第三幕:白の殊魂
3-1.死んでもいい
突風がひどい。甲板の中央にある木の帆柱は濡れに濡れ、辺りは遠くの火山から発される硫黄の香りと、潮気が混じりあう空気に満ちている。
急に来た強いにわか雨でしとどに濡れたグリュテは、蒸し暑さに浮かぶ汗の玉を拭いながら急いで船の中へと戻った。雨の中の航海は危険だと、やはり誰もが思うのだろう、そこいらで座りこむ人々の顔は暗い。
でもグリュテは嵐の中の船渡りを、何度も遺志残しの仕事をしていたときに経験している。波の高さと雨雲の様子、風の強さから、そう危ないものではないと踏んでいた。
「どうだった、グリュテ」
甲板の下、階段の真下にいたセルフィオが、大きい布きれを手渡してくれる。
「この様子なら、もうちょっとで雨は止むと思います」
「そう、それはよかった。さあ体を拭いて。風邪を引いてしまうよ」
うなずき、揺れる船内を歩きながら大金を払ってとった一室に二人で向かう。お金はセルフィオが出してくれたものだけれど、報酬分が少なくならないかな、と場違いなことをグリュテは心配する。
用意された個室に入り、グリュテは外套を脱いだ。船の中で火の術を使うことは、決められた料理人にしか許されていない。発火の恐れがあるからだ。だからグリュテは火をおこすことができない。
赤い外套は雨に濡れていたので、吊ってあった縄に広げてかける。一張羅も雨風のため濡れて、肌に張りついて気持ちが悪い。着替える旨を伝えると、セルフィオは了承し、少しの間部屋の外に出てくれた。
今、二人が向かっているのはもう一つの港町、カラーナだ。歩くと二日以上かかる距離にあるが、急を要するために船を使った。
船なら一日ほどでつく。昨日までいたラクセクとは違い、港町といっても組合が多く存在し、そこには遺志残し組合の出張所もある。術具なども豊富にあるとは、セルフィオの言だ。
遺志残し組合の出張所があるなら、と遺志残しの服に着替えながらグリュテは思う。そこにはきっと、声を飛ばすための赤の象徴媒体があるだろう。それを借りられれば一番いい。これ以上の出費は避けておきたい。
遠回りをさせてしまうことに、最初グリュテは反対した。
けれどセルフィオはかたくなに自分の言葉を曲げようとはしなかった。それを申し訳ないと感じる。上手くいけばラクセクから、そのままアーレ島の近くにあるカトリヴェ島に渡れたのだけれど。
体を拭いて着替え終え、新しい布で身をまといながら扉を開けてセルフィオを呼んだ。
「そういえば、さっき行商人から珍しい果物を買ったんだ。食べるかい?」
中に入ってきたセルフィオが、影から袋に入った、桃色をした林檎のような丸い果実を取り出してくる。手に取ってみると、林檎より柔らかく、匂いは桃みたいだ。
「これ、なんですか?」
「野桃林檎。
「じゃあ、いただきます」
グリュテは今、果物以外の食事がとれない。魚介類をはじめ、肉も試してみたが全部、体が受けつけない状態に陥っていた。
匂いはなんとか大丈夫だけれど、と少し柔らかい果肉の甘さを口いっぱいに感じながら思う。このままでは、匂いだけですら吐いてしまうことになるかもしれない。
桃の甘さと林檎のほのかな酸っぱさが口に合った。昼食には丁度いい。
「
「そうだね、小競り合いが続く限りそうなるだろう。会議でどうにかしようとしているみたいだけれど」
床に座って甘い果汁をすすりながら、終わらなければいい、と感じた心を必死で押さえこむ。
戦場を見たい。また、死体が放つ光を、思いを感じたいという気持ちは膨らんで止まず、それはグリュテの中に得体の知れない高揚感をもたらす。
「もう一つあるからどうぞ」
「セルフィオさんの分がなくなっちゃいますよ?」
「俺は大丈夫。食べられるなら君が食べた方がいい。体力を持たせるためにもね」
「でも」
「俺は食堂で食事するから。あそこは匂いがきついだろう?」
はい、としょんぼりグリュテはうなずいた。食堂近くにいた運搬人が運んでいた魚や肉を見、船酔いにも似た吐き気を覚えたことを思い出す。
まだ昨晩の気持ち悪さはグリュテの体に残り、こびりついて離れようとしてくれなかった。死体を食べている、そう思うから受けつけないのかな、と芯までを食べきり、グリュテはちょっと不思議に思った。
死を受け入れるというのなら、死んだ魚や肉に拒否感を覚えるというのは妙だ。逆に血の滴るような生に近い肉焼き、魚の活け作りなんかには、むさぼりつくくらいの食欲を感じてもいいはずなのに。
「どうかしたかい?」
揺れる室内にも動じず、同じく床に座ったセルフィオがたずねてくるものだから、グリュテは少し迷い、それからはっきりと自分の考えを口にした。グリュテが感じた疑問を、どうやらセルフィオも考えていたらしく、彼はうなずく。
「そこが奇妙なところだね。
「人の死にだけ反応しちゃうとか、でしょうか」
「それも含めて、カラーナでスマトにいる君の師匠に話を聞こうか」
突然連絡なんてしたら驚かれるんじゃないかな、ともう一つの野桃林檎を食べながらグリュテは思うのだけれど、セルフィオの半分、懇願のような意見を無視することはできそうにない。
未だグリュテはセルフィオとの間に微妙な空気を感じてはいたが、その空気は気まずさから来るものではなく、むしろ彼との心の距離は近づいている。不気味な瘴気は、きっとグリュテだけが感じているなにかなのだろう。それを打ち払いたい気持ちに駆られ、グリュテは話を繰り出す。
「セルフィオさんって、
「そうだね、君のいうとおり。俺は
「どのくらいの期間、あの国にいたんですか?」
「幼少期はずっとあそこだよ。そこから旅に出た」
「じゃあ、
「そんな大層なものじゃあないよ。師匠が騎士だっただけさ」
それから二人、またいろいろな話をした。知らない国のことを聞くのは楽しい。他の国のことの話もせがむと、セルフィオは国の特徴だけでなく、そこであった様々な逸話も交え、面白おかしく話してくれた。
意外にセルフィオは饒舌で、もしかしたら自分の気を紛らわしてくれているのかもしれない、そう感じたりしたが。
そうして夢中で話しているうちに、食事の合図である鐘が鳴り響く。水袋で喉を潤したセルフィオが、すまなさそうに扉の方を見た。
「少し離れるけれど、大丈夫かな」
「はい、大丈夫ですよ。セルフィオさんこそ食事、ちゃんととって下さいね」
「一応見たけれど、ここにいる乗客に怪しげなやつはいなかった。安心してほしい」
「わかりました、待ってますね」
すまない、と律儀に謝りながら立ち上がるセルフィオに、しかしグリュテは気楽に手を振る。
彼が安心しろというなら、それを信じるまでだ。どのみち自分に、人の怪しさや隠された殺気なんてわかるはずがない。
セルフィオが部屋から出て行き、小部屋にグリュテは一人残された。吊された角灯の明かりの側に行き、藁に寄りかかるようにしながらいろいろと考えてみる。
白の術は、まだ使っていない。術の波動を使うには精神が安定しているときが一番で、集中力も必要だ。グリュテとすれば早速試してみたかったのだけれど、昨日はそれどころではなかった。
吐き気がこのまま続けば、ろくにものを食べられず衰弱していく。体力が持たず、旅を続けることが困難になるだろう。そのことに意外と進行が早いなと思ったけれど、不安はなかった。むしろ穏やかな気持ちですらある。
緩慢的に、自分は死んでいる。
死を想起させることはグリュテにとって、最早日常の一部だ。自傷行為をしているわけではないけれど、やはり試したいという気持ちもまだある。
短刀はセルフィオが持っていて、ラクセクのとき以来貸してくれそうになかった。多分、と丸い窓から船を揺らす高波を見て思う。彼は、グリュテの欲求に気づいている。
果実を食べて、大分腹も満たされた。少し寝てみようかと体を動かした、そのとき。
どこからか歌のようなものが聞こえた。ほとんど抑揚のない、けれど美しい女性の歌声。琴弾きが歌っているのかな、と少し気になって起き上がった途端、ぐらりと船が傾いた。
怒号のようなわめき声が聞こえる。同時に、甲板を駆け巡る足音が一斉に騒がしくなり、さしものグリュテもなにごとかと扉を少し開けたら、客の一人がふらふらと、生気のない顔で甲板に上がる方向へ向かっているのが見えた。
それはまた一人、もう一人と数を多くさせていて、でも誰もの顔に笑顔はない。目がうつろいでいる。
「
船員の叫び声にも似た悲鳴が聞こえ、それと同時に船がまた、大きく逆の方に傾く。
耳を塞いでも歌声は聞こえてくる。じんわりと体中に冷気を染み渡らせる美声は、人の心に直接作用する。でも、とグリュテは揺れ動く船内で、壁に捕まりながら食堂の方へ必死に向かう。
白を持つ自分には、同じく白の
「グリュテ……」
「セルフィオさん!」
食堂から出てきたセルフィオがふらふらと、重い足取りでこちらに向かってくる。雨の音、悲鳴に怒声、そして歌声が入り乱れる最中、膝を突いたセルフィオを抱き留めるようにして抱えた。
船が揺れ、二人でもつれるように壁の元へ滑り転がる。
必死でこらえているのだろう、セルフィオの甲冑が震えている。剣を持とうとしている指には力が入っておらず、抱えられて立ち上がるのがやっとだ。
どうすべきか、グリュテにはわかっている。試すときが来た。そう心の誰かがささやく。
「セルフィオさん、ここで待っていて下さい」
「なにを……だめだ、君一人行かせるには」
「このままじゃ、みんな死にます」
死ぬことを恐れぬ蛮勇を見せ、グリュテはセルフィオから体を離した。
彼となら、ここで海の藻屑と化してもいい。そうも一瞬思ったのだけれど。
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