは顔を合わしている。
もう何万回見た顔だろうか……これが嫌いな相手だったら地獄である。
まだ良かった、彼で。
「まだ世界五分前仮説の方がマシってことよ」
「——また君は訳の分からないことを言うね、面白いけど」
世界五分前仮説は過去を全否定するが。
この今の世界は、この五分間以外を全て否定する——未来も過去も全て全て否定する。
それに比べたらよっぽど……。
「あっコーヒー飲む?」
「……缶コーヒーでよろしく。煎りたてのコーヒーはとても美味しいけれど、時間がかかってしょうがない」
「君は時間に厳しいなあ、スローフード運動とかご存知?」
「うるさい」
「じゃあすぐ戻るから少しだけ待ってて」
彼は此処から離れる。
すぐ戻ってくるだろうけれど。
「——まだマシか。彼と過ごせる五分間で」
此処は五分間で構成された世界 またたび @Ryuto52
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