4-7.全てをあげたい

 夢から覚めたグリュテは、そっと瞼を開ける。蝋燭の明かりがまぶしい。大分眠っていてしまっていたのか、すでに宵が周囲を包みこんでいた。窓から入る見張り塔の光が夜空と海を照らしているのが、寝台からでもわかった。


「起きたかい、グリュテ」


 海をじっと、真剣なまなざしで見つめていたシプが、身じろぎしたグリュテに気づいてこちらを振り向いた。勝ち気で快活な瞳が今は、陰りを帯びている。グリュテは体を起こして寝台に腰かけると、安心させるように笑った。


「セルフィオさんたち、みんな、大丈夫です」

「見たのかい? 夢の中で?」

「はい。本当に、グナイオスさんたちって強いんですね」


 グリュテは真珠を胸元にしまい、立ち上がる。シプは唇を軽くつり上げた。


「そりゃそうさ、あたしが見こんだ奴らさね」

「恋人、でしたもんね」


 グリュテがからかうようにいうと、シプの顔が生娘のように赤くなる。


「あたしがそう思ってるだけさ」

「伝えてあげて下さい、ちゃんと。好きだって。言葉が大切だっていったの、シプさんですよ」


 ちょっとだけ顔を膨らませるシプは、そうすると年より若く見える。小さい声でわかったよ、とつぶやくシプにほほ笑んで、グリュテは部屋の扉に向かった。


「もう休憩はいいのかい?」

「わたしがやるべきことをやりに行くんです。シプさんはいつでも逃げられる準備、しておいて下さいね」

「行くって、まさか戦場に?」


 椅子から立ち上がったシプが、愕然とした声を上げた。戦場、そう、グリュテは今から戦場に行く。自分の戦場に。でもそれは、セルフィオたちのいる入り口付近ではない。窓から見える海を見て、グリュテは笑みを消した。


「わたしが行くところは、最初から決まっています」


 アーレ島。死ぬために行くのではない、生きるために向かう場所。


「シプさんを一人残すの、グナイオスさんに怒られちゃいますけど、ごめんなさい」


 決意と見て取ったのか、シプが喉を鳴らす。それに笑って、グリュテは部屋を飛び出した。酒場の主人に角灯を一つ借り、酒場から駆け出した。向かうは浜辺、そこになら、手漕ぎ船程度はあるだろう。


 見張り台からの黄色い光に照らされて、海がはっきりと見える。黒が近づいている。ゆっくりと、でも確実にこの島へ。走るグリュテの背後から、窓から顔を出したシプが名前を呼ぶのが聞こえた。けれどグリュテは振り返らなかった。自分がやるべきこと、自分がすべきことがなんなのか、それがはっきりとわかっているから。


 くねった道を駆け下りて、砂浜へとたどり着く。人気のない夜の海というのが、こんなに寂しいものだとは思わなかった。寂しい、その感情に一瞬グリュテは怯んだ。けれど、後戻りする気にもなれない。


 自分ができること。助けること、守ること。そしてただ一つ、自分の胸を占めて止まない想いを力に、桟橋に置き去りにされていた小さな手漕ぎ船を見つけ、乗りこんだ。


 セルフィオさん、と心の中だけで思う。

 

 あなたを守るのは、わたしの番です。


 櫂を使い、静かな夜の海をグリュテはゆく。小さな角灯の明かりと見張り塔の光をしっかりと見定め、まっすぐ、黒に向かって進んでいく。波はそう高くない。むしろ不気味なほど穏やかで、光のせいか黒に染まった海の部分がよく見えた。


 恐怖がないわけではない。『詞亡くし者いじん』になるかもしれないという、どうしようもない魂を震わせる恐れは、グリュテの体をむしばんで止まない。生きている、とグリュテは思う。それは、生きているなによりの証拠。生きたいと願う強い反発から来るものだ。


 海の中程まで、ちょうど黒が至近でも確認できるところまで来ると、グリュテは夜風ではない、心の中に直接入りこむ冷気に気づいた。冷気と同時に、あの、灼熱の熱さも。


 けれど不思議と不安はなかった。震えも治り、グリュテは左手の指輪をそっとなぞった。


「グリュテ!」


 その指輪から突然声がしたものだから、グリュテは驚いた。櫂を落としそうになり、慌てて支えに櫂を押しこむ。声は、象徴媒体から聞こえるセルフィオのものだった。


「グリュテ、返事をしてくれ」

「はい、セルフィオさん、聞こえてますよ」


 きっとシプが、セルフィオへ声を送ったのだろう。シプは殊魂アシュムが赤だから、そう思いながらも、薬指に口づけるようにささやき返す。


「海に出るなんて。なにをする気なんだ、今すぐ戻るんだ」

「だめです、わたしがやるべきことをするんですから」


 小さく笑い声を上げたグリュテに、きっとセルフィオは絶句したのだろう、息を呑む音が聞こえた。


「セルフィオさん、わたし、あなたのことが好きです」


 いって、胸から真珠を取り出した。セルフィオは答えない。それでもいい、グリュテが抱くこの恋が報われなくても、想いだけで生きていける、そんな気がしたから。


「俺も、君が好きだ」


 少しの沈黙の後、思った以上に優しく返されてグリュテは胸の高鳴りをしかと感じた。鼓動が止まず、冷気や熱よりも遙かに穏やかな、でも激しいぬくもりが胸に満ちていく。声は真剣味を帯びていて、だからこそ余計に誠実さも一緒に伝わってくる。


「セルフィオさん、嬉しいです」


 頬ずりをするように、左手を頬にくっつける。うん、と答えるセルフィオの声を、吐息すら聞き漏らすまいとして。嬉しい、ただその喜びだけがグリュテの中に入りこみ、涙が浮かんだ。


「本当に、好きです。初めての恋です」

「俺だってそうだよ。グリュテ」


 よかった、そう漏らすグリュテに、何度も好きだと返されて、グリュテは今ここにいないセルフィオのぬくもりを思い出す。手を絡めたときのあの優しさを、熱さを。離れていても心は同じなら、いつだってそれを思い描けるだろう。例えこれから、なにが起ころうとも。


「わたしだけの騎士様。セルフィオさんは、わたしだけの騎士様です」


 涙があふれ、頬を伝って手に落ちる。熱い。黒の熱さなんて比じゃなく、慈しむべきぬくもりをグリュテは静かに拭って、前を見た。黒が命を、グリュテの殊魂アシュムを察知したのか、ゆっくりとこちらに近づいてくる。でももう、なに一つ怖くなんてない。


「グリュテ、君を失いたくない。側にいてほしい。ずっと側に」

「大丈夫です、死ぬ気なんてこれっぽっちもありません」


 だから、安心して下さい。そう返し、グリュテは揺れる船の上に立った。


「グリュテ」


 左手と右手で真珠を握り、セルフィオの声をさざなみのように流しながら、グリュテは笑う。これ以上なく美しく、晴れやかに。


「万物の体現は、一人の人間が紡ぐもの」


 夢の中で流れてきたエコーの、祖母の言葉を繰り返す。喉がひりつくように痛む。でも、構わずグリュテは言葉を繰り返し、焼けるような喉の熱さに耐えた。


 脳裏に呼び起こすのは優しい思い出。エコーが、両親が、キリルが、師が、そしてセルフィオが与えてくれた暖かな感情。


 黒の動きが速くなった。まるで津波のような形をともない、海のただ中にいるグリュテへ襲いかかろうとしたとき、真珠が強い光を発した。真珠が音を立ててひび割れていく。


「黒の王、あなたにあげます。あなたが満たされるまで、わたしの思い出を、全て」


 入ったひびから、七色の輝きがもれ出る。青、赤、緑、黄色、それらの色が無数の渦となって伸びてきた黒に溶けこんでゆく。あらゆる人々の想いがグリュテの頭蓋に滑りこむ。苦痛も、怒りも、喜びも慈しみも、真珠に封じられていた人の持つ全ての感情を心にまとわせて、グリュテは黒にほほ笑んだ。


「神の名ではなく、エコーの孫にしてグリュテ、その名において、ここに生誕せよ」


 手を広げた瞬間、真珠が黒を遮るように一際強い白い光を発した。真っ白な閃光と共に、殊魂アシュムの色をまとわせながら音を立てて割れ、想いや記憶、閉じこめられていたもの全部をはじけさせるように黒の元へ、光の粒子をほとばしらせた。


 黒は、震える。怯えるように、焦がれるように。怖じ気づいた子供みたいに黒の波は後退し、でも同時に、貪欲に光の粒を飲みこんでゆく。


 グリュテの頭の中から、少しずつ、思い出せたはずの知人たちの顔が薄れていく。集落にいたときのこと、中央島の学舎で学んでいたときのこと、グリュテが今まで刻んできた過去、思い出が疾風のように流れては消え、黒に吸いこまれていく。


 グリュテ、と声が聞こえる。悲鳴みたいなセルフィオの声音が。


 自分はグリュテ、それだけが確かな事実で、それ以外はまるで夢のような感覚に陥る。夢で見た人々の顔が浮かんで、黒に呑みこまれ、感情の渦が勢いよく吸い取られていく。声は自分を呼び続けている。誰よりも愛しく、愛すべき人の声が、自分を呼んでくれている。


 黒はぶるぶるとその身全体を震わせて、波が引くときのように下がった。白い光は未だ止まない。憎しみも、愛しさも、人が持つ全ての感情をグリュテから吸い取って、それでもなお、黒はもやと化さない。黒い瘴気の一部が風に流れ、グリュテはそれを吸いこむ。喉がただれたような熱さと冷たさを帯び、それでもグリュテは怯まない。


 グリュテの脳裏から、誰かの顔が消えた。なにかが失われていく。大事だったなにかが。記憶というものの一部が。それはたちまち速さの度合いを上げ、グリュテの熱を、感情を、体と頭の中から失わせていく。


 真っ白な閃光が再び輝き、夜空に大きく白い衣のようなものを作った。殊魂アシュムをまとわせ七色に輝くそれは、まるで抱きかかえるように黒をこれ以上なく優しく包みこむ。泣きじゃくる子供をあやすかのように。


 黒が薄れていく。少しずつもやと化して、でも逃げるように海の底に沈んでいく。アーレ島から、アーレ島近辺の海から、黒が少しずつ消え去っていく。白い衣は夜空にまたたき、もやの一部を逆に取りこむようにして、はじけた。


 空に渦を巻いていた黒い雲が、空に流れるように消えた。大きく丸い月、白々とした月が大きく見えるのを確認したとき、グリュテの意識はぷっつりと途切れた。

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