反旗を翻した男二人

 佐奈井さないたちが南へ逃げていく。背中を切られた佐奈井は、理世りせに抱えられていた。先頭の峰継みねつぐが、襲ってくる者たちを振り払って、先に進んでいく。

 香菜実は父篤英あつひでの手を振り払おうともがく。

「兄さんがっ!」

 戦の混乱の中で、香菜実の声が空しく響く。

 佐奈井が背中を切られた。だが生きている。理世の腕の中で、佐奈井は慶充の刀を離さずに握っていたし、園枝そのえに預けた後も手や頭が動いていた。佐奈井のことは、峰継や園枝、理世が何とかする。自分がいなくとも。

 それよりも、慶充よしみつだった。まだ死んだと決まったわけではない。生きているならば、早く手当を。ひどい傷を負わされた。何度も矢が刺さって、槍で貫かれて……

「いい加減にせんか、香菜実。慶充も佐奈井も諦めろ」

 篤英が冷たい言葉を放つ。香菜実は父を睨み返す。

 ――兄さんを見捨てておきながら。

 言葉の代わりに、左手を掴む父の大きな手を、動かせる右手で殴りつける。びくともしない。

「いい加減にしろと言っている!」

 篤英が頬を殴ってくる。口の中が切れた。血の味がする中で、香菜実は頬に手を当てて痛みに耐える。

「兄さんが……まだ助かるかもしれない」

 抵抗とばかりに、香菜実は言葉を絞り出す。今度は反対の頬がはたかれた。香菜実は地面に跪く。

 周囲を取り囲んでいる者たちの中に、自分を見ながら笑う者がいる。嘲っていた。きっと彼らには、自分が縄に繋がれながら吠える子犬のように見えるのだろう。だが、どうでもいい。

「申し訳ありません。娘がとんだ無礼を」

 篤英が、すぐそばの男に詫びている。香菜実の耳には、奇妙に聞こえた。篤英が頭を下げている男、富田長繁とんだながしげは、民衆を煽って一揆を引き起こした張本人だ。ついさっきまで領主と仰いでいた前波長俊まえばながとしに矢を放っただけでなく、反旗を翻したこの男を、自らの元々の君主と仰ぐような篤英の発言。

「構わん。だが早くおとなしくさせてくれよ」

 富田長繁はその口を開いた。

 彼には、篤英と似た眼光があった。自らのためならば他者を喰らいても構わない者の目。

 目が合って、香菜実は身の毛がよだつ。この男のそばにいてはいけない、と体が警告している。

「思ったより早くおとなしくなったな。この娘をどうするというのだ? 篤英」

「富田様のお好きなように。お気に召せば嫁にでも」

 ほう、と富田長繁は頭を垂れる篤英を見下ろす。

 香菜実には、手を掴んだままの峰継がおぞましく思えた。やはり父は、どこか自分を売るつもりなのだ。

「その前に、ある言葉が欠けているようだが。前波長俊の家臣篤英よ」

 篤英は頭を上げた。

「先走り大変な失礼を申し上げました。この篤英、娘香菜実と共に以降富田様にお仕えします」

「うむ、こちらとて前波長俊に一番矢を放った功に報いるぞ。以後よき右腕となれ」

「はは、ありがたきお言葉。……香菜実、お前も頭を下げろ」

 篤英が香菜実の頭を押さえ込む。

「今後において心強いな」

 ――この男は。

 何を始めるつもりだ。香菜実は頭を下げたまま、富田長繁の、まだ若さの残る、血気にあふれた顔を見つめる。民衆を煽って戦乱を引き起こし、多くの犠牲者を出した男。これからもどれほどの血を流していくつもりなのか。

「それより、前波長俊を討ち取った今、ここに長居する必要はない。急ぎ、儂の居城に引き返す。ついて参れ」

「兄さんは?」

 香菜実は抗議の声を上げた。

「まだ生きているかもしれない。早く助けないと」

「そんな時間などない」

 篤英は冷たく言い放った。

「どうして? 本気で見捨てるの?」

「我々は急いでいる。こんな廃墟となった一乗谷に長居する暇はない」

 富田長繁も言い放った。

「嫌!」

 香菜実は、腹に衝撃を感じた。目を下げて、父の拳が鳩尾に食い込んでいるのを見る。

 呼吸が詰まって、視界が暗くなっていく。だめ、と焦る気持ちをよそに、意識が遠のいていく。

 傷ついた慶充を、こんなところで野ざらしにするわけにはいかない。自分が、兄のそばにいてやらねば。傷の手当てをしなければ……。

 香菜実の膝が地面につく。前に倒れたところを、篤英の腕が抱える。父の腕の中で、香菜実は目を閉じた。

 ――佐奈井……

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