反旗を翻した男二人
香菜実は父
「兄さんがっ!」
戦の混乱の中で、香菜実の声が空しく響く。
佐奈井が背中を切られた。だが生きている。理世の腕の中で、佐奈井は慶充の刀を離さずに握っていたし、
それよりも、
「いい加減にせんか、香菜実。慶充も佐奈井も諦めろ」
篤英が冷たい言葉を放つ。香菜実は父を睨み返す。
――兄さんを見捨てておきながら。
言葉の代わりに、左手を掴む父の大きな手を、動かせる右手で殴りつける。びくともしない。
「いい加減にしろと言っている!」
篤英が頬を殴ってくる。口の中が切れた。血の味がする中で、香菜実は頬に手を当てて痛みに耐える。
「兄さんが……まだ助かるかもしれない」
抵抗とばかりに、香菜実は言葉を絞り出す。今度は反対の頬がはたかれた。香菜実は地面に跪く。
周囲を取り囲んでいる者たちの中に、自分を見ながら笑う者がいる。嘲っていた。きっと彼らには、自分が縄に繋がれながら吠える子犬のように見えるのだろう。だが、どうでもいい。
「申し訳ありません。娘がとんだ無礼を」
篤英が、すぐそばの男に詫びている。香菜実の耳には、奇妙に聞こえた。篤英が頭を下げている男、
「構わん。だが早くおとなしくさせてくれよ」
富田長繁はその口を開いた。
彼には、篤英と似た眼光があった。自らのためならば他者を喰らいても構わない者の目。
目が合って、香菜実は身の毛がよだつ。この男のそばにいてはいけない、と体が警告している。
「思ったより早くおとなしくなったな。この娘をどうするというのだ? 篤英」
「富田様のお好きなように。お気に召せば嫁にでも」
ほう、と富田長繁は頭を垂れる篤英を見下ろす。
香菜実には、手を掴んだままの峰継がおぞましく思えた。やはり父は、どこか自分を売るつもりなのだ。
「その前に、ある言葉が欠けているようだが。前波長俊の家臣篤英よ」
篤英は頭を上げた。
「先走り大変な失礼を申し上げました。この篤英、娘香菜実と共に以降富田様にお仕えします」
「うむ、こちらとて前波長俊に一番矢を放った功に報いるぞ。以後よき右腕となれ」
「はは、ありがたきお言葉。……香菜実、お前も頭を下げろ」
篤英が香菜実の頭を押さえ込む。
「今後において心強いな」
――この男は。
何を始めるつもりだ。香菜実は頭を下げたまま、富田長繁の、まだ若さの残る、血気にあふれた顔を見つめる。民衆を煽って戦乱を引き起こし、多くの犠牲者を出した男。これからもどれほどの血を流していくつもりなのか。
「それより、前波長俊を討ち取った今、ここに長居する必要はない。急ぎ、儂の居城に引き返す。ついて参れ」
「兄さんは?」
香菜実は抗議の声を上げた。
「まだ生きているかもしれない。早く助けないと」
「そんな時間などない」
篤英は冷たく言い放った。
「どうして? 本気で見捨てるの?」
「我々は急いでいる。こんな廃墟となった一乗谷に長居する暇はない」
富田長繁も言い放った。
「嫌!」
香菜実は、腹に衝撃を感じた。目を下げて、父の拳が鳩尾に食い込んでいるのを見る。
呼吸が詰まって、視界が暗くなっていく。だめ、と焦る気持ちをよそに、意識が遠のいていく。
傷ついた慶充を、こんなところで野ざらしにするわけにはいかない。自分が、兄のそばにいてやらねば。傷の手当てをしなければ……。
香菜実の膝が地面につく。前に倒れたところを、篤英の腕が抱える。父の腕の中で、香菜実は目を閉じた。
――佐奈井……
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