のっぺらぼう

秋田山彦

第一眠

"お先にいかせていただきます"

それが彼女の最後の言葉だった。彼女とは半世紀程の時を供にしたが、夫婦の会話はなく、供にイベント事をしたりということもなかった。そのせいか、彼女に関して私の脳裏を深く刺激するような出来事は思い出せない。ただそこにいる存在。言うなれば、空気のような、刺身に添えられるつまのような_____。しかし、無くてはならないそんな存在だった。


彼女はよく慕われる人だった。人下手な私と違って、よく馴染み、感情の機微に敏感で人付き合いの上手な人だと、共通の友人達は口にしていた。たしかに彼女は笑い話には笑顔で、悲しい話には湿っぽい顔で話していたと思う。とにかく人と感情を合わせるのがうまかったのだ。そのおかげか、彼女のお別れ会には大勢の人が来た。私も顔を見たことある大人から、どこで知り合ったのか見当もつかない子供まで、様々な人が彼女を見送りに来ていた。

なので、私も彼女と別れてからの一月程は多忙な日々を過ごした。お別れ会の準備や片付けもさることながら、慕われる人だったがゆえに様々な貰い物をしていた彼女の残した物を整理していたらこんなにも月日がたっていた。今思い返せば長い夫婦生活でこの期間が一番彼女のことを思って過ごした日々なのかも知れない。と、夜も更ける頃、彼女の行っていた家事を終わらせ眠りにつくために潜った布団から出した頭で思いを巡らせる。


そうして、彼女のことを思い夜を過ごしていると、ふと彼女のよく言っていた言葉を思い出した。

"きっと、あなたの夢に出てくる私に顔はないのでしょうね"

その時は、いくら人に対して無頓着な私と言えども、流石におよそ五十年もの時を供に過ごした人の顔を思い描けないわけがないだろうと憤慨したものだ。

だが、今こうして彼女のいない夜を過ごし彼女のことで頭を巡らせてみると、そもそも彼女が私の夢に出てきた事がないと思い至る。いや、流石に一回くらいはあるのであろう。

なんせ、五十年も供に過ごしたのだから。きっとあったはずだ。しかし、彼女と私のことだから互いに無言でただそこにあるだけのようなつまらない夢だったのだろう。それならば記憶に残らないのも仕方ないのかもしれない。私と彼女はそういう関係なのだ。

と、言ってしまえば聞こえは悪いのかもしれないが、無言でも半世紀の時を供にできると思えば私と彼女は相当に仲のよい夫婦であったと言えなくもないような気がする。

そうして、彼女のことを思えば思うほど彼女について頭を巡らせれば巡らせるほど私は意外と彼女に対して関心があったのかも知れないと思う。ならば、半世紀の時を経て彼女と語り合うのも良いのではないだろうか。もし夢に彼女が出てくるようなことがあれば語りかけてみようと思い、私は眠りについた。


そこは、自宅の庭だった。庭には私の飼ってる金魚の小さな池とその横から私の好きなピンクの椿が池を覆うように枝を伸ばして植えられている。休日の昼間はそこで何をするでもなく過ごすのが私の日課だった。角のほうには、彼女がどこから貰ってきたのか分からないアジサイが植えられていたが、とくにこれといった世話をするでなくても毎年慈愛に満ちた青い花を咲かせる姿を見て逞しいものだと感心していたのを思い返す。いつみても心が休まる自慢の庭だ。

だが、今求めているのはその光景ではない。私は彼女の姿を探す。中から洗濯機の動く音が聞こえるからどうやら家の中にはいるようだ。しかし、どこにいるのかさっぱり見当がつかない。試しに"おい"と呼んでみるが返事も無ければ近づいてくる足音もなかった。ふと、時計を見てみると針は15:30を指しているのを見て、彼女の反応がない訳に気づいた。

彼女は、毎日15:00頃から2階で趣味の手芸をするのだ。趣味で気持ちを休めてその間に洗濯物をすませる。これが唯一の休憩時間だ。と、言っていたのを思い出した。その話を聞いたときは結局家事をしてるじゃないかと思ったが、どうでもよかったので口にしなかった。

2階にあがってどんなことをしているのか、少しからかいにいこうかと思ったがやめることにした。なにも無理に語りかける必要はないのだと思ったのだ。きっと、私が語りかける言葉もどうでもいいことなのだから。

ただ、それならそうと先に言ってくれればいいのにと思いながら、私はしょうがなく庭の手入れをすることにした。


私と彼女の距離は遠かった___________。

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