オリンピックの名花たち
北風 嵐
第1話 チャスラフスカ
東京オリンピック(1964)で、女子体操個人総合、平均台、跳馬で3個の金メダルに輝いたベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア・現チェコ)は、その端正で気品をあわせもつ美貌と、優雅でダイナミックな演技で日本中を魅了し、「オリンピックの花」「東京の名花」と呼ばれました。日本人は彼女の美貌とすばらしい演技にほれぼれしたものです。
当時私は大学受験勉強の只中にありました。「こんな年にオリンピックするなよ」と言いながらテレビの前に釘付けでした。
隣のおばさんが「あのスチャラカ、いや、チャウチャウ、チャウラフスカや。下噛むわ。なんと素敵なんやろ」と云っていたのを思い出します。うちの母なんぞは、そこは賢く、「チャスカ」と勝手につけた名前で呼んでいました。
1964年の東東京オリンピック、ドイツのベルリンオリンピックに続いて開始される筈でしたが、大戦で中止になった歴史があります。戦後、日本で初めて開かれたオリンピックは、アジアで初めて開かれたオリンピックでもありました。(残念ながら中国は不参加でした)。
「オリンピックの花」と云えば女子体操でしょうか。レオタード姿がやはり、何とも・・魅力的です。(当時はさらに)その名花達の物語である。名花といえば既に名前が上がっているこの人。「おばちゃん、それでもチャウでぇー」と言わなくてはならない
チャスラフスカ
1968年チェコの民主化運動『プラハの春』の支持を表明して『二千語宣言』に署名をしたことによって、当局から身を隠さざるを得ず、その後の署名の撤回を拒否し、まともな仕事にも長い間ありつけなかったという冷戦時代の悲劇を味わいました。このような政治的な情勢でメキシコオリンピックの出場が危ぶまれたが、東京オリンピックに続いて、彼女は鮮やかな活躍を見せたのです。メキシコオリンピック後、彼女は東京オリンピックで知り合った陸上競技の銀メダリストと結婚しますが、不幸な結婚であった。
彼女を襲ったのは社会的な悲劇だけでなかった。痛ましい事件が彼女を襲う。彼女の息子が離婚した夫(父親)を殺すという事件が起きた。一時、精神的にも変調をきたした時もあったようだが、1989年共産党政権が崩壊後、民主化運動を指導したドプチェク大統領の顧問アドバイザーとして復活を果たし、チェコ日本協会の名誉総裁としても両国の親善に貢献しました。
この辺は『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』後藤正治著(文春文庫)に詳しい。いい本です。是非一読を勧めます。物語といいますが、この本をベースにネットで検索を駆逐して書いたものであります。
その東京オリンピックの体操(男女)のメダル結果は、金メダル順では、1位 日本 5個、2位 ソ連 4個、3位 チェコスロバキア 3個だったのですが、全て男子だったのが残念でした。それでも女子総合では3位と女子団体初のメダル獲得と頑張ったのです。メダル数ではソ連(18)日本(12)チェコスロバキア(6)の順でした。
女子個人総合では、ソ連のラリサ・ラチニナとベラ・チャスラフスカの一騎打ちとなり、優勝したチャスラフスカの 優美な演技は「オリンピックの名花」と讃えられ、絶大な人気を博し、平均台、跳馬と個人総合の金メダル3個に加え、団体でも銀メダルを手にしたのです。団体総合で頑張った日本女子でしたが、個人総合では池田敬子選手の6位入賞がやっとで、東京オリンピックの女子体操ではソ連、チェコの名花達の印象だけが強烈に残ったのでした。
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