哀傷を抱えてもなお――1

 佐奈井さないは、父に見守られたまま横になっていた。

「父さん」

 話しやすい状況ではある。凍也とうや日向ひなたは薪を集めに外に出ていった。園枝そのえ理世りせも、情報収集のためとやはり外出している。この家の中にいるのは、峰継みねつぐと佐奈井だけだった。

 慶充よしみつのこと、今後のこと。まだまったく整理しきれていないけれど、一乗谷から逃げた昨日よりは状況は飲み込めている。だから落ち着いて父と話せるつもりだった。あくまで、昨日よりは、だけれど。

「足の古傷は? どうなってる?」

「またそんなことを聞くか。大丈夫だと繰り返しているだろうに」

 峰継は呆れた笑みを浮かべる。

「だって、あんなひどい戦い方をしていたから」

「昨日のことだ。さすがに少しは痺れているが、また楽になる」

 ――他人より自分の心配をしてくれ。

 静かな父の言葉に、そうした叱咤が含まれている。

 峰継は、佐奈井の額に手を当てた。息子が相手だからこその、遠慮のない動作。佐奈井にとっては、大きく頼もしい、父のささくれた手の感触が心地よかった。

「熱がある。こんな傷を負ったのだから、仕方がないな」

「よくなる?」

「体が傷を癒そうと戦っている証だ。安静にしていればよくなる」

「そっか」

 父の励ましに、不安が薄らぐ。

 昨日は香菜実を見捨てたと勝手な理屈をつけて、父を恨んだというのに。

 顔がほてるのを感じながら、佐奈井は父の顔を見上げている。かけるべき言葉は浮かんでいるのに、なかなか口から出てくれない。

 峰継は、佐奈井の額から手を離すと、囲炉裏に向かった。囲炉裏には、串に刺して並べられた魚の干物が並んでいる。勝手に食べたらいい、と凍也が用意していったものだ。峰継はそのうちの一本を手に取った。

 佐奈井は、目に涙を浮かべそうになった。

 ――卑怯だ。

 昨日は、ひどい言葉をかけてしまった。あの時の峰継は、右足の古傷の痛みに耐えながら戦っていた。もし無理に香菜実まで助けようとすれば、慶充に続いて父までも犠牲になっていたかもしれない。そうなれば佐奈井だけでなく、園枝や理世も巻き添えになったはずだ。

 父が魚の干物の串焼き一本を持って、佐奈井の元に戻ってくる。息子の傷ついた体をそっと起こした。

 佐奈井の目元から涙がこぼれた。峰継は何も言わず、佐奈井の涙を拭う。佐奈井は、自分の母が死んだ時のことを思った。

 あの時も、父はこんな風に佐奈井の涙を拭った。

「ごめんなさい」

 消えそうな声だが、佐奈井はやっとその言葉を出せた。

「一乗谷から逃れている時のことか」

 佐奈井はうなずく。

 甘えすぎるばかりに、父たちをさらなる危険に巻き込もうとした。

 峰継は、魚の干物を佐奈井に手渡してくる。香ばしいにおいが、佐奈井の食欲をあおった。

「凍也たちが用意してくれた魚だ。腹が空いたら食べろと言われたし、遠慮なく食べたらいい」

 佐奈井は言われるまま、魚の干物かぶりつく。

 よく塩気の効いた味に、佐奈井は、かつて香菜実が食べさせてくれた握り飯を思い出した。具として焼き魚の肉が入っていた。今食べている魚の干物は、それと同じ味がする。よく火が通っていて温かいから、佐奈井の腹の中がほっこりしていく。笑みを浮かべたのは一瞬で……

 佐奈井の目から、さらなる涙がこぼれた。

「香菜実のことを思ったんだ」

 聞かれてもいないのに、佐奈井は言っていた。

「一乗谷の奥に滝があって、慶充に会いに行くたびに、香菜実が握り飯をくれた。あいつよく具に焼き魚入れてきて、それで……」

 平和で穏やかで……無知のままでいられた過去のことだ。その過去には、もう戻ることはできない。

「うまかったのか、その握り飯は」

 佐奈井は、うなずいた。涙が自分の手の上に落ちる。

「香菜実のことは」

 父の口からその名が出た。

「すまなかったと思っている。彼女の兄を守ってやることもできず、一乗谷に置き去りにした。お前がそれを責めるのは当然であって、謝るなんて思ってもみなかった」

「ただの子どものわがままなのに」

 自分が弱いから、大人に頼らないと何もできないから、峰継に当たった。それだけのことだ。

 ――自分の母が死んだ時と変わらない。

「でも、お前は香菜実を助けたいのだろう」

 佐奈井は、うなずいた。誰に何と言われようと変わらない気持ちだ。

「あいつには、必ずまた会う」

 越前国は今や混沌にあえぎ、誰が敵か味方かわからなくなっている。いつ暴動や一揆が起こってもおかしくないし、実際に一乗谷に領民が押し寄せて一揆を起こしたばかり。自分たちの身を守るので精一杯で、香菜実との再会など、かなう要素もない。

 それでも峰継は、佐奈井の決心を止めなかった。

 峰継は右足の膝の上を、軽く二度叩いた。

「この右足の古傷は、慶充をかばった際にできたものだ」

「うん」

 慶充から聞かされたので、すでに知っている。三年と少し前、かつての越前国の領主であり、織田信長おだのぶながに滅ぼされた朝倉義景あさくらよしかげが健在だった時のことだ。織田信長は破竹の勢いで越前の地まで攻め込み、一乗谷まであとわずかなところまで迫ることがあった。その時、同盟を組んだ北近江の浅井長政あさいながまさに裏切られ、兵の大半を失って岐阜まで逃げた。その織田信長をけん制するために、朝倉義景は越前国より南、尾張国まで兵を繰り出すことがあった。

 初陣を迎えた慶充は、現地の村人から襲われた。村人が粗末な短刀で慶充を殺そうとしているところへ、峰継が割り込んで、右足にその刃を受けたのだ。

「慶充は思慮深かった。妹思いで、己の強さに溺れることなく、弱い者たちを助ける。死ぬには、惜しい奴だった」

 慶充の死は、佐奈井だけのものではない。

「それに彼は佐奈井、お前を守った。彼のおかげで、お前はこうして生き延びている。恩を忘れるつもりはない」

「じゃあ香菜実は、助けてくれるの?」

「お前の安全が最優先だがな」

 頼りになる父が、助けてくれる。佐奈井は、喜びで我を忘れていた。思わず峰継に抱きつく。

 いつか背中や肩の傷が癒えたら、父と香菜実を探しに行く。そして香菜実を助け出して、どこかで一緒に穏やかに暮らしていくのだ。

 そんな理想を描くのに夢中になって、佐奈井は気づけなかった。

 峰継の瞳の奥に、無情をいとわない闇が潜んでいるのを。佐奈井に香菜実という希望を抱かせる一方で、ひそかに別のことを考えていることを。

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