幸せの鍵しっぽ

いとうみこと

幸せの鍵しっぽ

 関東で梅雨入りが発表されたその日の夜、私は傘も差さずに家路についた。バイト先のコンビニの前に置いた傘は、帰る時には失くなっていた。隣のビニール傘に手が伸びそうになったけれど、それじゃあ私の傘を盗っていった奴と同じになってしまうと思いとどまった。もしかしたら誰かが間違えただけかもしれないと、ささやかな良心が私を諭した。


 けれど、いざ歩き出すと行き交う人は皆傘を差していて、何だか自分がとても惨めに思えた。誰とも顔を合わさないように俯いて歩き、鬱屈した思いを雨粒と共に道路にばら撒いた。


 私が悪いんじゃないのに、なんでこんな思いをしなきゃならないんだろう。所詮コンビニの傘置き場なんて、お持ち帰り自由と思われてるんだろうな。こんなことなら事務室に持ち込めば良かった。でもそんなことをしたら、あの口うるさい店長が黙っちゃいない。あの男はいつだって目を皿のようにして他人の粗を探してる。どれだけ頑張っても認めてもらえないんだから、頑張るのが嫌になる。そもそもコンビニでバイトなんかしてるはずじゃなかったのに。


 私は高校を卒業して、美容師になるために上京したが、専門学校でいじめに遭い、それに耐えられずに半年でやめた。そのとき田舎に帰れば良かったものを、変なプライドが邪魔をして「何のために上京したと思ってるのよ!」なんて柄にもなく啖呵を切ってしまった。とりあえず食べるためにコンビニのバイトを始めて、今やすっかりそれが日常になっている。もはや本気で美容師になりたかったのかすら自信がない。


 雨は一向に止む気配がなかった。いつも割り引き品を買っているスーパーにも濡れたままでは入り辛くて、そのまま前を通り過ぎて角を曲がった。街灯の消えかけた路地裏に差し掛かったとき、私の目の前で突然小さなダンボール箱がゴミ置き場のゴミの山から転がり落ちた。ダンボール箱はニ回転して私の足元で止まったので、反射的に拾い上げて元の場所へ戻そうとした。そのとき、すっかり水を吸った箱の中から声が聞こえた。そう、これは猫の声!


 私は急いでガムテープを剥がした。中には古びたバスタオルがあって、それもまたガムテープで十字に留められていた。バスタオルの中からは子猫の声が絶え間なくしていた。このまま放置すれば朝には死んでしまうかもしれない。そうしたら、捨てた人の思惑通りゴミになる。そうでなくても、生きたまま清掃車に放り込まれかねない。そんなのひど過ぎる。私はとりあえず箱ごとアパートに持ち帰ることにした。


 バスタオルから出てきたのは掌に乗るほどの白黒の子猫だった。体は殆ど白で頭はハチワレ、背中に丸い模様があり、尻尾は根本から黒くて先が曲がっていた。私の両手に包まれて手足をばたつかせ、みゃあみゃあと必死で生きていることをアピールした。


 私はスマホを取り出すと「捨て猫 保護」で検索をかけた。まずは保温が大切と書いてあったので、新しいダンボール箱に洗いたてのタオルを敷いて、残っていた使い捨てカイロを別のタオルに包んで寝床を作った。牛乳を飲ませてはいけないと書いてあったので、大通りのドラッグストアまで走って、猫用のミルクを買ってきた。レンジで人肌に温めて差し出すと、子猫は貪るように飲んだ。見る間にぺたんこだったお腹が膨れていった。


 その後も母猫を探してかひとしきり鳴いたけれど、じきにカイロを巻いたタオルの上で眠り始めた。私は微かに上下するお腹にそっと触れてみた。柔らかな毛の感触と温もりが私のささくれた心を癒やしてくれた。

 

 私は飽きもせず子猫を見ていた。できるならこのまま手元に置いておきたいと思った。でも、このアパートでは猫は飼えない。獣医さんに相談するか、保護団体に連絡するのがいいんだろうなとぼんやり考えた。


 そのときふと、実家猫のぽん太とハチワレ子猫の並んだ姿が頭に浮かんだ。そうだ、実家でひきとってもらおう。私は妙案を思いついた自分に拍手を贈った。今夜はもう遅いから、明日母親に聞いてみよう。きっと大丈夫。こんな酷い捨てられ方をしたと聞いたら、無類の猫好きの母は承知してくれるに違いない。

 先の曲がった尻尾は幸福を引っ掛けてくるという。

「良かったね、きっと幸せになれるよ。」

私は子猫を起こさないようにそっと撫でた。



 いつの間に眠ってしまったのか、ダンボール箱を抱え込むようにして朝を迎えた。少しばかり涼しい朝だった。窓の外からは相変わらず雨音がしていた。


「おはよう。」


 箱を覗いた私の目に、無防備に横たわった子猫が映った。


 心臓がドクンと鳴った。


「朝だよ、起きて。」


 子猫が返事をすることはなかった。


「なんで?」


 私はそっとその重みすら感じないほどの体を持ち上げた。カイロのせいなのか、それともまだ旅立ったばかりなのか、子猫の体は温かかった。


 ほんの数時間前まで生きていたのに。


 寒かったの?


 ミルクがいけなかったの?


 もっと他にできることがあった?


 世界中で私だけが知っている死。


「ねえ、あなたは何のために生まれてきたの?生まれてきて良かった?」


 私は子猫のためにありったけの涙を流した。



 この子をどこへ葬るべきか、私はすぐに答えを見つけた。

 私はお菓子の空き箱にハンドタオルを敷き、お気に入りのハンカチに子猫を包んで入れた。それからその箱を抱えたまま折りたたみ傘を差して駅へと向かい、電車に揺られて、バスに乗り換えて、久しぶりに山あいの実家に帰った。


 家に着く頃には雨は上がっていた。土間で花屋に卸す花の選別をしていた母は心底驚いた様子だった。私は黙って子猫を見せた。それからこれまでのことを話した。子どものようにしゃくり上げる私の背中をさすりながら、母も一緒に鼻をすすった。猫のぽん太がそんな私に体をすり寄せてきた。


 母が奥から綺麗なチョコレートの空き箱を持ってきたので、私は子猫をそこへ移した。


「ねえ、ぽん太、一緒に見送ってあげて。」


 花に埋もれかけた子猫の頭を、ぽん太は丁寧に毛繕いしてくれた。私はぽん太にお礼を言って、そっと箱の蓋をした。


 裏山の、大きな栗の木の下に子猫のお墓は出来た。蒲鉾板の墓標と線香と猫用ミルク、母が作った小さな花束、ささやかだけれどちゃんとしたお墓になった。ここは実家の動物たちが眠る場所。先代猫のにゃん太も犬のちびもここに眠っている。ここならきっと寂しくない。


 墓標には「しずく」と書いた。この子の生きた証に名前をあげたかった。


「助けてあげられなくてごめんね。」

 

 言いながらまた涙が溢れた。


「しずくは辛いことばっかりだったかもしれないけど、最後にあんたに拾ってもらえたのがせめてもの救いだったんじゃないかしらね。あんたはよくやったと思うわよ。」


 そうなの?しずく。


 私は物言わぬ墓標に問い掛けた。


 私もあなたに会えて良かったよ。

 これからはあなたの分も精一杯生きるね。


 心の中のしずくがみゃあと鳴いた。

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