哀傷を抱えてもなお――2

 息子が魚の干物にかぶりついた時、笑った。香菜実が作ってくれた食べ物と同じ味がすると。

 笑顔はわずかな間だけで、次には泣き崩れたが、峰継にとっては構わない。一乗谷の悲劇に息子の感情がすべて凍てついたのではないか、と恐れていたから。

 こんな時でも、笑うのは大事だ。状況に飲み込まれて我を失えば、いざという時に動けない。

 まだ息子は、完全に負けたわけではない。

 峰継は動かず、ただ、抱きついてくる息子の体の温もりを感じていた。一緒に香菜実を探すと約束して、息子は純粋に喜んでいる。

 峰継にとって、佐奈井と向き合うのが正直、恐ろしかった。慶充を失って、激昂して刀を振るう佐奈井を止められなかったのが悔しい。慶充を殺した連中を斬り捨てた佐奈井は、あきらかに恐怖におののいていた。仇を討ったのに、救いを求めるような目をこちらに向けてきたのが痛々しく、正直、思い出したくない。

 戦の中で傷や疲労、足の古傷の疼きに負けて、佐奈井に殺し合いをさせてしまった。佐奈井を危険にさらしてはならなかったというのに。結果として、こんな傷を負わせる羽目になった。すべては、自分の失態だ。

「もういいだろう、佐奈井。離してくれ」

 言われるまま、佐奈井は峰継を離した。峰継はそっと、息子の体を横たえさせる。

「佐奈井も、傷はどうなんだ」

「薬が効いていて、あんまり痛まないよ」

 今朝も園枝が、息子の傷口を巻く布をほどき、薬を塗り直してくれたばかりだ。園枝の手際は正確で、佐奈井の顔色も、昨日よりはよくなった。

「父さんは? 傷は痛まないのか……ってさっき聞いたばっかりだね」

 佐奈井は照れた笑みを浮かべる。変わらない。何かあるたびに、無茶ができない父親の身を案じる息子の口癖。

「すぐよくなる、とさっき話したとおりだ」

 息子の心配症はいつまでたってもそのままだ。

 峰継は、佐奈井の体に毛布をかけた。

「いいから温かくして寝ていろ」

 佐奈井は、毛布の端を握っている。

「……眠くない」

 この期に及んで意地を張る息子がほほえましかった。

 ――この度の戦は、息子と関係ない。

 不満の捌け口を求める民衆と、それを利用した一人の男によって始まった、身勝手な暴力の連鎖。巻き込んで、佐奈井まで犠牲にしようとした輩どもが、峰継には恨めしい。

 二度と失敗はしないつもりだった。

 香菜実を利用する形になってでも、佐奈井を守り、生き延びる。

 哀傷に浸っている場合ではない。


 凍也や日向は、あれこれ手を尽くしてくれている。ただ佐奈井たちに寝床を与えるだけではない。食料や薬をくれたりしている。おかげでどんどん佐奈井の傷はよくなっていた。

 今のところ問題なのは……

「ちょっと理世、代わって。私がやるから」

 急に人数の増えた家の中で、日向の声が飛ぶ。今日も一日を終え、夕餉のために大根を切ろうとしていた理世が、日向に止められたのだった。理世の包丁を持つ手を掴み、動きを止めている。

「ちょっと日向、私包丁持っているから。危ないから」

「理世が離したらいいんじゃない。後のことはいいから」

 理世の隣には、凍也がいる。水を張った鍋を温めようと、囲炉裏の火に薪をくべているところだった。

 休ませる、というよりは理世を兄から引き離したいだけだ。意図が見え見えで、佐奈井は呆れながらその様子を見ていた。

「わかった、わかったから手を離してよ。変なところ切っちゃうから」

 理世が包丁から手を離す。

「どいて」

 冷たい声を日向はかける。

「そんなに手伝いたかったら、土間の竈の火でも見たら? ご飯炊いているところ、園枝さん、ずっと見ているし」

 理世を突き放すような言い方。幼さが残ることもあって、露骨だ。離れろ、これ以上兄に構うな、と日向は警告している。

 突如として現れた理世は物腰落ち着いている。それにほっそりとした体躯に、ぱっつりとした黒い瞳によく合う艶のいい長い髪……。理世は、凍也くらいの男子ならば目を引くような魅力を兼ね備えていて、そんな相手に、日向は女の子らしい危機感を抱いている、らしい。

「ささ、早く土間に行って」

「さっきから何を慌てているんだ、日向」

 凍也が、薪を火の中にくべながら呆れた笑みを浮かべる。

「日向はいつもおしとやかなんだがな。あんたらが来てから急に慌ただしくなって、どうしたんだろ」

 凍也は凍也で、慌てる日向や困惑する理世の様子を見て楽しんでいる。

「あたふた日向、おもしろいぞ」

 大根を切り始めた日向は、うー、とうなった。今にも頬を膨らませそうだ。それに頬を赤らめている。

 傍らの佐奈井は、呆れた。

「変な奴」

 つい、思っていることが口から出てしまった。

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