沸き上がる孤独に顔を映せば
孤独との付き合い方について小話を。
人は生まれながらに孤独だと説いた哲学者がいる。
人は一人で生まれ、1人で死んでゆくのだ。
だからこそ、死するときに看取られる必要もなく、生も死も、個人的な意味でしかない、と。
しかしながら、人は1人では無い。
生まれてこの方、1人とも会話もせず、1人とも触れ合わず、誰からの腹から生まれなかった人間はいないわけで。
人が人から生まれた時、人は意味を持ってしまう。
そしておそらく人はこの時から、自分の中に一つのゆりかごを作るのでしょう。
意味という名のもう一人を。
これは酔狂な話かもしれません。
いうなれば肉体は肉体であることだけに飽き足らず、意味を求めるようになったのです。
それは画用紙が自我を持つようなもの。
自分の存在に意味を付与したいと思う欲求のことです。
生まれて、自我という欲求を持った時点で、人は二人になるのです。
自分の中に二人もいるのですから、辛いでしょう。
もし、絵が、描かれたものが気にくわなければ、絵は画用紙を恨み、画用紙は絵を恨むでしょう。
さて、ここで疑問が生まれます。
誰が絵を描いたのでしょうか。
画用紙?いえいえ、自分で見れないものをどうやって描くというのでしょう。
絵が、自らを書く。それも無いでしょう。絵は結果であって、結果は過程を描かない。
ならば、誰が、自分の画用紙に絵を描くのか。
答えは単純です。
他者でございます。
他の画用紙が、自分の画用紙に絵の具を垂らすのです。
絵を描くという行為は、主体的行為に見えて、その実歪んだ投影に過ぎません。
現実の有意味を自己解釈し、自己の世界を投影する。
これは、絵に限らず、文、歌でも同様です。
世に言われる創造的行為というのは、自分の世界の投射であって、そこにうまい、下手は無いのです。
いわば、自らが他者となり、投影する行為。
自分自身を投射することで、自己認識をする行為なのです。
品のない言葉に見られがちですが、まさしく、創造的行為は自らを慰める行為に他ならない。
心をコントロールする術であり、人は皆、評価されるものではなく、描くもの、評価するものであることを認識する手段として創造的行為があると考えられませんか。
さて、話を戻しまして、もし孤独と感じるものがいるとするならば、それは自らの画用紙に何も書かれていないからではなく、誰の画用紙にも絵をかいていないからです。
絵を見ることは何故か皆好きです。そして実はみられるのももっと好きなのです。
だって当たり前じゃないですか。今まで二人きりだった世界に、誰かそこに関心を寄せたってことは、それだけ世界が広がったってことなのですから。
孤独はそれで薄くなります。ですが反対に薄まった孤独は、創造することを忘れさせていきます。
人は孤独でなければ生み出せない絵を持っている。
何故でしょうね。満たされれば消えてしまい、孤独に沈んだ時ぼんやりと浮かび上がってくる。
孤独と付き合うということは孤独を好むことでも、焦がれるものでもなく。
ただ浮き上がったそれを形にすることだと思うのです。
それを見てもらい、もし、関心を寄せるものが現れたとして、それに安心を覚えて、またゆっくりと孤独は泥の中に身を沈めるのだと思うのです。
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