アシュヴァッタ

杜乃日熊

アシュヴァッタ

 燦々と陽光降り注ぐ丘の上にそびえ立つ大樹の根元。透き通った空気が漂うこの場所で、一人の男が鎮座していた。麻布を簡易的に加工した質素な衣服を身に着けて、髪は粗雑に切られてざんばらになっている。そんな見窄みすぼらしい格好をした男だが、その表情は凛然としている。明鏡止水が如く、一寸たりとも乱れることなく居座ったその姿は、さながら一枚の絵画と化している。男は大樹の幹に背中を預けて、静かに胡座をかいていた。


「いつまでそうしているのだ、お前よ」


 どこからともなく声が聞こえる。その声は男に向けて囁く。


「このような所で何もせずにいるのでは、時間を無為にしているようなものではないか。暇を持て余してどうする。お前にはするべきことが何もないのか」


 ゆっくりと語りかけるようにして、声は男の心を撫でていく。それは甘い罠だった。男の平穏を打ち壊さんと企む、退廃への導き。まともにその声へ耳を傾ければ、人は不安に陥る。何かを為さねばならぬ、という偽物の使命感に駆られて浮き足立ってしまう。そうして、幾数いくすうもの人間が堕落へと引きずり込まれた。


「このような場所で時間を破棄していてはお前の人生には何も残らなくなってしまうぞ。さぁ、早くここから立ち去って、己が仕事に従事しようではないか」


 声はなおも語りかける。高らかに叫ぶ声に対して、男は一切の動揺を見せない。涼しげに閉眼する男。やがて口を開く。


「今はその時ではない。私は今日この時をこの場所で過ごすことに決めたのだ。いわば、ここで座っていることこそが私の為すべき仕事なのだ」


 厳然たる面持ちで主張する男を前に、


「クソっ、なんてお間抜けな野郎なんだ」


 と声は唾棄する。それからしばらくの間は沈黙が訪れた。声の主はどこかへ消えてしまったのだろうか。聞こえるのは風にそよぐ木の葉のさざめきのみ。注がれる陽の光が、男を煌びやかに照らし出す。

 男が座っている傍らへ、密やかに忍び寄る影が一つ。やがてそれは男の面前で立ち止まる。


「ねぇ、そこの御方。ここで何をしていらっしゃるの」


 男の元へ近づいてきたのは、端整な顔をした女だった。切れ長の目元に泣き黒子が一つ。艶やかな黒髪は日に照って輝いて見える。そして、その体には覆い隠す物が何一つとして無かった。柔らかな肌に丸みを帯びたシルエット。それでいて要所要所が引き締まったその身体を、まるで見せびらかさんとばかりの振る舞いだった。

 女は跪いて、男と同じ目線に合わせる。それから無遠慮に迫っては、男の耳元へ唇を近づける。女の肌が、男の体に密着する。


「ここでただ座っているだけでは、刺激が足りないのではありませんか。このように何もない所では、さぞ心も乾いてしまうことでしょう。私でよろしければ、貴方様の心を潤わしてご覧に入れましょう。いかがですか。私の体ではご不満でしょうか」


 女の吐息が男の耳に当たる。しかし、男は動じることなく未だに目を閉じている。


「別段刺激は欲していないさ。それにここには何もないということもない。ここには青空があり、草花があり、澄んだ空気があり、この大樹がある。耳を傾ければ葉擦れの音があり、肌に神経を尖らせれば陽光の暖かさがある。それらに触れるだけでも、私の心は満たされるものさ。あらゆる事物に価値を見出すのは、己の心だ」


 男は諭すように言葉を発する。それを受けて、女は舌打ちをして男から離れる。


「なんてつまらない男なのでしょう。そのような人は体に苔が生えるまでずっと座っていればよろしいのです」


 そして女は立ち去る。遠ざかる足音を意に介さず、男は再び訪れた沈黙に身を任せる。

 どれだけの時間が経ったことだろうか。その間、大樹の枝に小鳥が留まってさえずっていた。奏でられる唄声を聴いて密かに口角を上げる男。安らかな表情へ変わっていく。それから、男の腕に小虫が留まった。男はそれを追い払うことをせず、小虫の好きなようにさせていた。やがて虫は何かを発見したのか、男の腕から飛び去っていった。

 時間の経過は空を見て明らかとなる。それまでパステルカラーの水色を成していた空は、いつしか黒雲に覆われていた。ゴロゴロと不穏な音を立てる。陽の光は途絶え、辺り一面が黒く染められた。その変化を、男は肌感覚で察知していた。

 そして、男の目前に黒い霧が現れる。不定形だったそれは、徐々に形作られていく。やがて形成されたのは、獣とも呼べぬような見たことのない生き物だった。無数の赤黒い触手を携えており、どこに顔があるのか判別し難い。見た目は粘着質で、地面を擦る音までもが粘ついており、音が鼓膜にひっつくようだ。触手の一部が男の顔や腕、脚などを無造作に触れていく。体液のようなものが男の体に垂れ落ちる。


「男よ。一刻も早くここから立ち去れ。さもなくば、貴様の体を締め付けて骨肉を粉砕してくれよう」


 重々しく響く低音の声。それはまるで胃の中を掻き混ぜるかのように体の奥底へ伝わる。そして、そこには紛れもない脅迫の念が込められていた。正体不明の怪物は、頑として動かない男に業を煮やしたかのようで、力尽くでも男を立ち去らせようと画策したのだ。

 触手がうねる。男の体を蹂躙するように撫で回すそれに如何ともすることなく、男は凛として座り続けている。


「そのような脅しには屈さない。暴力というものは、言葉で以って相手を諭すことのできない弱き者の用いる技だ。それを奮うということは、己が弱いことを晒すことに他ならない。その時点で、貴様は私に敗北を喫しているのだ。私は暴力に跪かない。最後まで己が強いことを信じたまま、最期の時まで生き抜く。殺すなら殺してみろ。そうすれば、貴様が私を上回る機会は永遠に失われることだろう」


 語気を強めた男の発言。そこに恐怖は微塵も感じない。それを怪物も察したのか。男に触れていた触手を引っ込めて、徐々に姿を霧へと変えていく。


「なんと強情な男なのだ。そこまでいけば最早常人とは到底呼べない。貴様は狂人の域に達している。そのような生き方をし続けておれば、私が手を下さずともいずれ早死することだろう」


 そして霧は消散していった。それを皮切りに、暗黒の空は亀裂が疾ったように割れていき、やがてそこから青空が顔を出した。再び陽光煌めく風景が蘇る。それを察知したようで、男は深く息を吐いた。

 それからも時は流れて。三度の沈黙を遮るかのように、それは鳴った。グゥ、と鳴ったのは男の腹の虫だった。男は目を開き、それから軽く伸びをする。


「あぁ、どうやら腹が減ったようだ。ならば、今から木の実でも探しに出よう。デカいヤツが生っていればいいのだが」


 よいしょ、と男は立ち上がる。それから体の節々をほぐすように運動を行う。そして、男は大樹の下を立ち去っていった。


 その男は何者だったのか。あの怪物は「狂人」と称した。暇を無為に持て余すだけで、享楽に興じることもせず、己が生命の危機に瀕してもなお行動を起こそうとしなかった。それは確かに奇妙で、不思議で、不可解に見えたことだろう。

 しかし、男は決して気が狂ってなどいない。正常な思考を働かせた結果として、暇を持て余し、欲望を退けて、己が命を顧みなかったのだ。

 それは最早「覚者」と呼ぶに相応しかろう。凡夫具足たる人間の未熟さを熟知し、その弱さを克服せんとする男の生き様。それはかつて、菩提樹の下でマーラを跳ね除けて、悟りの境地に至ったゴーダマ・シッダールタの再来を思わせる。

 あの男こそが、人類を輪廻の苦しみから救ってくれる星の導きなのだ。我々にできることは、彼の御心を識るのみだろう。

 彼が背中を預けたあの大樹は、まさに菩提樹=アシュヴァッタなのだった。

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アシュヴァッタ 杜乃日熊 @mori_kuma

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