2-6.死ぬことを望んでいるというのに

 窓はあまりに小さく、海を眺めることも月を見つめることもできなかった。


 目を閉じ、少し明るい瞼の裏を見ているといろんなことを考えてしまい、寝つきのよいグリュテとしては珍しく、すぐに眠りに入ることができなかった。


 アーレ島での自分の使命、運ぶように命じられた『罪とる手』の存在。


 昼間はあまり浮かんでこなかった様々な重荷が、土砂のようにグリュテの心を重くしていく。課せられた最期の仕事は想像していた以上に辛そうで、ちょっとだけ薄目を開けた。


 セルフィオの方を見る。やはり彼は甲冑を着こんだまま上半身だけを寝床に預け、買ってきたと思しき酒袋を傾けている。


 全身鎧は頑丈そうでつなぎ目もほとんどわからず、暗闇に溶けこむように少しだけの光沢を蝋燭の明かりに照らしていた。


 呪われている。騎士の男は、セルフィオをそう評した。でも、彼はちゃんと言葉も話せているし、少なくとも『詞亡くし者いじん』なんかじゃあない、そう思う。思うだけで、彼のことなんてなに一つ、まだ知っていないように感じるのだけれど。


 『詞亡王しむおう』に呪われるって、どういうことだろう。頭から任務のことを押し返すような強い興味がわいて出てくる。


 殊魂アシュムを喰らう黒の王に、どうやれば呪われて、それでも死ねずにいられるのか、グリュテには想像がつかない。


 彼が灰色よりも濃く、暗い色の甲冑を着ているのは、組んだ人間を見捨てたという悔恨の表れだろうか。灰色は『精死神せいししんフリュー』の色、死にもっとも近い色だ。彼の中に複雑な心境があってその色を選んでまとっているというなら、その気持ちはなんとなくグリュテにもわかる気がした。


 しばらく彼のゆったりとした動作を見つめて、いろいろ考えているうち、緩慢な睡魔がグリュテの瞼を再び閉じさせた――そのとき。


 セルフィオが瞬時に起き上がる音と共に、どさりとなにかが投げこまれる音が足下、窓側からした。なにごとかと思い、グリュテも上半身を起こす。


「そのまま」


 厳しい声音に、肩が震えた。暗闇の奥、セルフィオが剣を抜き放ち、窓の外を見る姿がわかる。なにか鉄くさい匂いが部屋に充満し、やっぱり気になって立ち上がろうとしたとき、足下がなにかの液体に濡れていることに気づく。


 血だった。


「……え」


 蝋燭の明かりで鮮血が石に染みを作っているのが見え、グリュテは一瞬惚けた。セルフィオは動けないグリュテの足下にしゃがみこむ。


「セ、セルフィオさん?」


 彼は答えない。窓の外から放りこまれた麻袋のようなものを、剣の先でつついている。こちらに背を向けるようにし、セルフィオが中を確認しはじめた。


「あの、あの、なんですか、それ。それに血……」

「見るな」


 今まで聞いたこともない厳しく、冷たい声音といきなりの出来事に、グリュテはついていけない。


 でも、この匂いはつい最近、戦場で嗅いだことのある香りだ。無数の死体とあふれ出た臓物、骨、腐った肉の群れ。


 それらを思いだし、どうしてかグリュテの心は高鳴る。緊張からくるものではない。まるでなにかにつられるようにセルフィオの声を無視し、立ち上がって蝋燭の一本を取り、そちらに向ける。


 長躯のセルフィオが隠していても、横からはみ出たものが確かに目に入る。


 彼が隠すものは、犬の死体だった。


 殺されて少し時間が経っているのか、血の勢いは少ないが、それでも獣特有の匂いと流れ出る血はグリュテの頭を痺れさせて止まない。


 死体、ものになった存在、死んだもの、死。頭の中で駆け巡る単語は、グリュテの心に甘い感情をわかせ、違う意味で身震いしてしまう。


「警告か、これは」


 ぽつりとつぶやいたセルフィオの声も、あまり意味を成さなかった。鼓動が早るに任せ、セルフィオの体の隙間から見える犬の死体を、じっとグリュテは見つめ続けた。


 光は見えず声も聞こえない。動物や<妖種>の声は聞き取れず、感情だけを読み取ることになるのだけど、それもできないことをグリュテはただただ、残念としか思わなかった。


「宿を変えた方がいいかもしれない」


 そういって自分へ振り返るセルフィオが、急に口を閉ざした。床に置いた剣に手をかけ、そのままの動きでしばらく、無言の時間が続いた。


「どうして」

「……はい?」

「どうして君は、笑っているんだ」


 こわばった声音に、グリュテは自分の唇を撫でた。唇は軽く弧を描いて上がっていて、あ、と我に返る。


 なぜ自分が笑みを浮かべているのか、グリュテ自身にもわからず瞳をしばたたかせる。唇を元に戻そうとするが、上手く動いてくれない。痺れる頭の中、鼻をつく匂いがグリュテの思考をかき乱す。


「ええと、その、どうしてでしょう。変なの」

「そうか」


 重苦しく、セルフィオは納得したかのようにうなずく。


「それが、告死病こくしびょうなんだな」


 いわれた意味がわからなくて、グリュテは薄い笑顔のまま首を傾げた。


    ○ ○ ○


 朝日に染まりはじめた薄藍の空に、綿のような雲はいくつか浮かんでいるけれど、おおむね晴天といっていい天気だった。雨雲も今のところは見当たらない。


 首都・スマトを出てしばらく行くと小丘に出た。遠くの海からは夜に出た漁の船が、スマトの遠い町並みへ返ってくるのがわかる。水平線から頭を覗かせている陽は少しずつまぶしさを取り戻しており、月が次第に薄まっていくのもグリュテは確認した。


 でも、呑気に辺りの風景を見渡せていたのも最初だけで、水妖馬ケルピンの動きに上手く体を合わせられず、落馬しないようになんとかこらえるので精一杯だった。


 先を行くセルフィオは馬に乗り慣れているのか、悠然とした走りを見せているけれど。ほの青い輝きをまとわせるセルフィオの姿に一瞬見惚れ、それどころではないとすぐに集中を取り戻す。


 水妖馬ケルピンは<妖種>の一種だが基本は大人しい。特に去勢され、調教された雄馬は。群島国ダーズエでは主に移動の手段に使われている。馬よりも速く、持久力があるため一般的に流通している数も多いが、その分値が張る。


 それでも、とグリュテは落ちぬよう、必死に馬と呼吸を合わせる。捕まるよりましだ。


 動きに逆らわぬよう、馬の体温を直に感じながら背筋を伸ばし、ようやくこなれてきたとき、セルフィオが馬の速度を緩めてグリュテの横についてくる。


「そろそろ大丈夫だろう。綱を緩めていいよ」

「は、はい」


 いわれた通りにし、セルフィオが教えてくれたように馬の速度を落とす。


「大丈夫かい?」

「な、なんとか……」

「あそこに岩がある。一度降りよう」


 ほっと胸をなで下ろしかけたけれど、まだグリュテの胸は緊張で固まっている。下手をすれば酒場――兼宿屋で通報されていたかもしれず、軟禁されていたかもしれないのだから。


 ちょうど馬と背丈の合う岩を上手く使い、地面に降りた。お尻がちょっぴり濡れているけれど我慢できる範疇だ。


「すまない、まさかスマトであんなことになるとは思っていなかったから」


 同じく地面に降りたセルフィオが、馬をなだめながらため息をついた。いえ、と小さく首を振ることしかグリュテにはできない。


 犬をむやみに殺すこと、しかも残忍な方法で。それは群島国ダーズエで禁止されている項目の一つだ。


 国教の一つ『麗智神れいちしんアヘナト』の象徴たる犬は、他の国と比べて過剰といえるほど国全体で愛護されている。<妖種>の皮や体液などを採取して売買を行う戦闘商業士たちも、この国で犬科に属するものは、年に一頭しか殺害することを許されぬほどに。


 例え故意でないとはいえ、犬は首を切り裂かれ、体中を突かれて殺されていた。疑いを晴らすのだけで数週、足止めを喰らっていたかもしれない。下手をすれば禁固刑だってあり得た。


 セルフィオはあのあと、素早く動いてくれた。


 混乱するグリュテをさておき、酒場の主人に頼んで水妖馬ケルピンを用意。犬の死体は部屋の中にできた別の影に隠し、他のところで重りをつけ、運河に沈めたらしい。ほんの少しだけ仮眠を交互にとって、宵も明けぬ頃に首都をあとにし、今に至る。


「セルフィオさんが謝らなくていいです。あのままだったら、どうなってたかわからないですし」

「そういってくれると助かるよ」


 グリュテの言葉に、しかしセルフィオの声は未だ固い。当然だ、群島国ダーズエでの犬の扱いを知っているものならば。グリュテも馬の、青緑のたてがみを撫でながらこわばった顔で唇を尖らせる。


「誰が、どうしてあんなことをしたんでしょう」

「警告だろうね」

「警告……ですか?」


 うん、と答えたセルフィオは、ようやく登ってきた陽から作られた己の影へ手をやり、水袋を取り出す。近くに生えていた長い舌のような草の葉を少し丸め、形を整えて作った葉の器に水を入れて馬に飲ませはじめた。


 でも、それ以上のことは口にしなかった。警告の意味がわからないグリュテは少し疑問に感じたけれど、同じように走りっぱなしだった馬をねぎらうため、同じことをする。


 街道から大きく外れた草原は見晴らしがよく、木よりも草の方が多い。


 遠くからどこかで飼っている山羊と羊の声が聞こえた。海からはまだ、潮風が感じられる。グリュテは慣れない乗馬で少し引きつる太股を叩き、服の上からもみほぐした。


「セルフィオさんは、乗馬がお上手なんですね」

「そうかな」

「もともと、どこかの国の騎士様だったんですよね?」

「いや」


 セルフィオの答えはどれもそぞろで、会話の調子が変だ。


「あの、警告ってどういう意味でしょう。わたしに、でしょうか」


 気になってどうしようもなく、グリュテは勇気を出して話を切りこんだ。セルフィオがこちらを向く。なにを考えているのか読み取れぬ兜が、今は邪魔に思える。


「諜報員の存在を、君は知っているかい?」

「話、くらいは」


 グリュテはぼやけた頭を回転させ、教えられた知識を思い起こす。各国がそれぞれの五大国へ、内密に送りあっているという諜報員や機関があるということは知っている。実際出会したことはない、学舎で学んだことだ。


「もし、万が一君の任務がどこかから漏れたとして。一番割を食うのはどこの国かな」


 セルフィオの静かな声音に、グリュテは辺りを見回し、人気がないことを確認してから小声で答えた。


「アーレ島で遺志残しの仕事をする、のは、あまり関係ないですよね。だとしたら」


 そこまでいって、ようやくグリュテは気づく。『罪とる手』がなにをするのか。

天護国アステール、ですか?」

「その通り。きっと奴らは、天護国アステール潜密院せんみついんだ」


 聞いたことのある名前が、しかしぴんとこなくて、グリュテはただ口を情けなく開けた。セルフィオが近くにあった大きな岩に寄りかかり、天を仰ぐ。


潜密院せんみついんは他四つの国だけじゃなく、自国の領地にも諜報員を放っている組織だ。あそこは立憲制とはいえ君主主義的だからね。自国の領民にも容赦はない。情報をつかみ、行動に移す早さはどの国の諜報機関より優れている……もちろんその腕も」

「そ、そんなのに狙われちゃったんですか? わたし」

「俺も、だね」


 セルフィオの言葉に、グリュテは少しの間考えた。諜報員は、所属する国によって違うけれど、殺しも行うと聞いている。『罪とる手』を持つ自分を殺しにかかってくるということも当然、想定の範囲内に考えなければならないだろう。


 殺される、一瞬思い描いた光景に甘美にも似た痺れがまたグリュテの身を震わすが、頭を振って無理やりその感覚を追い出す。


「これから旅を続けるにつれて、彼らが襲ってくることは想像できるね?」

「はい、一応ですけど」

「首都のスマトでもう彼らは動いた。これからは最低限のときに町に寄ろう。他は街道と森を通っていく」

「そっちの方が危なくはないですか?」

水妖馬ケルピンが使える限りはこいつらに頼るから、奴らより素早く動くことができるかもしれない。慣れない乗馬だから辛いかもしれないけれど、頑張ってもらえるかな」

「わかりました。足を引っ張らないようにしますね」

「怖くはないかい?」


 尋ねられ、小首を傾げる。不思議と不安はなかった。むしろ興味にも似た高揚感がグリュテの中にはある。


 彼らはどうやって、自分を殺すのだろう。無論口には出さず、首を振って否定だけを示したけれど。


「頼りにしてます、セルフィオさんのこと」

「……そう」


 馬の美しい、歌声のようないななきがむなしく響く。グリュテは嘘をついている自分に気づき、隠れて吐息を漏らした。


 ――わたしは、死ぬことを望んでいるというのに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る