闇の中の企み――4
出陣の太鼓は響いている。兵たちの足取りも、いっそう慌ただしい。
それなのに篤英は、香菜実と二人きりでいる。用事とは、彩乃たちにも聞かれたくないことらしい。厨房も通り抜け、一度は兵の行き交う廊下に出て、そして武器がすべて出されてがらんとした武器庫に入らされた。
香菜実が入ると、篤英は武器庫の戸を閉める。
「今後のことを手短に話す。よく聞け」
父はまっすぐに香菜実の目を見た。従ってはいけない、と香菜実は反射的に身構える。父がちゃんと自分を見るのは、自分に都合のいいように利用する時だけだ。結果として誰かが傷つくことになろうが、気にしない。
「父上は何を、始めるつもりですか」
いつもならここで、頬を殴られる。一乗谷ではよくこうして、父に怒鳴られ、張り倒されてきた。勝手に口を開くな、と。だが今の篤英は、眉間に皺を寄せるだけだった。香菜実はなおさら緊張し、両手を固く握る。
「間もなく川の向こうの奴らと戦闘になる」
怒りというより焦りをあらわにしながら、篤英は言い始めた。
「儂も同行することになる。富田長繁の護衛も兼ねてな。無謀な戦いになるだろう」
城の兵たちは、三万三千の敵を相手に血気立っている。そのような中で、篤英だけが冷静に事態を見つめていた。
「これから起きる戦いに勝算などない。夜襲を仕掛けるとはいえ、無謀に暴れたところで散るだけだ」
だから、と篤英は声をさらに小さくした。
「儂らが城を打って出て、一揆勢の中に切り込んだのを見計らったら、城に火を放て」
香菜実は、体を硬直させた。
――父上は今、私に何を命じた?
「わからないのか。城に火を放て。そして城から逃げ出せ。この城が焼けているのを見れば、追い詰められて血に飢えている兵たちも一気に士気を落とす。総崩れになるだろう。儂はそれを見計らって、富田長繁を討つ」
暗い中で見える父の顔は、一乗谷で見せたものと同じだった。かつて君主と喘いでいた者を殺めようとする時の、恍惚とした輝き。
「一揆勢の目の前であやつを討てば、儂は殺されない。お前も襲われたりはしないだろう。残った儂とお前、二人そろって生き延びるにはこうするしかない」
香菜実は、父が醜く見えた。
もし火を放ったら、そうして混乱を巻き起こしたら、どれだけの人が犠牲になるのだろう。こう空気が乾燥しているならば、周囲の町にまで火は燃え広がる。
優しくしてくれた彩乃も、死の危険にさらす。
香菜実は、もう一度拳を握った。今度は動揺ではなく、怒りで。
「……無様ですね」
父を貶めるのは、生まれてからの十三年間で初めてのことだった。
「いらない犠牲を増やしてでも、自分たちだけ生き延びようとするなんて」
娘に言われて、父の目に動揺が走る。そして怒りが浮かんだ。拳を振り上げて、一乗谷でよくそうしたように、香菜実の頬に当てる。香菜実はよろめくが、地面に踏みとどまった。口が切れて、血の味が広がるけれど、香菜実はじっと篤英を見つめていた。
――こんな痛み、佐奈井が味わった痛みと比べたらはるかに楽だ。
「小娘が知った口を開くな。言われるまま動けばいいと何度言えばわかる」
篤英の声が大きくなった。
「慶充は、こんな方法で生き延びようとはしない」
兄の名を出され、篤英はぬうう、とうなった。今までずっと、慶充のことなどどうでもよさそうに振舞っていたのに。
「私もここの人たちを死なせたくない」
香菜実は、胸倉を掴まれていた。篤英に持ち上げられて、踵が浮く。
「儂の言うとおりにしろ。自分が生きる方法を選べ。どのみち気軽に他人を助けられるほど、この世は生ぬるくはないぞ」
出陣の太鼓の音が、さらに大きくなる。もうすぐ城門が開くという合図だ。
篤英は舌打ちし、香菜実を離した。
「いいな。城に火を放て。逆らうのは許さんぞ」
言い残して、篤英は駆け出した。香菜実を構う様子もなく、兵が集まっている城門のほうへと急いでいく。
香菜実は、体から力が抜けた。戦の直前の喧噪の中で、床に力なく膝をつき、父を見送る。
だが父が武器庫から出ていき、姿が見えなくなると、香菜実は再び立ち上がった。彩乃のところに戻らないと。彼女と離れたくない。たった今命じられたことを話して、彼女らも生き延びられる方法を探すのだ。
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