1-4.助けて下さい
軍港とも呼べる港の裏側にも、一応市場はある。本当なら、市民や観光客であふれているはずの通常の市場へ向かいたかったところだ。でも、今は遺志残しの衣装で普段着ではない。死を運ぶと忌避される自分が行けば、せっかくの賑わいをしらけさせてしまうだろう。数回やったことがあるからわかる。
遺志残しというのは、と集団から離れ、裏路地を歩きながらグリュテはそっとため息をついた。どこであろうと邪魔扱いだ。
それでもこうして組合がちゃんとあり、学舎も整備されて、国から補助されている分だけまともだろうか。
他の国、例えば遠き南西の
広い運河の上、そこに浮かべた商用船で商人たちが声を張り上げてはいるが、表の市場ほどの賑わいはない。青や緑の外套をまとい、鋼衣を着こんだ兵士たちがつまらなさそうにあくびをし、グリュテの姿を見つけるたびにぎょっとする顔を作るのが、なんだかおかしかった。遺志残しがここに来るのは、そんなに珍しいのだろうか。
グリュテが見たかった工芸品の類いはあまり売られておらず、売買されているのはもっぱら武具の類いで退屈だ。確かに果物や魚、肉をさばく包丁とか短刀を使うときもあるけれど、それは学舎の方でちゃんと備蓄されているものだし、今のグリュテには必要ない。
キリルは今頃、各同業者に賃金を払い、預かった金で船長と報酬のやりとりを繰り広げていることだろう。五歳年長の兄弟子はああ見えて交渉術に長けている。人の心の機微に聡いところもあるし、と首から下げた真珠を指先で撫でながら、そんなことをしている未来の自分を想像して、ちょっと首を傾げる。
できなかった。明日こうしているだろうな、くらいは予想の範囲内だけれど、一年後、三年後、そして今のキリルと同じ歳になる五年後の予想がまったくつかず、不思議に感じた。昔はもっと、師やキリルを見てああなりたい、そんなふうに感じていたのに。
近くの酒場から酒と魚の焼ける匂いがただよって、グリュテの腹が小さく鳴る。陽はちょうど昼食頃を示していて、林檎しか食べていないグリュテとしては少し、小腹が空いた。蜂蜜酒も飲みたい。
でも、気づけば少し遠くまで来てしまっている。市場のどこでとキリルに指定はされなかったけれど、さすがに兄弟子を置いて先に昼食をとるというのは、グリュテでも申し訳なさを感じる。
そろそろ戻ろうか、そう思って青鈍色に塗られた石畳を踏むのをやめたとき、目の前の角から男が現れ、勢いよくぶつかった。
酔っ払っている男はふらつく程度で、でも小柄なグリュテは思い切りその場に尻をついた。小さく悲鳴を上げるグリュテを見下ろす男の目は、胡乱げだ。海の男とも兵士とも違う鼻をつく据えた匂いに、思わずグリュテは顔をしかめる。
「ぶつかっといて、なんだ、あぁん?」
「あ、あの、ごめんなさい」
「謝るだけで済むかよ、立てよ」
「あっ」
無理やり腕を引っ張られ、左手首につけた鈴がしゃらりと音を立てる。でも、男はそれすら邪魔くさいといわんばかりに顔を歪め、酒臭い息をグリュテに吹きかけてくる。蜂蜜酒や葡萄酒ではない、傭兵が好んで飲むという麦酒の嗅ぎ慣れない臭いは、グリュテの怯えを増幅させる。
「詫びってもんがあるだろうが」
「す、すみません、ごめんなさい。わざとじゃなかったんです、本当に」
無精髭が頬に触れるまで体を近寄らせて、男は手首を握る手に力をこめた。
痛い、といいそうになってこらえる。随分酔いが回っているのだろう、グリュテが遺志残しだと気づいていないようだ。それとも外の国から来て、ものを知らないからだろうか。
周りに兵士はおらず、商船の船もちょうどない。角の奥に反対向きに押しこまれ、そこが行き止まりであることに気づく。通りで人気がないわけだ。
「姉ちゃん、いいの持ってんな」
完全に人のいない運河の行き止まり、奥は海という状態に焦ったグリュテは手を振りほどこうともがくが、そのせいで首から下げていた真珠が男の目に映ってしまったらしい。
いやな笑みを浮かべ、酔っ払いは大切な真珠を鎖ごとつかんで離そうとしない。
「あ、あの、だめです、それに触れないで」
胸に隠しておけばよかった、と今更ながらグリュテは後悔し、自分の迂闊さを呪った。
鉱石なんて高価なものをつけていれば、否が応でも目を惹くだろう。特に白の力を持った真珠などは高値で買い取りされる。
でも、高値かどうかなんてことより、幼いときから持ち歩いていたという真珠はグリュテの一部だ。それを無造作にいじられて、グリュテは泣きそうになった。助けて、と思わず心の中でささやく。
「こいつをもらうぜ」
「だ、だめです。お金なら払いますから」
「こっちの方がよっぽど金にならぁ」
あがいてももがいても、太い指は真珠をつかんで離さない。
酔っ払いの片手が、グリュテの細い首に無造作に触れる。ぞくりとした。
気味の悪さからくるものではない、もし、その両手の力が首に集中したら。首を締められたり、へし折られたら。そう考える自分がいて、グリュテは一瞬、どこか遠い夢心地に浸る。
だが、鎖がこすれる音がグリュテの意識を元に戻した。我に返り、なんとかこらえてくれている鎖と繋ぎ留めが壊れないよう男の方に近づき、片手で真珠をかばうように握る。
しばらく応酬を続け、ついに強い力で引っ張られて鎖がちぎれかけそうになった、瞬間。
「やめるんだ」
酔っ払いの背後、角側から長躯の影が現れる。聞き覚えのない声はキリルのものではない。男が舌打ちをして背後を振り返り、それから小さく肩を跳ね上げた。
現れた誰かは騎士、というべきものか定かではないが、鈍色の全身鎧を着ており、その腰には一本の長剣があった。その鞘も、柄も鼠色。顔は見えない。ほぼ南国といってよい
「なんだおめえ、邪魔……」
「やめろと、いっている」
鈍色の手甲に包まれた指が、酔っ払いの肩をつかんだ。
声は穏やかで優しげだったが、その力は相当だったもので酔っ払いが悲鳴を上げる。真珠を握る指が離れ、グリュテは思わぬ救い主を仰ぐように、影から現れた騎士を見つめた。
「わ、わかったよ、なんもしねえ。悪かったな、姉ちゃん」
「あ、はい。こっちの方こそごめんなさい……」
突然の救いの船に、グリュテはほっとしながら真珠を両手で隠すように握った。荷物が地面へ落ちる音がする。でも、荷物なんかよりこっちの方がよっぽど大事だ。
酔っ払いはつかまれた肩をさするようにし、そそくさと角を曲がりどこかへ行ってしまう。
男性の騎士、声からしてそうだとグリュテは思うが、彼はしばらく男が去って行く様子を見つめていて、横を向いたままだったけれど、ゆっくりとグリュテの方に向き直る。
「大丈夫だったかい?」
「は、はい」
「そういうものは、隠して歩かないとだめだよ」
「そ、そうですね。わたしったら」
「でも、暴力はもっといけないことだ。君が無事でよかった」
「はい……」
グリュテは恥じ入るようにうつむき、両手に収まる真珠を見た。
三日月の印が掘られている真珠はうっすらと光を放っていて、もしかしたら気づかぬ間に白の術を発動させてしまっていたのかもしれない、とグリュテは内心で慌てた。
でも、もし発動させていたなら、周囲にいた兵士たちが駆けつけてきていただろう。頭の中に反響する声に驚かない限りは。それがないということは、自分の気のせいかもしれない。
「今のはきっと傭兵崩れだ。それを象徴媒体だと思ったんだろう」
騎士の言葉にぎくりとし、こわごわと彼を見上げる。事実、そうだった。
象徴媒体とは、術を強める鉱石のことだ。
装身具として作られ、対応する神――真珠の場合白だから、色と呼応する『
「あの、助けて下さってありがとうございました」
「声が聞こえたから」
「え?」
落ち着きのある声音に、どの声を聞いたのだろう、とグリュテは小首を傾げた。
小さな悲鳴だろうか。でも、そこここにある木でできた酒場からはひっきりなしに騒がしい声が流れてくるし、琴弾きの詩までしっかりと耳に入るほどだ。グリュテのわずかな悲鳴など、到底聞き取れるものではない。
「グリュテ! どこだ、グリュテ!」
「あ」
少し近くから自分を呼ぶキリルの声が聞こえて、ちょっと慌てた。その様子を見ていた騎士は、もう一度角の向こう側を見て一つ、うなずいた。
「迎えがきたようだね。それじゃあ」
「あ、ほ、本当にありがとうございました!」
大きく礼をして、グリュテが顔を上げたときにはもう、騎士の姿はなかった。
早足なのかな、と思いながら、見えないように真珠を胸元にしまい、落ちた荷物を拾って角から出る。運河の通りに騎士の姿が見えないことをグリュテは不思議に感じた。あれだけ目立つ格好をしていたなら、遠目にもわかるはずなのに。
「グリュテ、なにをしている、こっちだ」
ぼんやりと周囲を見渡すグリュテへ、反対側の運河側を歩いていたキリルがもう一度声をかけてくる。不機嫌極まりない顔をしていて、またやった、と自分の失敗を嘆いた。
かけられた木の橋を渡り、キリルと合流すると、うんざりした様子でキリルが腕を組んだ。見回りの兵士数人が何事かとこちらを見ているが、奇異の視線などものともしないような姿勢は見習いたい、とグリュテは思う。
「あまり遠くに行くなといったはずだ」
「ご、ごめんなさい、キリルさん」
それでも騎士の姿が気になってもう一度、辺りを見回してみるが、どこにもない。あんなに甲冑を着こんでいるならその音もするはずだと思うのだけれど、周囲の喧噪にかき消されたかのように――いや、存在そのものがなかったかのように音すらしない。
「どうした。気になるものでもあるのか」
「あの、ここを誰か通りませんでしたか?」
「誰かとは?」
「全身灰色の、甲冑を着た大きい人です。多分騎士さんだと思うんですけど」
「灰色の甲冑だと? そんな風変わりな騎士がいるか。象徴媒体はつけていたか?」
「わかりません、全身が甲冑でしたし」
「相手の
「で、でも実際にいましたし。この道を通るはずなんですけど……」
食い下がるグリュテに、疲れたようなため息をキリルは吐き出した。
「そんなことより、早く帰るぞ。ここはあまり治安がよくない」
「は、はい」
その言葉の意味が今はよくわかる。酔っ払いに絡まれたことは、キリルには黙っておいた方がいいだろう。
「……ものは見られたか?」
「あ、はい。でもあんまり、工芸品とか売ってなくて。今度の休みに表の方の市場に行こうと思います」
「そんな日があればな」
ちいさなキリルのつぶやきに、グリュテは目をまたたかせた。
なんでもない、と頭を振るキリルがさっさと踵を返すものだから、グリュテは少し、大股になって後に続く。
キリルは運河に浮かんでいる、人を運ぶための漕ぎ船を見つけると、客を待っていた漕手へ声をかけた。急ぎで、と頼む声が聞こえる。懐の隠しから出した運賃は、グリュテが予想していた以上に多い。
「早く来い。急ぐぞ」
緑と黄色に塗られた船にキリルが乗りこんだのを見て、グリュテも船に乗りこむ。二人が乗るには少し大きめの船で、でも腕は確かなようだ。ほとんど揺れがない。
船は複雑に入り組んだ運河を正しく進み、他の船とぶつからないよう慎重に、それでも通常より早く合間を縫っていく。
次第に裏から表に出、市民街を通っていく船の上で、グリュテはいつまでも騎士の姿を探そうと後ろを見続けていた。だからキリルが、辛そうな、複雑な顔をしてグリュテを見ていたことには気づかない。
そこには哀れみという名前の感情が、確かにあったことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます